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「……それで、どこに行くの?」
 私は先にあるだろう恐怖のことを諦めて、目前の楽しいことへと興味を移した。叔父は途端に目を輝かせて冷蔵庫に貼り付けてあるカタログを指さした。
 青い空。白い砂浜。透き通った海の中を悠然と泳ぐ熱帯魚たち。いやでも目に付く黄色のでかでかとしたカタカナで三文字が紙の上で踊っている。私の口からは自然とため息が漏れた。叔父は目を細めて笑った。
「ハワイ。ダイビングするんだ。実は俺、カナヅチなんだけど。イルカと一緒に泳ぐのが夢だったんだ」
「えーー。いいなあ。ね、パスポートの書類持ってきてあげたんだからさ、お土産買ってきてよ。マカダミアナッツのチョコとかパイナップルの形のクッキーとかよくあるやつでいいから」
「覚えてたらね。ほい、紅茶。ホットケーキはできたら持ってくから、座って待ってな」
 心はすでにヨコハマを離れ、遥か遠くの南の国にある叔父は、沸騰したばかりのお湯を勢い良く注いだポットと使い込み過ぎて所々金縁が剥がれている白磁のカップとソーサーをトレイに乗せて私に押し付けて。自分はこれからホットケーキを焼くと言って私に背を向けてしまった。
 カップを揺らさないように用心しながら客席のあるフロアに戻ると、店に入って初めに感じた誰もいない空間にいるような詰まる雰囲気は依然としていた。唯一、ポットから立ち上る温かな空気がひとごころをつかせてくれるのが救いだった。
 私はキッチンと隣接しているカウンターにトレイを置いて、席を取った。本当なら私も背もたれの高いあのソファに身を沈めて窓の向こうで通り過ぎていく車を横目にしながら、ポットの中の茶葉がゆっくりと開いて、胸に沁み渡るように薫り立っていく柔らかな時間を楽しんでいただろう。けれども、私のお気に入りの席は今叔父の大切な大切なお客様の特等席に取って代わってしまっている。
 営業していない時間に来れば良かったなと小さな後悔をしながら、勝手知ったるカウンターから曇りが浮かんでいないフォークとナイフを探している時だった。
「おい。注文」
 カトラリーがぶつかり合う音に混じって、随分と眠たそうな声が耳に入ってきた。私はどこからそんな声が飛んできたのかわからず、手元を見下ろしていた顔を上げた。
 カウンターからフロアは隅々までよく見渡せた。やはり。私の特等席を横取りした白髪の男が、私がここにきてから微動だにせず座っているだけだけだった。キッチンにいる叔父かと思って、そちらの方をうかがってみるが私を呼んでいる様子はない。静まり返った店内なのだから外の声がこちらにまで届いただけだろう。ということにしたとき、動かないはずの男が緩慢な動きでソファの背もたれから身を乗り出して、オイと私を呼んだ。
 気のせい。とは到底言うことが出来ないほどしっかりと男と目が合ってしまったが、私の口から漏れ出たのは「ハア」という間の抜けた声だった。
 この人がヨコハマで最も恐れられているという碧棺左馬刻その人なのだろうか。そこにいるのは叔父の言う「キングオブワル」なんて頭の悪すぎる冠がつくなんてとても思えない、口を開けば「ダルい」か「ウザい」としか言わなさそうな銀髪の男だった。
 動物図鑑のコラムの鉛筆画で描かれる狩りを雌に任せきりにするとぼけた顔の雄ライオン。昼寝に明け暮れているおかげで野球チームのエンブレムの虎でさえ持っている貫録を溶かしてしまった動物園のなんとかタイガー。怖がる必要が一つもないものにたとえる方がよほどしっくりきた。
 そんなことを考えていると、檻の向こうの猛獣がもう一度口を開いた。
「注文」
 投げられた命令にハッと気が付いて、私は叔父に面倒をかける押し付けようとキッチンの方を見た。が、こちらが死角となっているところにいる叔父が気がついてくれるはずもない。私はフォークを手に持ったまま、男ーーサマトキさんの元へと向かった。
