×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -





「はあ?」
 突然、叔父は何を言い出すのだろう。
 どういうことだと問い詰めようとすると。叔父はこちらに近づいてくる車の音が聞きつけていそいそとサマトキさんの方へと歩き始めた。
「左馬刻さんのお迎えが来たみたい。永遠子、挨拶するから来て」
 手招きする叔父に私は激しく首を振った。
「私、仕事ですここに来ただけだし、なんで挨拶しなきゃいけないの。嫌だよ。関係ないもん」
「関係なくないよ。左馬刻さんに、便利なお掃除屋さんを紹介しますって言っちゃったんだよ。これも仕事のうちだよ」
「仕事だっていうなら、お母さんに言いなよ」
「そのお母さんが、永遠子をここに寄越したんだろ。この意味わかるでしょ」
「……人件費を浮かせるためでしょ」
 母だけでなく叔父にまでいいようにされているのが気に食わないので、わざと間違えたことを言ってみせると、叔父はガックリと肩を落とした。
「永遠子、そんなに真面目だと大人になったらずっと苦労する羽目になるよ」
 叔父さんには言われたくない。と抗議したが、叔父はそれに構うことなく私をサマトキさんの元へ文字通り引きずっていった。
「左馬刻さん。さっき話した清掃会社の件はこいつが口利き、えーと窓口になりますんで」
 叔父はサマトキさんのとこまでくると、突き放すように私の背中を押して、サマトキさんに私を差し出した。一歩二歩よろけて態勢を立て直して、顔を上げて、私は息を飲んだ。
 煙草の煙ひとつ吐きだすだけで、張り詰めた空気の弦は震えてより一層あたりの雰囲気が体にはのしかかってくるように重たくなり、指先ひとつ動かすのも躊躇させた。
 サマトキさんの伏せていた赤い目が真っ直ぐ、明らかにここにいるのは場違いである私へと向けられると、背中の薄い肌をザラリと舐められたような怖気が駆け登ってきて、服の中をじんわりと嫌な汗で湿らせた。そこにいるのは数日前に見た、ケチャップを顔につけたままナポリタンを啜る牙の抜けた猛獣ではなかった。
 今までに感じたことのない底なしの恐怖に、私はただ立ち尽くしているしかなかった。サマトキさんの視線が足の先から頭の先へとゆっくりと這う。それが私の何を見定めようとしているのか、まるで検討がつかない。せめて、命取りになってしまうようなことにならないようにと唇を噛んで耐えるしかなかった。
 いつまでも続くのだろうかと思ってしまうような沈黙を破ったのは、サマトキさんでも私でもなく、ミノムシになっていたスモウレスラーだった。
 腹ばいになっていたスモウレスラーは全身をくねらせてこちらに顔を向けると、私に向かって勢いよく唾を吐いた。吐かれた唾は一メートルも飛ばなかったが、緊張のあまり神経を尖らせていた私を驚かせるには十分だった。小さな悲鳴をあげながらその場を飛び退いた私に、スモウレスラーは前歯の部分に隙間のある歯をむき出して下卑た笑い声を上げた。
「ヨオ!おネエちゃん、俺を迎えに来てくれたのかよ。あとでお礼をたっぷりして上げなくちゃなー」
 舌舐めずりまでして下品な物言いをする人間が実在したなんて。ましてやそんな言葉が私に向けられるなんて。悍ましさに息を飲んでいると、スモウレスラーはさらに言葉を続けた。それがどういう意味かなんて半分はわからない。ただ聞くに耐えない言葉の羅列にはこれでもかとぶつけられているのは悪意が込められていることだけは明白だった。やめてください。と言おうにもこちらに口を挟ませる隙をくれないので、どうしたらいいのかと叔父に助けを求めようとした時だった。
 鞭がしなるような風切り音と肉を叩く鈍い音に続いて、何かを吐き出すような呻き声が上がった。
