インチキナポリタンの夜 1
「ショッボイ喫茶店をやってる男が海外旅行なんて。そんなのおかしいに決まっているでしょ」
急ぎの用事がある。と言うから都合をつけて来てみれば、当の本人である典型的な中王区民の人間である私の母は私の顔を見るなりここにいない人間への皮肉をたっぷりと吐きながら、ヒラヒラと泳がせていた海外旅行をすると言う男の戸籍謄本を私へと差し出した。
「永遠子。あんたの叔父さん、海外旅行に行くっていうのにパスポートすら持ってないんだって。それで新しくパスポートをを作るのにこれが必要だから私に役所まで行って取り寄せてくれとまで言うの。
郵便で送ってやってもいいけど、なんか納得がいかないでしょ?だから、あなたがコレを叔父さんに渡すついでについでにお店の様子も見て来てよ」
「店ってヨコハマでしょ?遠いし、私もそれなりに予定とかあるんだけど」
都内ならまだしも車で一時間ほどかかる県外まで。おまけに一円も自分の懐に入らないおつかいなんてとてもする気になれない。確実に届くのだから郵便でいいだろうと投げやりに言えば、毋は「マア」と酷いものを見てしまったと口もとに手をあてた。
「あなた、自分の叔父さんが心配じゃないの?」
それを言うなら、自分こそ弟が心配にならないのか。と鏡に映したような指摘をしてやろうと思ったが、道が独りでにひらいていくように世の中はできていると信じて疑わない母に響くわけがない。
私はこれ以上口答えをする事を諦めて、素直に叔父の戸籍謄本が入ったクリアファイルを受け取った。それからすぐに母から期限は明日だと後出しを食らった。お母さん。もしかして、ついさっきまで忘れていたんじゃないの?
***
ヨコハマのベイサイドエリアにある小さなカフェ。
大きな窓にはほどよい感覚で走り抜けていく車と自分の姿が反射で映る。それが、映画のセットをそのまま持ってきたようなビンテージの家具で揃えられた店内の様子と重なって、一つの写真のように趣深い光景が出来上がる。
通りすがりにのぞいた時に気分が少し上向きになってしまうようなカフェが叔父の店だ。雑誌にでも取り上げてもらえれば、デートにぴったりな落ち着いたら雰囲気の店として客が絶えない繁盛店になるだろう。
けれども、こんなにいい店もありとあらゆるものの欠点を並び立てることにおいてはマイク一本で生き死にをかけてる人に引けを取らない母にかかってしまうと、耳触りが良い言葉を列べてはいるが所詮は水商売。休まず働いたところで半年後にも屋根のある場所で寝起きができるかわからない不安定なところ。といった具合でとても海外旅行ができるほどの金と時間の余裕があるようにはとても見えない貧乏な店になってしまうのだから不思議だ。事実、叔父は店の空調が壊れたから修理費を工面してほしいとわざわざ中王区で暮らす母のところまで金の無心にきたことがあって、店の今後というものはスマホで撮影をして良い所だけを切り抜いてさらに加工した写真のように良くはない。
そんな先行き怪しい店の看板が出ているのを確認して、私は木製の扉の取っ手に手をかけた。扉を引いた瞬間、ドアの重さが勝手に軽くなって私が想定していたよりもずっと速く扉が開いて、店内から眼鏡を掛けたスーツ姿の男が出てきた。私が慌ててドアの前から退いて、道を譲ると、男は通り抜け様に紅の手袋を嵌めた指でメガネを押さえながら私に浅く頭を下げた。だが、彼は二、三歩いたところで足を止めて、店に入ろうとする私をなんと呼び止めた。
「この店に入るんですか?」
「……そうですけど」
「ご自身の命が惜しければ、入るのはよした方がいいですよ」
男は感心してしまうほど丁寧な言葉を私にかけてくれた。が、磨き抜かれた石はつかみどころがなくするりと手の中を抜けてしまうように、男の言葉もそれは綺麗に私の頭の中を右から左へとすり抜けてしまった。何を言ったのか少しもわからず、ハア、だなんて「何もわかっていません」と宣言したも同然の私の返事を男は気に入らなかったのだろう。苛立たしげにもう一度眼鏡を指で押し上げてから、私を鋭く指差して「言いましたからね」と念を押して、さっさと店の駐車場の方へと行ってしまった。
