「呪いは、未だ解けていません」
目の前に座る、女性癒者が事務的に現実を述べた。場所は聖マンゴ魔法疾患障害病院五階。専門は呪文性損傷を取り扱う階。
「Ms,クルタロス。次はきちんと定期でいらして下さい」
そんな癒者の声を後ろに、無言でドアを閉める診察室を出て、会計をする前に移動。目的地は2階生物性傷害。到着したのは「危険な野郎」ダイ・ルウェリン記念病棟。
病室に、アーサー・ウィーズリーの名前。慌ただしく癒者が出入りしていた。誰にも衝突しないよう潜り込む。まだ見舞客が来ていない時間らしい。僥倖。ベッドには青白い顔のアーサー・ウィズリーがいた。闇の帝王の蛇に噛まれたという患者。音も声も経てぬよう近づいて、傷口を見た。未だに出血が続いている。それに呼吸がおかしい。毒が未だ体内で暴れている。ベッドサイドでは止血に使われたらしい、血塗られたガーゼ。ちょうど、良い。
ローブに閉まっていたビーカーに使用済みガーゼを詰め込み、壁際まで下がった。癒者の邪魔をする気はない。彼らはひたすら、止血を試みていた。魔法、魔法薬を使いながら。時間が経てばアーサー・ウィーズリーの顔色も良くなってくる。十分だ。これ以上いたら見舞客が来る。そっと、退室した。
デパートを出て、不気味なマネキンを通り過ぎる。人の目は誤魔化せても、この人形の目は誤魔化せなかった。用事は終わった。戻ろう、と屋敷の方向に足を踏み出した瞬間、その足を通行人に踏まれた。
そういえば、最初はスネイプが足を踏んづけたことで生まれた縁だった。
「偶然とはおっそろし」
おっと。この世に偶然はなく、あるのは必然だけというのは、東洋の魔女の言葉であったか。とりあえず、さっさと帰ろう。
◇ ◇ ◇
アーサー・ウィーズリーが毒蛇に襲われてから数週間がたった。憂いの篩(ペンシーブ)の中に、ハリーはいた。おそらく、スネイプが授業前にいつも隠していた記憶の中だ。スネイプが自分に見られたくなかった記憶。昔のホグワーツ。そして、ハリーの目の前で黒髪の少年が同世代の少年二人にからかわれ、悪態をつかれ、つるし上げになっていた。少し離れたところでは、ただ見ているだけの少年たちもいる。そして、主に黒髪の少年をつるし上げていた人物が自分に似ていることに、ハリーは気付いてしまった。
騒ぎが終息に向かったとき。髪もローブも乱れさせた黒髪の少年が、足早に中庭から立ち去ろうとして、急に躓いた。
「な、なんだっ」
「…いっ…」
少年も、そしてハリーすらも、誰もいないと思っていたところからのかすかな悲鳴。少年が蹴躓くまで気付かなかった存在。少年の足元に、少女が倒れこんでいた。
少女は、少年が近づいてきても視線すら向けずに立ち上がろうともがいていた。近くには教科書が転がっていた。読書でも、していたのだろうか。そんなときに、(おそらく)父親たちの騒動に、巻き込まれたのか。ローブには、多分くそ爆弾らしき残骸が付着している。動けず、汚れて、悲惨なありさまだ。別に物陰に隠れていたわけではないのに、その存在に気付けなかった。ひどく気配が希薄だ。そして、誰か分からない。分かるのは少年と同年代で緑のネクタイ。スリザリン生であること。
「す、まない」
少年が小さく謝罪した。おそらく先ほど躓いたのは少女の脚。しかし、少年の謝罪に少女は無反応。ただ、立ち上がろうともがく。不自然に、足が硬直している。たしか、あの呪いは。
「足縛りか」
そういえば、先ほど少年たちの諍いで、呪文の打ち合いがあった。無造作に放たれた呪文の一つが、足縛りであった気がする。
「フィニート・イン カンターテム(呪文よ、終われ)」
少年の杖の一振りで呪いが解除される。少女はかすかに、動けるようになった自らの足を見た後、ゆっくりと立ち上がって教科書を拾い上げた。そのまま、どこかに行こうとする。
少年は、若かりし頃のスネイプはそんな、何も言わず何もしない少女を唖然と見ていた。
「グリフィンドールのせいであろう」
「…」
「何故怒らない」
「…」
「何故恨まない」
「…」
「何故、助けを呼ばない」
何も言わない。やっと気づいた。彼女の目はうつろな瞳。見てるようで見ていない。どこにでもいるようなのに、どこにもいない。少女は無言で教科書に目をやった。読書を再開するらしい。遮ったのは、少年だ。
「おい」
学生のスネイプが無理やり本を取り上げようとすると、やっと少女が反応して逃げた。まるで小動物が飛び跳ねるようにスネイプの手から逃れ、距離をとる。警戒する瞳だ。そして恐怖もある。スネイプが小さく舌打ちした。眉間の皺が深くなる。
「わかった。触れない」
少女はしばらくスネイプをじっと見て、ゆっくりと校内に戻っていく。そのあとをスネイプも距離を置いて歩き始めた。ただ呆然と、ハリーは見送った。スネイプが、あのスネイプが優しい?
父親の暴挙と言い、少女に対するスネイプの態度と言い、衝撃が多すぎる。
そして、現実に戻ったハリーを待っていたのは、これ以上ないほど顔を歪めたスネイプの形相であった。