お前との初めての喧嘩


食事を終わらせると、ルイスの持ってきた論文に目を通し始める。
その間に名前は話すつもりなのかコーヒーをルイスに渡し、ルイスの目の前に座りだした。

「ルイス先生。私たち、看護師のことがお嫌いですか」
「ああ」

ストレートな質問にストレートに返す。
冷房はいれているのだが、何故か一気に部屋の温度が下がった気がする。

「先生の好き嫌いは特に気にしませんが、せめて仕事中は少し自制していただけませんか」
「…そんなことをすればお前たちはつけあがるだろ」
「つけあがる…?」

ルイスの言い方に名前の眉間に皺が寄った。
あそこまであからさまに嫌な顔、久しぶりに見たな。
出会った当初はしょっちゅうされていたが。

「調子に乗るだろ、お前たちナースは」
「…調子に乗るとは?言っておきますが、ナースも医師も立場は対等です。格下に見られても臨床経験は」
「対等?はっ!冗談は顔だけにしろ」

思わずおれの米神に青筋がたった。
口を開きかけたが、名前に睨まれて仕方なく開きかけた口を閉じる。
黙らせるためにぶん殴りてェぐらいだ。

「では、逆に医師だから何が偉いのですか」
「お前らはメスを持てない」
「…そうですね」
「挿管も出来ないし、処方も出来ない。そもそも法律に“看護師は医師の指示のもと、医療処置を行う”とある。つまり、お前たちは医者が居なきゃ何も出来ないんだろ」

名前が無表情のままルイスをじっと見つめる。
論文なんざもう頭に入ってくることはなく、おれの耳は完全に二人のやり取りに傾けていた。

「はっ。ほらな?何も言い返せないだろ」
「言い返せない?笑わせないでください。小さな子どもに好き嫌いはなぜいけないのか、分かるようにどう説明したらいいのか考えていました」

初めて見る名前のキレている姿に驚いて声も出ない。
バーキンはコイツはキレると先生だろうが誰だろうがズバズバと臆さず言うところがあると言っていたが、間違いなくそうだ。
何年目の看護師だろうと、相手が医者というだけであまり強く言うナースは居ないが、名前はものすごい嫌味を流暢に、何の躊躇いもなく言ったのだ。

「なっ、んだよそれ…」
「ドクターがオペ前の準備やオペ後の観察まできっちりやりますか?退院指導をしますか?お食事の介助やおトイレの介助もしますか?」
「っ!ならナースはオペ出来んのか?!」
「出来ません。資格が違いますから」
「ほらな。医者になるためにどれだけ大変か分からないだろう。看護師の勉強はどうだ?医者より楽だろ?」

名前が黙り出して、おれは論文をテーブルに置くと口を出そうとした途端、名前がおれのほうへ手のひらを見せてきた。
…黙ってろっつーことか。

「その通りです。看護師の国家試験と医師の国家試験、レベルは違うの分かってます」
「学費の額も段違いだ」
「もう資格を言い合っても法律の問題になるので質問を変えます。先生はなぜ、看護師が嫌いなのですか」
「だから…」
「つけ上がると思ったきっかけを教えて下さい。ルイス先生のことが知りたくなりました」

その言葉に今度は名前にイラッとした。
おれだってそんなこと言われたことない。
とんでもない口説き文句を言い始めた愛おしい彼女はおれではなく、ルイスしか見ていない。
そろそろ、こちらも我慢の限界だ。2人で勝手に言い合いやがって。

「…」
「…」
「おい、もういいだろ」
「良くありません。それともトラファルガー先生も看護師なんかとお考えでしょうか」

しまった。名前の怒りの矛先がこっちに来た。
喧嘩などサラサラする気はない。
だが、正直ナースを全く馬鹿にしていないかと言われたら返答に戸惑う。
名前は立派ないいナースだとは思うが、色んなナースを見ているからこそなんとも言えない。

ということを考えていたのを察したのか、名前は立ち上がった。

「もういいです」
「いや、そうじゃねェ。色んなナースがいるから」
「ドクターも色んなドクターが居ますからね。もういいです」

そう言いながら寝室の方は向かった名前にため息をついて、腹立つぐらい嬉しそうにしているルイスをみて更に深いため息をつく。
誰のせいでこうなったと思ってんだ。

「トラファルガー先生。ナースと付き合うのはやめた方がいいですよ」
「余計なお世話だ。別にナースだからアイツと付き合ったわけじゃねェ」
「でも、上手くいくわけありません」

もうコイツに何を言っても無駄だ。
ドアの開く音がしてそちらをみれば、着替えて何やら荷物を持った名前が素知らぬ顔で玄関に向かうのが見えて慌てて腕を掴む。

「待て待て。その荷物は何だ、どこ行くつもりだ」
「ちょっと頭冷やしてきます」
「冷やすって…待てって。お前が出てくぐらいならお前の気が済むまでおれが出て行くから」
「いえ。ルイス先生、泊まってってもいいと思います。ドクター同士お二人でどーぞごゆっくり」

手をはたき落とされ、おれは呆然と見送ってしまった。
玄関の鍵が締まり、おれはすぐに携帯で電話をかける。
こんな喧嘩はごめんだし、彼女一人でどこへ行こうというのだ。
もう遅い時間でこれからネットカフェやホテルに泊まるにしても危なすぎる。
携帯をかけながら上着を着て、車の鍵を捜したがどこにも見当たらない。