叔父の店に入るだけなのに、どうして命が危なくなるなんてことがあるのだろうか。
私は車に乗り込もうとするその男にむかって首を傾げてから、今度こそ店の中へと入った。
真鍮製のドアベルの音と共に入った叔父の店は、さっきの男から受けた忠告に拍子抜けになってしまうほど、相変わらずの客入りだった。つまり、客はただ一人。店内で一番くつろぐことが出来るソファ席に白髪の男がいるだけだった。
しかし、店内に漂う雰囲気は以前にここを訪れた時とは打って変わっていた。
まず、音がない。いやに静かだった。
客がいようがいまいは関係なしに流しっぱなしにしている伯父の趣味に偏り過ぎてジャンルさえわからない音楽もなければ、カウンターの方から叔父が仕込みをしたり、皿洗いをする物音さえ私の耳に入って来ない。
おまけに店を入る人みんなを出迎えるはずの挽きたてのコーヒーの豆の香りさえ、今はない。
外から聞こえてくる車が走る音。少しも動きはしない沈んだ空気。まるで人がいなくなってしまってから数日は経っているかのような静けさがこの異様な雰囲気を作り出し、私に店の奥へ踏み出そうとするのを躊躇させた。
「なんだ永遠子か。さっきの刑事さんがまた来たのかと思って、つい隠れちゃったよ」
電話で叔父を呼び出そうとスマートフォンを取り出したところでカウンターの影からエプロンをつけてもいない、そこらの道行く人と区別のつかない格好で叔父が姿を現わした。
緊張感のカケラもない緩んだ様子の叔父に会えて、安堵するのも束の間。叔父が口にした言葉に私はひっかかりを感じて、私は眉をひそめた。
「刑事?叔父さん、刑事が来るような事でもしたの?」
「俺がそんなことするわけないだろ。それより、何か頼んでよ。今日は材料全部揃ってるから、なんでも出来るし。ね?」
叔父はとんでもないと両手を振ると、まだ席に着いてすらいない私に注文をせがんできた。私は自分の言ったことをごまかそうとする叔父への疑念がより一層募って行くのを胸の内で感じながら、この店で食べたものを思い返した。
「それじゃあ、紅茶とホットケーキ」
「ホットケーキにアイスつける?」
「生クリームの方がいいな」
「クリームね、了解。それじゃあ、手伝って」
「え、作ってくれないの?」
「どうせタダで食べるつもりだったんでしょ。皿を出すくらいのことはしなさいよ」
「いいから、ほら」
そう言って叔父はわたしをグイグイとキッチンの方へと押し込み始めた。そして、通りしなにソファ席にいる白髪の男へ声をかけた。
「左馬刻さん、うるさくしてすみません。こいつは俺の姪で、こうやってたまに遊びに来てくれるんですよ」
サマトキさん。と叔父に呼ばれた男は咥えていた煙草の煙を少し揺らしただけで、返事らしい返事をしなかった。しかし、叔父は男に無視され流のが当然と思っているのか、気にする素振りを一つもしないでそのままキッチンへと歩を進めた。
背中を押されながらキッチンにたどり着くと、叔父は胸を押さえながら大袈裟にため息をついた。
「アーーー永遠子が来てくれてよかった。
ここ最近まともな人と話してなくて、本当生きた心地がしなかったんだよね」
「どういうこと?ちゃんとお店やってるの?」
「やってるよ。看板も出てただろ」
「そうじゃなくてさ、」
私が尋ねたいことの本筋からわざと逸らそうとする叔父に苦言すると、叔父は少し煩わしそうに手を払った。
「金がないクセして海外旅行に行くなんて怪しいってことだろ、ちゃんと話すよ」
叔父は首だけを動かして店内の様子を確認すると、ゆっくりと話し始めた。
「ソファに銀髪のお兄ちゃんいたでしょ。あの人、碧棺左馬刻さんって言って、ここらへんで一番デカい組のヤクザなんだけど。知ってる?」
「ヤクザっていうのは知らないけど。確か、ラップでやる喧華がすごく強くて有名な人じゃなかったっけ」
