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「失礼」
 スーツの男は私のいきなりの大声に驚いたような顔をしたがすぐに済ました顔に戻って、こちらに軽く頭を下げてきた。
「私の方こそ大きな声を出してごめんなさい。どうぞ、またいらしてください」
 慌てて頭を下げると、私はスーツの男に道を譲った。なのに男はそのまま店を出ようとはしなかった。その場に立ち止まって、滑るように光る赤いレザーグローブをはめた手で眼鏡を押し上げ、ゆっくりと微笑むと私が抱えていた胡蝶蘭の鉢を取り上げてしまったのだ。
「こんな立派な花を運ぶのは大変だったでしょう。私が運びますよ」
 お客さんにそんなことをさせるわけにはいかない。私は鉢を返してもらおうとしたが、男はこちらにその隙を与えることなく、店の中に入り直して店のどこからでも目につくカウンターテーブルに鉢をおいてしまった。
「置き場所はこちらでよろしかったですか?」
「……ありがとうございます。こちらで結構です。お客様にこんなことをさせてしまって申し訳ありません」
 もう一度頭を下げると、男はいやいやと愛想の良い笑みを浮かべた。
「ついでですから、気になさらないでください。ところで、」
 男は途中で言いかけて、私の顔をジイと見てきた。少し度がキツそうなレンズ越しに向けられる眼差しは、こちらの後ろめたいところを見つけようとしているようで居心地が悪い。私は思わず居住まいを正した。
「なにかありましたか?」
「すみません。ただ、気になったんです。このお店にはかなり足を運ばせていただいているのですが、あなたのような若い女性はほとんどいなかったので、つい。それに、店に入る時叔父さんと仰っていましたが」
「そうだったんですね。私はここの店主の姪なんです。本当にたまにですがこうして叔父の顔を見に来ているんです」
「なるほど、だから胡蝶蘭を」
 男は納得したようにうなずくと、こちらが萎縮してしまうような緊張感をほどいてくれた。そして、おかしなことを口にした。
「そういえば、前にもここで同じような形で会いましたよね。
 あのときはおかしなことを言って、申し訳ありませんでした」
 前? おかしなこと?
 私は男の言っていることがわからず、首を傾げた。
 目の前のこの人に覚えなんて一つもないからだ。
 何度か叔父の店を訪れたけれども、客がいた試しがない。いたとしても、家に居場所がないからと無料休憩所のように店を使っている御老人ぐらいだ。こんなにきっちりとしたスーツを着こなして、いかにもビジネスマンらしい男の人がいたら、珍しいこともあると叔父に話でもしているはずだ。それに、先程のこちらを値踏みするような態度をとるような人だ。一度会ったらそう簡単に忘れるような人ではないだろう。
 私が必死になって思い出そうとしていると、待ちきれなくなった男の方から口を開いた。
「この店が全部壊された直前にここでお会いしましたよね。さっきと同じように店の入り口で鉢合わせになって。その時、私はあなたに店に入らない方がいいと言ったんです」
 男は自分の記憶に違いはないと言わんばかりに、いやにはっきりとそう言うが、私の記憶に男が言っていたようなことはどうも見当たらなかった。男が話した通りなら、私は碧棺と顔を合わせたあたりに会っていることになる。だが、あの時のことを思い出しても、碧棺が一連の出来事の印象が強すぎて、それ以外のことは正直なにも覚えていなかった。
「……ああ、あの時の方だったんですね」
 私は目の前のこの人の言うことを信じて話を合わせることにした。すると、男は「思い出してくれましたか」とゆるく微笑んだ。
「あの時は失礼いたしました。あなたが店主の姪御さんだと知っていれば、あんなこと言わなかったのですが。
 この店、ここらのチェーンよりずっとコーヒーもうまいし、煙草も吸えて、居心地がよくて気に入ってるんですけど。訪れる客に難がありまして。私が初めて来た時には」
 スーツの男は、初対面である私を相手に感心するほど饒舌に話し出した。少し神経質そうな見かけとは裏腹に人と話をするのが好きなようだ。だが、話す言葉一つ一つに含みがあって、どうもまどろっこしい。今のはどういう意味だろう。と相槌を打ちながら、男が今言った言葉を頭の中でもう一度繰り返してどう返事しなければいけないのかを考えを巡らせなければならなかった。