「テメエ、誰がその汚ねえ口を開いていいっつったんだよ」
 それはなんの前触れもなく始まった暴力だった。最初の一撃目はサマトキさんの拳がスモウレスラーに振り落とされたのか、それとも足の先がスモウレスラーの顔をえぐるように蹴りとして入ったのか。そんなこと考える間もなく、容赦無く次々と蹴りがスモウレスラーに繰り出されていた。スモウレスラーは後ろ手に縛り上げられているせいで自分の急所を庇うことも叶わず、その大きな身体をどうぞ殴ってくださいと差し出すように蹴られ続けていた。許してほしいと懇願するが、それもサマトキさんの怒鳴り声で無惨にもかき消されてしまっていた。
 食物連鎖を目の前で見ているようだ。悪を潰すのはそれより一層の悪。拳を封じるには更なる拳。強きが弱きを食らう。不等号だけで成立つ光景がそこにあった。
 サマトキさんの暴力はスモウレスラーが完全に意識を失うまで続いた。ようやくいたぶる事を終えて、顔を上げたサマトキさんはあの時のように顔に赤い点をつけていた。それはもちろんケチャップではなく、足元に転がるスモウレスラーの返り血であることは明らかだった。
 人が意識を飛ばすまで殴られ続けていく様をまざまざと見せつけられて呆然としていると、叔父が肘で私の背中を向ける小突いてきた。
「永遠子。挨拶するんでしょ。早く名刺出して」
「へ?」
「これから左馬刻さんにはお世話になるんでしょ」
 ならないよ!
 私を急がせようと更に背中を小突いてくる叔父に反論するしようとしたが、気が立っているらしいサマトキさんからすかさず大きな舌打ちが飛んできたので、私は飛び上がるような勢いで自分の名刺をサマトキさんへ差し出した。
「清掃を主に行なっています。クリーングリーン泉株式会社の泉永遠子です。
 この度は叔父がたいへんお世話になりました。今後ともどうぞよろしくお願いいたします」
 サマトキさんは私の顔と名刺に視線を往復させ、名刺をひっくり返した。名刺の裏に刻まれた「私たちに、落とせない汚れはありません」という仰々しい社訓を見るなり、ダセエと漏らしたのを私は聞き逃さなかった。
「お前の会社か?」
「いえ、母の会社です。私は手伝いをしているというか、こうして勉強をさせてもらっている立場です」
「清掃っつーのは、俺が言えばなんでも片付けんのかよ」
「なんでもしますよ!」
 考えなしに反射で答えた叔父を私は慌てて制した。
「あの、流石になんでもというわけには行きませんが、あそこの冷凍庫程度でしたらお電話で一本で片付けます」
「お前みたいなのが、ホントに出来んのかよ」
「こういうことに長けたスタッフが私共にはおりますので」
 サマトキさんは私を随分と下に見ているようだった。堅苦しいスーツを着たところで、働くにも交渉ごとをするには少々若すぎる年齢という弱点は誤魔化しようがない。だが、それだけで弱者と見られるのは面白くない。ムキになって語気を強めて答えると、サマトキさんは顎でしゃくって冷凍庫を指した。振り返ってみると、アルバイトの一人がまたうずくまって吐いていた。
「……あれも片付けさせます」
 なんて格好つかないんだろう。
 自分でもそう思いながら言うと、サマトキさんは興味なさそうにもう一度名詞を眺めてから、それを突き返してきた。
 用無し。
 サマトキさんからそう告げられることにこれ以上わかりやすいことはないだろう。もう金輪際ヤクザに拘らなくても良いのだ。まるで神に祝福を受けたような気持ちになって空を仰いでしまいたくなるのをこらえながら名詞をケースに戻した。すると、なぜかサマトキさんは舌打ちをした。
「誰が名刺しまえなんて言ったんだよ。そこにケータイの番号書けっていってんだよ」
 そんなこと一言だって言ってなんかいませんよね?
