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第3話 甘匂



院の子供たちが暮らす宿舎と、院長先生が普段の仕事を行っている教会は、渡り廊下で繋がっている。

決して長くはないその道のりが、今はなぜだかとても遠いように思えた。
教会へ繋がる扉のノブを握れば、一枚隔てた向こう側から、男の怒号のような荒げられた声が聞こえてくる。
全くもって、不快極まりない。小さい子達が泣いてしまう。

「院長先生。」

潔く扉を開き、務めて冷静な声色で声をかける。

「ユリちゃん……。」

院長先生は、随分と温和で争いごとの嫌いな人だ。ロザリオを揺らしながら、困ったように白髪混じりの髪を掻き、眉尻を下げ、こちらを振り向いている。
今日は、中にまで入れてしまったか。

フェンリルのマークがあしらわれた、白い制服を身にまとった男二人。奴らの汚い足で、教会の床を踏まれていることに嫌悪感しか浮かばない。
今朝も早くから、下の子たちが一生懸命に拭き掃除をしていたというのに。

「本日は一体どのようなご用件でしょうか。」

かつかつと、床を打ち鳴らし、嫌悪感満載で尋ねる。
すると奴らは下卑た、気持ちの悪い笑みを貼り付け、舌でねぶり回すような、ねちっこい声を上げる。あぁ、胸糞が悪い。

「いやねぇ、以前から申してましたとおり、契約金を頂きに来たんですよ。」

「早く払っていただかないと、そちらが困ることになるんですがねぇ。」

いやらしい笑いを貼り付けたまま、仰々しく肩を竦めてみせるヤツら。
そう、以前からこの男達はなにかとこの教会に足を運んできていた。
男達のいうことによると、最近増加傾向にあるアラガミ信教の教会を排除していくべく、フェンリルの役員達が居住区内の各教会に訪問しているんだとか。
そして、フェンリルからの運営許可を受けるために、契約金なるものを支払えと宣ってきたのだ。所謂、ショバ代、というやつだ。

「その事でしたら、以前にもお話しましたとおり、この教会はキチンと個別で、フェンリルに許可を頂いて運営している教会ですので、そのようなものを重ねてお支払いする必要はない、と申しましたが。」

そう、この教会は十数年前に、フェンリルに正式に申告し、孤児院営業と教会業務に許可を貰っているのだ。
それなのに、こんな契約はお門違いというもの。

「いえいえ、それとは別の件となっておりまして。」

「こちらをお支払い頂かないと、貴教会はフェンリルにたてつく一派だと、そう判断されてしまいますが?」

全くもって信用ならない。それなら契約書のひとつでも持ってこいという話である。
それに、こいつらの話は初めからなんだから二転三転しているような気がしてならない。
子供ばかりだからといって、舐めないでほしいものだ。

「ですから、以前から申し上げておりますとおり……」

このやり取りも、もう何十回と繰り返してきた。こちらとしても辟易としているのだ。今日はいつまで居座るつもりだ?一時間か、二時間か。はたまたそれ以上か。

これから繰り広げられる不毛なやり取りに、今からうんざりしかけた時。

「困りますねぇ。こちらとしても、随分と好条件を提示させていただいているつもりなのですが。」

やけに達者に回る口ぶりそのままに、男の一人が胸ポケットからタバコを取り出し、火をつけた。
まずい、ここは室内だ。


実の所、私は生まれつき肺が弱い。
家族たちのように、私が出払えないのもこのことが関係している。走ったり、風邪をひいたりすると、過呼吸のような症状が出てしまう。密室空間でタバコを吸われるのも、たいへん辛い。喉に煙が絡みついたようになってしまい、咳が止まらなくなる。
こんな辺鄙な外部居住区では、タバコなんて高級品、吸う人は早々いないものだから、近頃失念していた。

「すみませんが、タバコは……」

窓を開けて、少しでも煙を紛らわそうと移動しかけた時、後ろで心配そうにやり取りを見守っていた院長先生が、私の気付かぬうちに、男達の目の前へ移動していた。

「申し訳ありません。」

そして、息もつかせぬ間に、男の手からまだ一口も吸い上げていないタバコを取り上げ、捻り潰した。

「教会内でのタバコはご遠慮ください。」

先程までのおどおどとした気弱そうな雰囲気はどこへやら。
男は一瞬、理解できないとでも言うように呆然とした後、院長先生が完全に火を消したタバコをゴミ箱に捨てる姿を見て、その意識を引き戻してきた。

