世の中には、自分にとってプラスな物とマイナスな物、この2つの事柄で成り立っている。


例えるなら、パンと梅干。奴等は完全にマイナスだ。いや、寧ろマイナスどころか、何故この世に存在しているのか、その存在意義さえも問いただしてもいいレベルだろう。食い物の癖に、あのやたらモサモサした食感に、喉をえぐるような酸っぱさ。どう思考を巡らせてみても、奴等はこの俺に対して喧嘩を売り飛ばしている、と考えるのが妥当だ。例えどんなに他の人間が奴等の存在意義を主張してきた所で、残念ながらこの俺にそんな浅はかな理屈なんざ通用しねぇ。

それと同様、人間界でもこれと全く同じ事柄が成り立つ。

この広い世界、これだけ好き放題人が溢れ返っていれば、どうしても自分の性格とはソリが合わねぇ人間は浮上してくるもんだ。自分にとって今この瞬間、あるいはこれから先の未来、プラスな存在なのかそうじゃないのか。瞬時に判断をするべきだと、俺の生きてきた20数年間が、この場所にて、今しがた力強く警告音を鳴り響かせている。

「おい…てめぇ、いい加減にしろよ」

「んー…」

「着いたって言ってんだろうが。いつまで地面に這いつくばってやがる。さっさと鍵出せ」

「はいはぁ〜い!私の右ポケットん中に、しぃーっかりと入っておりまぁーす!」

「…俺に出せってか」

これ見よがしに堂々と舌打ちをしてやろうが何だろうがさっきからずっとこの調子だ。正に今この瞬間、このふざけた状況下は俺にとってマイナス以外の何物でもない。

勘弁してくれとでも言う様に、はぁ、と口から溢れ出た大きな溜息を吐きつつも、俺の足元で、猫のようにマンションのエントランスに横たわっているナマエの身体を抱き起こす。そのままガサガサと派手な音をたてて彼女のコートの右ポケットの中に指を突っ込めば、「いやん!トラファルガーさんのエッチ!」などと言う、大変ふざけた返答が返ってきた。こいつ…一回本気で張り倒してやろうか…

「あー…ちょっと飲みすぎちゃったかもぉ…」

「何がちょっと、だ。ふざけんなよてめぇ。この俺にこんな面倒掛けさせやがって…」

「レッドブル…レッドブルが飲みたい…一刻も早く…!」

「おーおー、そりゃ残念だったな。そんな大層な物なんざねぇよ。明日朝起きてから自分で買いに行きやがれ」

「えー…」

「おら、いいからさっさと立て。てめぇが動きさえすれば、俺は晴れて自由の身になれんだよ。酔っ払い女」

溜息と共に出てきた言葉は、我ながら辛辣な台詞だった。そもそも何故この俺が、酔っ払いもといナマエの介抱なんざしているかと言うと、それはおよそ約1時間程前に遡る。


『じゃあーナマエの事はトラファルガー、あんたに託すわ!死んでも無事に送り届けてよね!あともし何か変な事したら刺すから!』

そう言って、しっかりと親指を立てつつも満面の笑で俺に命令してきやがったナミ屋。…そう、全ての諸悪の根源はあいつだ。俺の始めの記憶を辿れば、入店当時、奴は既に出来上がっていた筈だ。だが、あの数時間のうちに何事も無かったかのように復活を遂げるとはさすがは鬼の女。敵ながらに拍手を贈ってやってもいい。まぁ勿論、週明けに速攻で呼び出しする事は決定事項だけどな。

「はぁ〜たっだいまぁ〜飲んだ飲んだぁ〜」

「おい…靴くらいちゃんと脱ぎやがれ」

「御意!へいっ!脱がしてくれっ!」

「死ね」

額に手を添え、床に尻餅をつきつつも、意味不明な発言と共に敬礼をするナマエの頭を軽く引っ叩く。そんな呆れ顔…いや、全力で引いている俺をまるで置き去りにするように、「え〜トラファルガーさんって、案外ジェントルマンじゃないんですねぇ〜」と、小言を吐く彼女の肝っ玉にはほとほと呆れる。そして何より疲れる。よくもまぁ何の義理もない女をここまで無事に送って来てやった恩人に対して、そんな文句を吐けるもんだ。これだから酒癖の悪い女はタチが悪い。やはりこの状況下は俺にとって完璧にマイナスだ。

「じゃあな、さっさと水でも飲んで寝ろ」

「え〜帰っちゃうんですかぁ〜」

「当たり前だろうが。…おい、なんだこの手は。離せ」

「嫌ですっ!いいじゃないですかぁ〜あともう一杯だけ飲みましょうよ!」

「黙れ。終電に遅れるだろうが、オラ離せ」

「ケチっ!トラファルガーさんのケチっ!!」

「ケチで結構。じゃあな酔っ払い女。てめぇ次会った時は覚え」

「ありがとう」

「……あ?」

ワーワー喚くナマエをそのまま玄関に置き去りにして、さっさと後にしようと踵を返した時だった。

「…実は、今日ちょっとだけヘコんでたんです。だからトラファルガーさんとシャチ君に会えて嬉しかった。何だかよく分からないけど、私…何故かトラファルガーさんとお話ししたら元気になるし、ホッとするんです」

「…………」

「だからありがとう。次会った時はこんな迷惑絶対掛けないので安心して下さい!」

「……確信犯か、お前は」

「さぁ…?どうでしょうね?」

「大した酔っ払いだな」

「えへへ」

そう言って、少し自嘲気味に笑う彼女の頬にそっと手を添え、スルリと一つ、親指で目元を撫でてやる。そんな俺の行動に驚いたのか、彼女は一瞬目を丸くさせたが、直ぐに俺の指に手を添えて、まるで猫のように気持ち良さそうに目を閉じた。

「冷たくて気持ちいいー…」

「悪かったな、冷え症で」

「ううん…丁度良い」

「…そうか」

そんな緩いやりとりを交わしつつも、もう片方の手で優しく頭を撫でてやれば、「何だか安心する…」と、小さく呟いたナマエを抱きかかえたまま靴を脱ぎ、そして奥の寝室へと運んだ。

「……世話が焼ける女」

カーテンの隙間から微かに差し込む月明かりが、彼女の顔を綺麗に照らす。よくあんな所で眠りにつけるよな、なんて。つい1、2分前のやりとりを頭に思い浮かべたまま弧を描く自分は、相当酔いが回っているようだ。

暫く気持ち良さそうに眠る彼女の頭を撫でてやり、最後にベッドから身を離して二歩程進んだその時、カツン、と質素な音をたてて何かが自分の爪先に当たった。

「写真?」

どうやらその物体の正体は、小さな写真立てだったようだ。恐らく棚に飾ってあった物が何かの拍子に床に落ちたんだろう。

「……こいつか、原因は」

少し寂しそうに床に転がっていた写真立ての埃を払い、その場にしゃがみ込んだまま、ただぼんやりと写真を眺める。そこに写し出されていたのは、ナマエを含めた男女四人。笑顔で肩を寄せ合っている写真だった。

「…幸せそうに笑いやがって」

隣でスースーと気持ち良さそうに寝息をたてる彼女をBGMに、俺の口角は無意識に上がったまま、カーテンの隙間から垣間見れる月を、そっと覗き込むように見上げた。

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