 たった十数秒間前の出来事が捻じ曲げられているのが信じられず、私は叔父の顔を見た。しかし、長い物に巻かれることで保身をしてきた叔父はサマトキさんの言うことが正しいと頷くだけだった。今度はすがるような気持ちでサマトキさんの顔を伺ったが「早くしろ」とあのヤクザ特有の低い上にやたらと早い口調で私を急かすだけだった。そして、ヒュルヒュルとスモウレスラーの壊れた笛のような息づかいが耳に入ると私は観念してさっきの名刺にペンを走らせた。
「こちらが私の携帯番号とラインのIDです」
 サマトキさんは私が再び差し出した名詞を半ば奪い取るように抜き取ると、さっきと同じように私の顔と名詞を何度か見比べた後、名刺を尻のポケットにしまうと獲物を見つけた魔物のように笑った。
 身が凍ってしまうような冷たい眼差しをただ見返すことしか出来ない私に、サマトキさんは更に笑みを深めて煙草を持っていない方の手で自分のこと頬を指差した。
「顔、血ぃついてるぞ」
「え」
 言われた通りに、サマトキさんを鏡のように見立てて自分の左の頬を摩った。手の甲を見れば血の赤色が肌に移っていた。
「取れましたか?」
 訊ねるとサマトキさんはなぜだか吹き出しそうになったのを誤魔化すようにもう短くなりつつある煙草を一口呑んでから口を開いた。
「ああ、取れてる」
 そしてサマトキさんは煙草を地面に落として靴の裏で火をにじり消すと、中王区でもあまり見ないような厳めしい角ばかりが目につく趣味の悪い大きな車に乗ってどこかへと行ってしまった。
 別れの挨拶はなし。ひとまずの危機は去ったとでも言うのだろうか。終わってみると、ヤクザとの対面は実にあっけないものだった。

 私はサマトキさんとスモウレスラーを乗せた車のテールランプが引いた垢と橙色の線が道の角へ曲がって消えていくのを最後まで見届けて、ようやく肩を抜くこわばらせていたものがいなくなってくれたのを感じた。けれども、獣の目で見られた時に襲われた、肌がピリピリとひりつく感覚はまだ抜け切っていない。
 あんなに恐ろしい人は今まで見た事がない。私としたことが言われるがま、連絡先を教えてしまったが、住む世界が違いすぎるのだ。天地がひっくり返るような事がない限り二度と会うことはないだろう。今日はたまたま、運悪く、見てしまっただけだ。こんなことは絶対にもう一度なんてあってはならないのだ。
 潮と埃が混じったぬるい風が吹いているのを感じながら、もう誰もいない道路をぼんやりと眺めていると、叔父がアルコールの臭いを撒き散らしながら口を開いた。
「左馬刻さんから、連絡くるといいね」
 なんて不吉な。せっかくやり過ごそうとしていたのに。
「ヤクザが掃除屋に用事なんてあるわけないでしょ。これっきりだよ」
 私は、余計な事を言う叔父と悪い予感をぬぐいきれずに叔父の言葉に予感めいたものを感じてしまう自分に念を押すようにそう言ってから、自分の与えられた仕事にようやく取り掛かった。

***

 ナポリタンになってしまったスモウレスラー二人が詰め込まれた冷凍庫の処分をする段取りをつけたり、叔父を近くのホテルに押し込んだりと、わずかな時間にこれでもかと積みあがった仕事を片付け終えて、自分の部屋に帰ってきたのは日の出まであとわずかとなった頃だった。
 鉛のように重くなった脚をひきずりながらスーツを脱ぎ捨てていくと、鼻について離れなかった鉄と埃の匂いが剥がれて、私はようやくあのおかしな夜から無事逃げ切ることができたのだと実感を得ることができた。
 着ていたスーツは、クリーニングにかけて染み付いた臭いや汚れは取れたとしても、着ていた時の記憶は落としてくれないだろう。今夜のことはなかったことだと自分で言い張るためにも捨ててしまおう。