「──というわけで、あなたが店に来たときも、できれば顔を合わさない方がいい類の人間が店にいたんですよ」
 結局、あのときなにがあって、この人はなにが言いたいのだろう。
 男の長い話に聴き疲れてしまっていると、自分でその答えに辿り着くよりも早く、店の奥から割って入ってきた機嫌の悪そうな低い声が答えを教えてくれた。
「オイ、聞こえてるぞ。誰がなんだって?」
 今にもあくびをするような気怠そうな声。それでも、這うような低い声に私の身体は後ろから首を掴まれたように強張った。この声の持ち主を忘れるはずがない。店の奥の一番大きなソファに腰掛けているのは、叔父の店をめちゃくちゃどころか更地にした張本人、碧棺左馬刻だ。
「私は、この店に来る客に難があると言ったんですよ。だいたい人の話を盗み聞きどころか、話に割り込んでくるなんて、行儀の悪いことは遠慮してもらいたいんですけどね」
 スーツの男がずいぶんとよく通る声で碧棺に言い返すと、すぐさま碧棺から聞くに耐えない悪態が飛んできたがスーツの男はそれを気にもとめないで、私の方に向き直って同意を求めるように眉を上げた。
「ああいった客がいたら落ち着くこともできませんね。せっかく店も新しくして、こんなにもいい店になったというのに」
 やれやれとスーツの男は私に向かって話しかけたが、私を出汁にして碧棺に喧嘩を売っているだけだ。すぐに碧棺のいるソファーの方からこれま大きな舌打ちが飛んできた。私は今にも起こりそうな喧嘩の火の粉を浴びないために慌てて話題をそらした。 
「そう! お店新しくしたんですよ。お客さんに良い店になったと言っていただけたら、叔父も建て直した甲斐があったと思います」
「たしかに、本当によくなりましたよ。以前の趣のある雰囲気も良かったですけれど、今の店も明るくて居心地がいいですよ」
「そうですか。実は建て直してから初めてきたんですけど」
 スーツの男に促されるように、新しく生まれ変わった叔父の店を見回してその変わりように顔が引きつってしまった。
 壊されてしまったあの店は、三十年ほど前の喫茶店ブームの時に建てられて不況の煽りをくらって閉店してしまった店をそのまま買い取って、家具などを入れかえただけのものだった。建物事態に年季が入っていたのでどうしても街の寂れた純喫茶やジャズ喫茶にあるような古めかしさがそこかしこにまとわりついていた。それでも、叔父はその穏やかに落ち着いた雰囲気を活かして、海外を飛び回って集めた選りすぐりの家具を置いて、古いなら古いなりの特徴を生かした居心地の店を作っていたのだ。店がオープンしたばかりの頃、仕事に明け暮れているはずの母がわざわざ仕事を休みにして、ここまで連れてきてくれて、お茶をしたのだ。甘いものが得意でない母が、かまくら形にホイップクリームを載せたホットケーキを「おいしい」と言葉をもらして完食していたことだってよく覚えている。この店は母との思い出がある店でもあるのだ。
 しかし、新しくなった店は、私のささやかな思い出も碧棺のヒプノシスマイクによって跡形もなく吹きとばされてしまった。かつての面影を一片たりとも残さず、叔父は自分が思う通りの理想の城となっていた。
 店は外から見た奇抜な見た目と同様、およそ喫茶店とは思えないものに生まれ変わっていた。きっと来ることはないだろうけど母が見たら「やっぱりね」と諦めたようにため息をもらすに違いない。
 喫茶店と知らずにこのドアを開けた人はここを小さな家具店だと勘違いするだろう。店内は座席は五つあるカウンター席の他に六人は入れるだろうソファー席が五つあった。ソファー席は、叔父が趣味で収集した家具をディスプレイしているつもりなのか、趣向の違った家具で一揃えになって、小さなリビングルームのようになっていた。
 家具の収集と映画。この二つに金と時間を注ぎ続けた叔父の生き方がそのまま形になった店になっていた。
「……あの、ずいぶんと、建て直す前と変わってますよね」
 唯一ここら一帯を更地にしてしまった碧棺のヒプノシスマイクから生き延びたカウンターテーブルの天板をなでながら、スーツの男に私は素直に思ったことを伝えた。「そうですよね」とスーツの男はうなずいた。
「私もこの変わりようは驚きました」
「姪の立場から言わせてもらうと、叔父がやりたいようにやっているとしか思えませんね。そんなことより、あれですよ」