「メニュー」
 ソファに悠然と座り直したサマトキさんは、わたしが来るなり命じてきた。
「えっと、メニューはそこに」
 私はサマトキさんの席のテーブルの端を持っていたフォークの先で指そうとしていたのを慌てて背の後ろに引っ込めて、反対の手でそこを示した。しかし、そこには何もない。よく見れば、テーブルの上は灰皿とたばこ、備え付けのテレビのリモコン以外のものは無くなっていた。わたしはすぐそばのテーブルからメニューを抜き取ってサマトキさんへ渡した。
 サマトキさんは組んだ足の上にメニューを開くと、パスタのページで手を止めて三秒もしないうちにメニューを閉じて私に返してきた。それと同時に注文を寄越してきた。しかし、職業柄というのだろうか、ヤクザという稼業は己の威厳のためにそういう話し方をしなければならないルールなのだろうか。低いだけでなくやたらと早口の注文は、丁度店の前を通りすぎた車の音で物の見事にかき消されてしまった。
「外の音でよく聞こえなかったので、もう一度伺ってもいいですか」
 ごめんなさいと頭を下げると、サマトキさんはもう一度注文をくれた。
「ナポ……大盛り。あとアイ…………」
 今度はさっきよりはまだ聞こえる声ではあったが、それでも聞き取れないところがほとんどだった。
「ナポリタン大盛りとアイスコーヒーですね」
 ほとんどクイズに答えるような感覚で注文を繰り返すと、サマトキさんはこちらから顔を背けて窓の外の景色を眺める作業に戻ってしまった。どうやら私はクイズに間違えることなく答えることが出来たらしい。
「頼んできます。少々お待ちください」
 飲食店の店員としてこの振る舞いは果たして正解なのだろうか?私は、自分の店員っぷりに首を傾げながら叔父のいるキッチンへと向かった。
 キッチンでホットケーキを作っているはずの叔父はあれからとっくに十分は過ぎているにも関わらずフライパンを火にかけてすらおらず、ノロノロとボウルの中のホットケーキの生地をかき回していた。私はその背中に響くように「ねえ」と声をかけた。
「あのお客さんから注文もらったよ。アイスコーヒーとナポリタン大盛だって」
 抱えたボウルに泡立て器を打ち付けた叔父は驚いた顔をした。
「本当に注文?
 あの人、タバコで生きてるんじゃなかったの?」
「知らないよ。お昼食べてないんじゃないの?」
「うーん」
 叔父は上客から大金をつかまされてからというもの、すっかりと怠け癖がついてしまったらしい。ボウルをまな板の上に置いて、空いた手を腰に当てたまま動かなくなってしまった。
「ホットケーキは後ででいいから、早くナポリタン作りなよ」
 急かすと、叔父は困ったと言いたげに重い息を吐いた。
「いや、それがさ。左馬刻さん、いつもアイスコーヒーしか頼んでくれないから何にも用意してないんだよ」
「さっき、材料は全部揃ってるって言ってたじゃん」
「材料はね。用意ができてないのは仕込みだよ」
「ここ、喫茶店じゃなかったの?」
「ドリンクはちゃんと用意してるよ。左馬刻さん目当てに部下の人とか刑事さんとが毎日来るしね。でも、その人たちだって食べ物を頼んでこないんだよ。だから、フードは何にも準備してないんだよ。
 どうしようかなー。しかもナポリでしょ?寸胴にお湯も沸かしてないんだけど」
「メニューのものが出せないなんて、お店としてどうなの?」
「うーん」
 叔父はどうしようかと唸りながら、当座の問題から目を背けるようにホットケーキを焼き始めてしまった。
「ホットケーキなんか後ででいいよ。それより、」
「あ!いいのがあったわ」
 叔父は突然明るい声を上げると、こちらへ振り返って私が寄りかかっている大人が足を伸ばして入れる程の大きさの業務用冷凍庫を指差した。
「永遠子。そこに冷食のナポリタンがあるから二つ入ってるから出して」
 嫌な予感しかしない叔父の言葉に私は顔を渋くさせた。
「いいの?」