 そんなことを考えながらブラウスと下着だけの姿になって洗面台まで辿り着いて、曇り気味の鏡を見て私は息を呑んだ。そこにいるのは私ではなく、変わり果ててしまった私。別のダレカだった。
 仕事、それも母からの命令だったとはいえ、ヨコハマにいくのは間違いだったのかもしれない。そんな後悔をしながら、表情が歪むほど強く頬を撫でていると足元に脱ぎ捨てていたジャケットのポケットからスマートフォンの着信音が鳴り出した。立て続けに驚かされてしまった私は肩を強張らせながら、スマートフォンを取りに戻った。
 着信は見覚えのない番号だった。
 時間も時間なので、もう寝ている事にして電話には出ないでおこうか。自分勝手な考えが浮かんだが、叔父の店で感じたあの悪寒を思い出して、受話口に耳を当てた。スピーカーの向こうから聞こえたのは、叔父の店でも瓦礫の中でも耳にした煙草の煙を吐く静かな息遣いだった。叔父の店でも見たように彼の口から出た煙が空中で薄く白い曲線を描いている姿が自然と頭に浮かんできた。
 私は洗面台の鏡に手をついて、スマートフォンを私とは反対の手で持ったダレカがゆっくりと喋り出したのを静かに見守っていた。
「先ほどはどうもありがとうございました」
 彼女の声は妙に落ち着いていて、冷たく穏やかだった。
「掃除は済んだのかよ」
「ええ、冷凍庫は片付きましたよ。お掃除は得意なので」
 質問に答えたというのに、左馬刻さんからは何も返ってこない。ただ動く空気が、電話の向こうで左馬刻さんが薄く笑っていることを私に伝えていた。
 きっとさっきの出来事を思い出して笑っているのだろう。そう思うと私は無性に悔しくなって、考えなしに口が動いていた。
「そんなことより左馬刻さん、さっき嘘をつきましたよね。
 顔についた血、全然取れてないじゃないですか。血みどろだし、これじゃまるで妖怪ですよ」
 悪態をつくと、癪に障る笑い声が聴こえてきた。
「それは、悪かったな。暗くてよく見えなかったんだ。仕方ねーだろ」
 ひとかけらも心がこもっていない謝罪だ。一円にだってなりはしない。
「真っ暗ってわけじゃなかったでしょう」
「どうだったかな、」
「言い訳にしか聞こえませんけど」
「風呂入れば落ちるんだから、いちいち気にしてんなよ。
 お嬢さんだったら見れないもんが見れて、面白かっただろ?」
「あれのどこがですか?」
 見たのはとんでもない暴力だけだ。尋ねるとまた沈黙が流れてきた。その間を埋めるように微かにライターの石を打つ音がする。チェーンスモークだ。肺一杯に吸いこんで煙を吐くと左馬刻さんは言葉を紡いだ。
「頭はいいんだろ?自分で考えろや。切るぞ、じゃあな」
 宣言通り、余韻もなく通話は切られた。無感情な通話の切断音をぼうっと聞いてると、ほとんど間隔も開かないうちに今度はラインの通知音が私に新しいお友達ができたことを知らせてくれた。新しいお友達の名前は「S.A」と随分簡素なものだった。私はわずか三文字の名前をお友達として承認するボタンを押した。晴れてお友達となったS.Aとのトークルームは空白のままだ。このトークルームが気の置けない友人のように画像の応酬になるのか。仕事先の人達とするようにスケジュールのすり合わせのために堅苦しい言葉の応酬になるのか。全く想像がつかない。だが、このまま何もやり取りがないまま月日が過ぎてしまうことはないことだけは確かだった。
 画面から目を離してもう一度鏡を見ると、入ってはいけない道へ歩を進めてしまったことに早速後悔をしている私がいる。大丈夫よ。と励ますようにダレカが頬を撫でてくれた。しかし、そんなことをしたところで血は取れるはずもなく飛沫が飛んだようについた赤い点はついたままだった。それを見た私は、ダレカと同じく涼やかな微笑みを浮かべていた。