9.5 - Rin's perspective -


 暗闇に立っていた。
 それは、前も後も、もしかしたら上や下の概念すらない、そんな場所だった。


「――凛」

 まるで鈴の音を転がしたような、そんな美しい声が彼を呼んだ。
 その声を聞くだけで、手が、身体が、足が震える。
 彼自身の魂さえも、彼女のことを何年も何年も、身も裂くような想いで待ち続けていたのではないかとまでも思わせる勢いで、ひしめき立つ。
 恋い焦がれる。
 彼がふと顔を上げると、そこには望んでいた彼女が立っていた。
 ふんわりと巻かれたブラウンの髪に、白い肌。控えめなメイクは彼女にとても似合っていて、嗤うとまた、その美貌が引き立つ。

「――凛」
「紗、音……」

 小さく、彼女の名前を口にすると、彼女はコロコロと楽しそうに笑た。
 それに彼が安心して微笑むと、彼女は一転、苦しそうな顔をした。
 そうして、心臓を抑えるように手を胸に当て、苦しみだす。

「紗音!!」
「うぅ……凛……」

 抱きしめようと、手を伸ばしても、届かない。
 それにつられて彼も前に進むが、彼女はどんどん彼から遠ざかっていく。


 ――俺のせいだろう。


 彼は一人だった。
 そこには、暗闇が広がっていた。
 さっきまで、彼女がいたはずなのに。楽しい時を過ごしていたはずなのに。


 ――俺が、彼女を愛さなければ。


「それはちがうよ」

 後ろから、声がした。
 彼女に、似ている。でも、確かに違う、凛とした声。

「あなたのせいじゃない」
「でも、俺は……」

 振り向くと、ボサボサの髪をした少女が立っていた。
 強い眼力で、彼をじっと見つめている。
 そして彼女はにっこりと微笑むと、ふいに彼の手を取った。

 その、瞬間、ぱっと景色が変わる。
 同時に、目の前に立っている人物も変わっていて、

「だってあなたのおかげで、一番大切なことに気づけた」

 黒いショートヘアの彼女は、普段釣り上げている目を優しく細めると彼の顔に口を近づけた。
 彼が呆然としているすきに、彼女は自らの唇を彼の頬に押し当て、恥ずかしそうに一言――――





「――――日向!!」
「――!?」

 自分を呼ぶ声に、俺は飛び起きた。
 目の前には修学旅行で一緒の部屋になった男子が眉を寄せて立っていた。

「お前いつまで寝てんだよ。もうすぐ先生来るぞ」
「あ、うん。ごめん、今何時?」
「は? 六時半だよ。昨日の話聞いてただろ」
「六時、半……」

 当たり前のようにそう口にした同級生の言葉に苦笑する。

 ――確か、昨日は消灯十時だったよな……。

 規則正しすぎる制限に頭を掻く。
 これはなかなか、元不良には堪える習慣だな。

 悶々とそんなことを想いながら準備をしていると、ふと夢のことがよみがえってきた。
 浜辺でキスされた頬を触る。

「完全に、不意打ちだったなー」

 そういうことはできない子だと思ってたけど……、夜になると雰囲気が変わるタイプなのだろうか。
 そういえば灰狼町で夜に何度かあったが、その時はいつにもまして色っぽかったような……。
 そこまで考えて、俺はぶんぶんと頭を振った。
 タイミングよく、転校してから何回か話し親しくなっていたクラスメイトが部屋まで俺を呼びに来た。

「日向ー、朝食食べに行こうぜ」
「あー、今行く」

 蒼一にいたころには絶対にありえない光景だなと自嘲して、俺は彼の元へ駆けて行った。





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