「だって、お腹すかせてるのに待たせたら可哀想だろ。それに、普通に美味しいから」
「冷凍ものでお金とるって、ダメでしょ?」
「大丈夫。俺、一応料理人だから。いいから、早く出してよ」
「もう、知らないからね」
 根拠が見当たらない叔父の自信に負けて、私は冷凍庫から「喫茶店の味 懐かしナポリタン」と赤文字で大きく書かれたパックを取りだして、叔父に差し出した。しかし、叔父はそれを受け取らなかった。それどころか、呆れたように首を振りやれやれと声を出した。
「永遠子の方がレンジに近いんだから、それぐらいのことはしてよ」
 この店の店主は留守なのか?と睨んだが、叔父はそれをのらりくらりとかわして、私を急かした。
 自分の家のとは勝手が違う電子レンジの操作に手間取りながら、ナポリタンをレンジにかけた。ナポリタンが何もない空間で響くような低い音と無感情な光を浴びているだけの光景は、私が自分の家で使っているレンジで見るものとは随分と違って実に無機質で味けない。しかし、家庭用にかかる時間の半分で済むその出力は魅力的だった。
「もうすぐできるよー」
 扉の向こうでナポリタンの袋が切餅のように膨らんでいくのを眺めながら告げると、叔父は慌てて駆け寄ってきてレンジの扉を開け放った。
「まだレンジでかけ終わってないよ」
 驚いて声を上げると「ばか!」と叔父は叱りつけてきた。
「店の中でピーなんて音させたら、レンジアップのメシ出してることがバレるだろ」
 そう言うと叔父は蒸気を吐き出している袋の端をつまんで、知らない間に玉ネギにピーマン、シメジにウインナーが炒められているフライパンへ中身を開けた。そして、箸で塊になっている麺をほぐして一本だけつまんで味見をするとケチャップやら何やらたりない味を足していった、
 叔父のここまでの手つきは調理を始める前と打って変わってやけにスムーズで、ひとつの作業が終わる度に次の動作へ移るために手が止まることはなかった。
 こういった手段を叔父が取るのは一度や二度ではないのだろう。明らかに常習だ。
 私が目の前で行われていることの善悪をうまく決めることができずモヤモヤと悩んでいる間に叔父はナポリタンを完成させてしまっていた。
「本当に大丈夫?」
 鉄製フライパンの中のナポリタンはいかにも喫茶店で出されるそれだが、もともとが冷凍食品であったことを考えるとそれがインチキとしか思えない。
 不安を隠さない私に、叔父は菜箸でそのインチキナポリタンをほんの少しだけつまんで私の手のひらに乗せてきた。
「そこまで言うなら食べてみなよ」
 言われるがままインチキナポリタンを啜ってみる。口の中に広がったのは、自分で作るのはもちろん、電子レンジにかけるだけで完成するような安直な味ではなかった。
「どう?」
「美味しい」
 ケチャップの味がたまらなくて、フライパンからウインナーをつまみながら文句のつけようがないことを認めると、叔父は得意げに笑顔を浮かべた。
「美味しいならいいだろ。
 永遠子は俺が作ってるところを目の前で見てるからあーだこーだ言ってるだけなんだよ。作ってるとこさえ見られなければ、これが冷食なんてわかりっこないよ」
 だって、俺料理はうまいもん。
 料理の腕前はともかく、料理人としての立場を危うくさせることを言いのけた叔父は、インチキナポリタンを平皿に富士山のように高くて盛り付けるとトレイに乗せて私へと押し付けた。
「はい、よろしく」
「叔父さんが持っていきなよ。サマトキさんは叔父さんのお客さんなんでしょ」
 言い返すと、叔父はイヤイヤと首を横に振った。
「やだよ。サマトキさん、こっちは何にもしてないのにすぐメンチ切ってくるんだよ。オッサンの俺より永遠子が持っていった方が絶対いいって。カウンターにタバスコとチーズがあるから、それも忘れないでね。それじゃ、あとはよろしく」
 そして叔父は「ホットケーキが焦げる」なんてしょうのない言い訳をしながら私に背を向けてしまった。