急がば回れ、珈琲を一缶



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「じゃあまたね、お嬢。次に来た時にはまた、素敵な話を聞かせて欲しい。」

 お酒でだいぶ出来上がってしまっている女性にひらりと手を振り、会計に向かう彼女を背にCLAIRは席を立った。上等なソファの肌触りは、どうも自分には馴染みがない。安い勉強机に付属した椅子のギシギシとした微妙な座りづらさが、なかなかに恋しかった。
 ホストクラブ・キノタケの煌びやかな店内は、今日も今日とて人々の愛憎と声、声、声が飛び交う。その全てを、苦みを含んだ蜂蜜のような瞳は眺める。

「ちょっと休憩に行くから、指名があったら呼んでくれるかい?」
「承知。」

 偶然近くを通りかかった、長い白髪を頭の高い位置で一本に結った黒服に声をかけ、クレールは店内を後にする。少し喧騒から離れ、涼みたい気分だった。途中で適当に買った缶珈琲を片手に、ふらりと甲板へ出てきたCLAIRは、プルタブを引き抜きながら欄干に身を預けた。思い出したように珈琲を一口含んで、夜闇に染まった空を眺める。どのくらいそうしていただろうか、温かった珈琲がすっかり冷めきってしまった頃、ふと背後から足音がした。

「よ、"CLAIRサン"。」
「おや店長、末席ホストに何の御用だい?」
「いーや、休憩さ。どうだい、ホストのお仕事は。」

 後ろからポン、と肩に手を置かれ、おどけたようにCLAIRは笑って振り返ってみせた。背後から差した影の正体は、この店の店長。髭の生えた顎を掻きながらにっかりと笑うその顔は、自分の知り合いに似すぎるほど似ている。それが偶然なのか、はたまた本人なのかは自分の知るところではない。もっとも、この状況下では、そんなことは些細な問題である。相手が自分を知っていようがいまいが、ここは夢を生む、夢の中のような場所だ。自分が「彼を知っていると思っていること」自体、疑うべきことなのかもしれないのだから。まるで大哲学者の誰かの様に、思考している自分のみが、今この瞬間に信じていいものなのかもしれない。我思う故に我あり、ならば自分が思考を放棄したならば、自分という矮小な存在など塵芥の様に消し飛ぶのか、と思ったこともある。この世のものは何もかも、疑うべき真っ白なピースで組みあがったパズルなのだ。故に名を聞こうとも思わない。自分の名を自ら名乗ろうとすることもない。それが、丁度いいのだろう。
 店長は甲板の欄干に寄りかかり、あー、だのうー、だのと気の抜けた声を発している。その隣でCLAIRは身を斜めに乗り出し、黒い水面を眺めた。揺れては水底に引き込まれる泡が不規則に形作る模様を見ながら、特に喋る気はなかったが口を開く。これは昔々からの、自分の癖だ。

「お疲れかい、店長?」
「店長がお疲れじゃねぇ時はねーのよ。どうよ、調子は?」
「はは、ぼちぼちってところかな。なかなか思うようにはいかないものだね。」
「へーェ…。お、それ新発売の微糖珈琲じゃない?味どう?」
「微糖とは名ばかりの無糖だね。冷めたら普通の珈琲さ。」

 何が、とは言わないまま、そんな他愛のない会話をする。相手の望むような言葉、相手に気を使わせない言葉、他にも数えきれないほど。言葉はいつだって、場と空気と心情に応じた使い分けが必要なのだ。
 思うようにはいかない、それは本当だ。まだ焦るときではないにせよ、いつだって人生はそうだ。ぐっと飲み干した苦い珈琲は、どことなく懐かしい味がした。

「まぁ、アンタも楽しんでいってくれよ?お客サンが楽しむのはもちろんだけどな、人生は楽しまなきゃ損だゼ。」
「それはそうだ。お疲れ店長の言葉はしっかり気に留めておくよ。」

 いつものような愛想の良い笑みは、意識しなくても浮かんでくれる。
それじゃあね、と店長に声をかけ、CLAIRは喧騒と絢爛の真中へまた戻っていった。


――


 有益な情報は無し。手の内を広げる必要があるだろう。
 だが人生は急がば回れ、だ。


以上



*


霧生れきみさん宅、店長さんをお借りしました。
都合が悪い場合パラレルにしていただければと思います。


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