「トラファルガー先生。今夜、泊ま」「ダメだ」

言い終わる前に却下する。
というか誰のせいでこうなったと思っているんだ。
車の鍵が見つからず苛々していると、やっと名前は電話に出た。

『はい』
「どこ行くんだよ」
『友人に電話したらお泊りの許可でたので友人の家に泊まります』
「どこにあんだよ」
『放っておいてください。ちなみに車の鍵は先生の枕の下にあります』
「は?」

なんて奴だ。
おれにすぐに追いつかれない様にここでタイムロスを企むとは。
携帯を片手に枕を退かしてみれば、確かにおれの車の鍵と家の鍵が置いてあった。

「なあ、おれが悪かった」
『別に先生は悪くありません』
「ならなんでそんな怒ってんだよ」
『…もう切ります。明日病院で』
「あ、まっ…切りやがった」

携帯をベッドにぶん投げて苛々しながらリビングへ戻ると、優雅にコーヒーを飲んでいるルイスの目の前に座る。

「ナースと付き合うと碌なことになりませんよ。苛々しますし」
「今の今まで苛々したことなんざなかったが、てめェのせいで初めての喧嘩になった」
「この程度で喧嘩になるんですから、それまでってことですよ」

盛大な溜息をついて放り投げていた論文を手に取る。
とりあえずこれ読んで帰らせて、ゆっくり電話で話すか。
あんな怒らせてしまうとも思わなかったが…あんなに怒ることか?

「ナースっていうのは悪魔ですよ。誰が白衣の天使などと言い出したのか…白衣の悪魔ですよ、奴らは」
「だから何でそんなナースを嫌ってんだよ」
「…今夜、泊めてくれます?」
「………分かった」

仕方ねェ。
コイツからアイツに謝らせるようにして…コイツの過去に興味は一ミリもないが。
明日は早めに出勤して名前と話して、早く仲直りがしたい。

おれは冷めてしまった名前の飲みかけのコーヒーを飲みながら、目の前の喧嘩の元凶のつまらない話しを聞くことにした。

「もう分かっているかもしれませんが、僕には看護師の彼女が居たのです」
「…それで」
「医学生の時からずっと付き合っていた彼女だったんです」

医学生からというと相当な年月付き合っていたな。
まあ、どうでもいいが。

「看護師って医者よりも早く臨床に出るじゃないですか」
「国家試験受かったらすぐ出るからな」
「彼女のが先に働き出して、後からおれも研修医として臨床に出たんです。ただ、もうその時には彼女は臨床に出て3年経っていたんです」

看護師は早くて3年でなれるが、医者は早くても6年で国家試験だ。
それから2年の研修が始まり、医者になれる。
3年も早く臨床に出てれば確かに彼女の方が実践経験を積んでいるわけだが…互いにプライドが高ければそりゃ上手くいかねェな。

ルイスは飲み干したコーヒーを置いて、片手で頭を抱えた。

「頭では分かっているんです。彼女のが3年も現場で働いているのだからおれより病棟のことを知っていて、その間に色んな症例を現場で目の当りにしてきて。でも、おれはこんだけ勉強して医者になったのだから…。そう思ったら彼女の一言一言に腹立つようになったんです」
「…」

おれはアイツの言葉にイラッとすることはないけどな。
ああ、先ほどの話しを聞かないで出ていったことにはさすがにイラッとしたが。
だが、仕事の話しで喧嘩をすることはなかったし、アイツの意見に否定的になることもなかった。

要はやっぱり性格の不一致なんじゃねェかと思う。
おれ達は相性が良かっただけで…体の相性も悪くねェし…あー、キスしてェ。

「トラファルガー先生?」
「…それで続きは」

どうでもいいが、早く終わらせたい。
そう思い、ルイスに話しの続きを促した。

「それである日、大喧嘩した時に彼女が“医者よりも看護師のが給料も安いのに大変だ”って言ってきたんです」
「…そりゃあ違うだろ」
「そうですよね!!医者だって大変なんですよ!!」
「…まあ、看護師は医者がどんな仕事してんのか知らないんだろ。腹切るだけじゃねェし」

名前が居たら絶対に言えない言葉を言えば、ルイスが嬉しそうに顔を上げた。

「そこですよ!さすがトラファルガー先生…それで病棟でも医者と看護師が対立しちゃって別れたんです。辛かったですよ…何せ8年の付き合いでしたから」

8年…そりゃあ気の毒だな。
おれはそんな喧嘩しようが対立しようが別れる気はさらさらねェが。
向こうが別れを切り出そうが受け入れる気もねェ。

…しかし、少し不安になってきた。
今回の喧嘩はささいなことではあったが、あそこまで名前が怒ることはなかった。
まさか明日、別れを切り出されたりしないよな…。

「トラファルガー先生。お付き合いしてそんな長くないのなら早く切っちゃったほうが傷は浅くて済みますよ」
「馬鹿言え。別れる気はねェし、アイツ落とすのにどんだけ苦労したと思ってんだ。今更手放す気は一ミリたりともねェよ」

おれの言葉に不満そうに顔を歪めるルイス。
別にコイツに付き合いを認めてもらう必要もないし、ここまで根強い看護師嫌いの奴に無理やり仲良くしろと言うのも面倒だ。
もうこのままおれがフォローしていけばいい。

そう思いながらその日の夜はルイスの論文を読み、ルイスの看護師への愚痴を聞きながら名前からの連絡を待つことにした。







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