 私は、店内で一番目を引くところ、店の一番奥のボックス席に目を向けた。この席もどこかの家のリビングのようになっているが、他とは一段高い床に大きくスペース取ってあるこの場所には、壁一面を覆うほどのスクリーンとソファーの周りにはポールのようなスピーカーが何本も置かれており、そしてどの家具よりも大きな黒い機材が鎮座していた。機材は光を放っており、その先にあるスクリーンにアクション映画を映していた。
「あれ、叔父からなにかきいてますか?」
 母が想像しているよりも悪いことが起きているのではないか。私は胸の奥でうっすらと不安を抱きながら男に尋ねた。
「立派ですよね。店長さんから直接伺ってはいないですけど、なんでもずっと欲しかったからこれを機に全部揃えたそうですよ。すごいですね」
 感心するように男は息を漏らしたが、そんな呑気に「すごいですね」と言うだけで済むようではないことを叔父はしでかしているのだ。
「いくら映画が好きといっても、あんなものものを一気に買い揃えるなんて。道楽の域を超えてますよ」
 音響機器はともかく、ソファの後ろに鎮座するプロジェクターは、叔父が昔からネットの製品ページを眺めては羨んでいたのを見たことがあるから知っている。あれは都内にいくつかあるミニシアターでも使用されている業務用のデジタル映写機だ。本当に購入したのであればその額は七桁を下回ることはないだろう。映画が好きだからという理由で買っていい代物ではないはずだ。
「やはり、店長さんは映画がお好きだったんですね」
「小さくても構わないから自分の劇場を持ちたいというくらいには」
「そこまでですか。今度、店長さんに映画の話でもしてみます」
「叔父は自分の好きなことについて一度話しだすと止まらなくなるので、やめたほうがいいですよ」
「……それにしても、ますます不思議ですね」
「なにがですか?」
 尋ねるとスーツの男は親指で肩越しに店の特等席で映画をながめている碧棺を視線で指した。
「この店にあんな男が居着いているのを許している理由ですよ。
 私が店に来るとほとんどと言っていいほどそこでタバコを吸っているか昼寝をしてますよ。ひどい時には、朝から晩までずっといるんです」
「店に来てくれるなら皆大事なお客さんだからじゃないでしょうか」
 叔父が碧棺に数千万円にも及ぶだろう大きな借りを作ってしまっているだなんて、とても言えるわけがない。苦笑まじりに答えるとスーツの男は片眉をあげた。
「ここでヘマをした自分の舎弟にヤキを入れていてもですか」
「エッ。あの人、自分の事務所じゃないところでそんなことまでするんですか」
 ヤクザの事務所と化しているじゃないか!
 私が愕然とすると、スーツの男は私に哀れみの眼差しを向けた。
「あなたには、あいつの姿が見えたら一目散に逃げた方がいいと忠告するつもりでしたが、もう手遅れのようですね」
「あの人が、そういう人だということはご存知なんですか?」
 もしかして、私が目で判断できないだけでこの男も碧棺と同業なのか。背中に冷たいものが触れるような緊張感を抱きながら尋ねると、男はそれを可笑しそうに笑いながら肩を揺らした。
「私──俺は警察の人間でして。仕事柄、ああいう手合いは嫌でも向き合わなきゃいけないんですよ」
「お客さん、警察の人だったんですか?」
 スーツの男はどうやら今まで出会ってきた中で一番真っ当な人だったらしい。私はまじまじとスーツの男の顔を見た。
 男は一眼でそこらの量販店で売ってるものとは違う上質なスーツを見事に着こなしてみせるほどの知性がうかがえる顔つきをしているが、レンズの下の部分だげ縁取られたアンダーリムの眼鏡の奥の瞳にはたしかに正義感というものが宿っていた。
「ヨコハマ署に勤めていますよ」とスーツの男が眼鏡を押し上げながら答えると、私は「助けてください」と縋るように男へ一歩詰め寄った。
「困っているんです。叔父はこの通りの道楽者で、気付いていないだけなんですけど。実のところ、あの人──碧棺にお世話になってしまってる状態で、手を切ろうにも手が切れないんです」
「姪御さんであるあなたからそう言われても、証拠もなければ警察は動けませんからね。これ以上被害が深刻にならないように、用心するしかないでしょう」
「その、用心って一体なにをすればいいんでしょうか」
「用心は用心ですよ。ああいう輩は乾いた布巾からコップ一杯の水を絞り出すようなことを平然としますから。そうならないように気をつけることです。
 それでは、俺はもう勤務に戻らなくてはいけませんので。失礼します。店長さんには、今度こそご挨拶をさせてくださいとあなたから伝えてください」