何がいけなかったの?
王子に恋した人魚姫がいけなかったの?
人魚姫に足を与えた魔女がいけなかったの?
隣国の姫と結婚を決めた王子がいけなかった?
それとも……誰も悪くなかったの?
***
緑豊かなイングランド北部の田園地帯。喧騒としたロンドンとは大きく異なるその地には、ゆったりとした時間が流れていた。
屋敷の窓から長閑な景色を眺めながら、ここら一帯が全て、およそ穏やかな風景に似つかわしくない”彼”の領地なのかと思うと、いつ来ても不思議な気分だった。
「傷痕、残らなくてよかったですね」
バスルームの床に跪いて、マダムレッドに教わった通りに彼の右腕に巻き付いた包帯をほどいていく。
バスタブの縁に腰掛けた屋敷の当主は、その様を一瞥したがすぐに目を背けて息をこぼした。
『この程度、大したことないよ。だいたい二週間も安静にしろだなんて、大げさなんじゃない?』
バッキンガム宮殿の襲撃事件から七日後……
病院を退院したグレイは女王陛下から二週間の休暇をもらい、療養のため本邸である田舎屋敷に帰省した。
しかし、田舎ではなかなか医師が来られないため、こうして名前が毎日グレイの包帯を交換していた。
「久しぶりにゆっくり休めてよかったじゃないですか」
新しい包帯を巻くために、グレイは上半身を剥き出しのままにしていた。
痩身ですらりとしているが、ガリガリというわけではなく程よく鍛え上げられている。
普段、武官として闘いに身を投じてるはずなのに彼の身体は白く、傷一つなく輝いている。
それは剣士として彼の強さを物語っていた。
「……それで、クレメンティア様のことはどうするつもりですか?」
名前の言葉にグレイは意外そうに瞳を丸めた。
『あれ?君は鈍そうだなと思ってたんだけど、気付いてたんだ?』
当主の負傷により、公爵令嬢の護衛と持て成しが難しくなったため彼女は帰国まで王宮で預かることになった。
今回の襲撃事件で有耶無耶になってしまったけれど、彼女の来英の目的はグレイとの縁談だった。
結局、公爵令嬢から話を切り出すことはなかったけれど、ヴィクトリア女王はこの縁談に対してやぶさかではない。
『そうだなぁ……君はどう思う?』
試すような表情で見下ろされ、名前はふいにその視線から目を逸らした。
「……私が決めることではありませんので」
グレイの無事に安堵して泣いてしまったあの日以来、名前はまともに彼と顔を合わせることができなくなっていた。
(クリスマスの夜にキスをした後は普通に過ごせたのに……まさか、キスよりも泣き顔を見られたことの方が恥ずかしいなんて)
意外にもグレイがその日のことを触れてくることはなかったが、退院して本邸に来てからというもの気まずい気持ちを抱えたまま彼に接していた。
そんな名前の心境も露知らず、屋敷の当主は『可愛くないなぁ』などと軽口をたたいている。
「それより、明日は13時にお医者様が検診にいらっしゃるので昼食もほどほどにして頂かないと……」
グレイの言葉を振り払うように、床から勢いよく立ち上がろうとすると……
(あっ……!)
立ちくらみに加え、つるりとしたバスルームの床に足を滑らせた。
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