「おい、テメェっ!!こっちが下手に出てりゃあいい気になりやがって!!!それ一本がいくらか、テメェに分かってんのかよ、おぉ?!!」

はしたなく声を張り上げながら、院長先生へ距離を詰めていく男たち。なんだか、様子がおかしいような。なんだろう、二人共少し顔色がおかしい。

「契約金と、そいつの弁償代、払ってもらおうか。なぁ。」

「払えねーっつーんならよぉ。ガキども数人寄越せば済む話だろぉ。あぁ、アソコのねーちゃんでもいいぜ。あれぐらいの年頃の女なら、高くで売れる。」

男の一人が、舐めまわすようにこちらに視線を向ける。ぞわりと、何にも形容しがたい悪寒が走る。

「お支払いは出来ません。子供たちをお渡しするつもりもありません。」

先程まで、困ったように眉根を寄せていた人とは思えない凛とした声が、教会内に響く。綺麗に澄んだ声だ。
その声を聞いた途端に悪寒が引いていくのが、はっきりと分かった。

「そうかよ……」

気でも狂ったように、二人揃って高笑いを重ね合わせながら、ゆらりゆらりと、体を揺らす。
なんだろう。すごく嫌だ。嫌な予感がする。
消しきれなかったのか、フワリと、奴らの吸っていたタバコの煙が流れ匂って来た。
ん? これは……。
微かに嗅いだことのあるその匂いが、私の記憶をまさぐる。独特な甘ったるい匂い。

「煙草じゃない……これはっ!先生っ!」

引き出されたのは、スラム街の阿片窟の前を通った時の匂い。こんな世界なのに、人というものは苦しみから開放される手段として、いつの時代もクスリというものが手放せないらしい。
あんな一時の快楽のために高い金を払う彼らの意味が、幼心ながらに分からなかった。

こんな貧困層にも、クスリは出回ってきているのだ。つまりはやつらのところにも然り。
それに気づいて、院長先生に警告の叫び声を上げたときには、もう奴らの手は伸びていた。
そばの机に置いていた、ミサ用の赤ワインの瓶。そうそう高価なものを購入できる訳では無いので、少量の小さな瓶だが。だが、力を込めれば人一人簡単に撲殺できるくらいの強度と硬度はあるだろう。

「一回痛い目見せねーと分かんねぇみたいだなぁ!!!」

「先生っ!!!」

振り下ろされた瓶は、ステンドグラスからの朝日をやけに反射していた。刹那届いたのは、耳を塞ぎたくなるほどの鋭いガラスが砕け散る音。追いかけるように、院長先生が倒れ込んだのが見えた。

「先生っ!!!!」

男達なんて関係ない。夢中で駆け寄ると、倒れ込んだ院長先生は、額からドクドクと血を流していた。辺りにワイン瓶の破片が飛び散っている。頭を殴られたのだろう。何のためらいもなく人の頭を打ち殴るなど、正気の沙汰ではない。
男達の方を見上げれば、息遣いは荒く波立ち、瞳孔も開いている。やはり、彼らはクスリの中毒になってしまっているのだ。

「てめぇもだ…………」

めちゃくちゃな見込みで振り回される、かけた瓶。避けようとするが、院長先生の身体の事が脳裏をよぎった。ヘタに避けて、院長先生の怪我に何かあってはいけない。そう思って、避ける体の反応が少し遅れてしまった。

「……っ!……」

かすかに額をかすった。鋭い痛みと共に、視界が赤く染まる。額が切れたのだろう。まずい。このままでは、私も院長先生もどうなるか分からない。

「避けたなァ…………?」

「なまいきなんだよぉぉ!!!」

がちゃんと、放り捨てられた瓶の代わりに飛んできたのは男の怒号とともに放たれた拳。
ダメだ、よけられない。血が流れて頭が朦朧としている。
あぁ、どうして気づけなかったんだろう。こんなにも、奴らは吐き気を催すほど、甘ったるい匂いを身体中に纏わせていたのに。ぼんやりと回らない頭でそんなことを考えた。せめて院長先生だけでも、とその両腕を広げた時、予想していた衝撃が私に与えられることは無かった。





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