叔父はどこかで聞きかじってきた私の情報にどうも承服しかねているようだが、下唇を噛んで溜飲を下げることを選んでくれた。
「その左馬刻さんが一月くらい前から、ここを使ってくれてるんだよ」
「有名人がお店の常連になっただけでどうしてお金が手に入るの」
訪ねれば、叔父は缶に入った紅茶葉をポットに入れながら答えた。
「簡単にいうと、間貸ししてるんだよ。
俺の店、大通りにすぐ出られるから車だとすごく便がいいでしょ。あと、単純に居心地がいいみたいでさ。よく来てくれるようになったんだよ。それも、どこぞのノマドワーカーみたいにさ。一度来ると店が閉まる頃までいるんだよ。
でもさ、左馬刻さんって見るからにヤバい人じゃん。永遠子も見ただろ?」
「ごめん。後姿しか見てないからわかんない。というか、髪の毛も白髪に見えておじいちゃんが来てたのかと思ってた」
「アハハ。後で見てみたら?すっごく怖いよ。あれこそ、キングオブワルだよ」
色々と含んだ物言いをしているが、それらのどこに面白いところがあるのか私には見つけることができなかった。それどころか、自信たっぷりの表情でそれを言い退けた伯父が哀れにさえ見えた。きっと叔父は大事な店をヤクザの溜まり場にされて、喋り相手を失って寂しい想いをしたのだろう。そのおかげで、自分が聞くに耐えない冗談を言ってるとも気がつかなくなってしまったのだ。そう思うと私は叔父がかわいそうに思えて、叔父のために精一杯の笑みを浮かべた。
「そんな言い方されたら全然怖くなくなっちゃったよ」
「とにかく、一目で危ない人だってわかるような人なんだよ。そんな人が毎日店に来るようになったらさ、他のお客さんたちが怖がって店にこなくなっちゃったんだよ。これってある意味営業妨害じゃん」
ストレート営業妨害だ。
「左馬刻さん以外お客さんが来ない日がしばらく続いたんだけど。そうしたら、迷惑かけてるからってお金くれたんだよね。
すごいよね。ヤクザってコンビニでタバコ買うみたいに、ポーンて札束で払ってくるんだよ」
大好きな映画のことを語るように叔父は実に感慨深く語ってくれているが、肝心なことはそんなところじゃない。黒い金の動きの一つに組み込まれて、叔父は破滅への道に一歩どころか二歩三歩と足を踏み入れてしまっていることの方がよっぽど重要だった。
どうか自分に迫っている危機に気がついてほしい。私は祈るような気持ちで夢中になっている叔父の話を遮った。
「叔父さん。面白おかしく話してるけど、それってヤクザにお店を貸し切り状態にされてるってことでしょ。
普通に考えてもかなりヤバいって。今すぐにでもあの人出禁にした方がいいよ。お母さんだって絶対そう言うよ」
私が母のことを口に途端、叔父は口にしたくないものを食卓に出されたときのように顔を歪ませた。
「あの人の言うことなんかどうでもいいよ。だって、ここは俺の店だもん」
税金対策だなんだといってこの店に関するありとあらゆる名義は叔父ではなく母のものだ。名ばかりの店長は居直って、言葉を続けた。
「お金はもう受け取っちゃったしね。今更出禁なんかにしたら、俺が殺されちゃうよ。
それに、ずっといるってわけではないんだって。しばらくしたら、違うところに行くって言ってたし。平気だよ。今回のは臨時ボーナスみたいなもんだよ」
「それでも返した方がいいよ」
「ツアー予約して前金払っちゃったから、返すのはちょっと」
無理だね。とあまりにもあっさりと言うものだから私は手で顔を覆った。
考えなしに金を受け取っただけでなく、それを返すことさえ出来ないなんて。
もう土下座をさせてお金を返すとか、叔父のために何かをするところなんて少しも想像できないけれども母を頼るとか、そういったことができる段階はとっくに過ぎていたのだ。万策は尽きていた。あとは、叔父が私や母の知らないうちにヨコハマの海に沈められて二度と浮き上がって来ないことがあるではないかという不安が現実にならないようにと願うことしかできなくなっていた。