「お待たせ、行こっか」
大きな花束を手に、黒い服に身を包んだナマエが笑う。バタン、と鈍い音を立てつつも車のドアが勢いよく閉まっては「シートベルト、シートベルト」と何かの暗号のように彼女は小さく復唱した。それを横目にカチ、と彼女の腰に巻き付いたのを確認してゆっくりとアクセルを踏み、ハンドル片手に目的地へと向かう。
「晴れて良かったな」
「ね、本当に」
3日前の大雨が嘘みたい。そう言って、ナマエは無邪気に笑った。大きな花束を膝に抱えて少しだけ窓を開け、風に身を任せつつも外の景色を眺めているその横顔はただ単純に綺麗だなと思った。片手で軽く髪を押さえつけながら、「ロー、風が気持ち良いね」と呑気に彼女は笑う。それに二つ返事で返し、黒いシャツの胸ポケットに忍ばせていた煙草ケースに手を伸ばして、カチ、と火をつけた。
『週末、予定空けておいてくれないかな』
ナマエと互いに自分の気持ちを伝えあったあの日、最後にそう言って俺に微笑んだ彼女は「行きたい場所があるの」と俺にそっと告げてきた。その行き先とは、例の男が眠る墓なのだと彼女は少しだけ遠慮がちにそう口にした。
「墓参り?」
「そう…実はまだ一回も行けてなくて。酷い女でしょう?私…」
「…………」
「ずっと、彼が亡くなったっていう事実を認める事が出来なかったから…未だに行けてなくて…」
「………良いのか、そこに俺が居て」
「うん…てか、私がローと行きたいから」
「…………」
残酷な事を言ってるのは自分が一番よく分かってる。でもそれでもローと行きたい。
そう言って、ナマエは申し訳なさそうにその場に顔を俯かせて呟いた。その小さな身体を見つめつつも、次に自分が口にするであろう台詞は既に心の中で決まっていた。
「10時に迎えに来る」
「………え?」
「お前、そんな大事な日にくれぐれも寝坊だけはするなよ」
「……うん、ありがとうロー」
ごめんね。そう小さく謝罪の言葉を添えて、彼女は俺に向かって頭を下げた。俺はその言葉に「やめろ、別に謝って欲しい訳じゃねぇ」とナマエの頭を少しだけ乱暴に撫でてやっては、二人一緒に腰を降ろしているソファー内に彼女の細い肩を抱き寄せる。それに安心したのか、その後直ぐにナマエは瞼を伏せ、そして眠りの世界へと旅立って行った。
「………寧ろ謝りてぇのは俺の方だ」
俺の腕の中で、スヤスヤと気持ち良さそうに眠る彼女の綺麗な髪に指を滑らせて顔に近付ける。丁寧に手入れされたその柔らかな感触と、微かに香る心地良い匂い。それに癒しを感じつつも脳裏に過るのはただ一つ。
「……挨拶しに行かねぇとな。その男に」
お前が生涯大事にしようと決めた女を横から掻っ攫って悪かった、と。でも別にそれは許しを請いたい訳でも認めて欲しい訳でもない。ただ素直に謝りたかった。人が人に惹かれる理由とはそれ程山程ある。きっとナマエに出会ったのも、そしてまた必然のように彼女に惹かれたのにもそれなりの理由がある筈。神様、とやらが本当にこの世に存在するならば、一度目の前に立って問い掛けてやりたい。
人の運命を定めるのには、そこに何か特別な法則でもあるのかと。
「……………」
そこまで考えて、指の隙間からするりとナマエの柔らかな髪が零れ落ちる。それをぼんやりと見つめつつも、彼女の肩に廻した腕を更に強く抱き寄せては、その小さな肩に自分の頭をくっつかせて、俺もそれに続くように眠りの世界へと旅立って行った。
「あ、誰かいる…」
「あ…?」
無事に目的地へと辿り着き、目の前に広がるその殺風景な墓を前にしゃがみ込むある一人の女の姿。恐らくざっと見渡した所、中年の女のように見えた。墓の前で念入りに何かを祈るように手を合わせ、その頬には太陽に反射してキラリと光った涙が伝わっていた。………誰だ、あいつは。
「………お母さん?」
「………あ?」
「や、やっぱり…!お母さんじゃないですか…!ご、ご無沙汰しております!ナマエです!」
「え…ナマエちゃん…?」
「はい!」
何が何やら少々戸惑い気味の俺を放置して、少し遠くに見えるその女の元へとナマエは駆け足で近寄って行った。どうやら女の正体とは、あの亡くなった男の母親のようだった。
「ま、まぁまぁ…!ナマエちゃん、わざわざ来てくれたの?本当に有難う…!」
「いえそんな…!…寧ろ逆に遅すぎたぐらいで…あの。本当にすいません…この4年間、一度もお参りに来れなくて…」
「ううん、そんな事ないのよ!あの子もきっと今頃喜んでいるわ…!」
そう言って、目を見開いたままナマエの身体のあっちこっちに手を這わせて、「元気にしてた?ちゃんとご飯は食べてる?」と何度も何度も労りの言葉をナマエへと向けていた。その二人のやりとりを少し遠く離れた場所からぼんやりと眺めては、完全に今自分は場違いだなと判断し、暫くの間席を外そうと踵を返す。
「…………あら、もしかしてあの人…」
「え?……あぁ、はい…!」
「………そう、良かった。安心したわ」
「え?」
ちょっとすいませんー!そこの背の高いお兄さんー!その周りの風景とは酷くアンバランスな叫び声に、俺の足はピタリとその場に止まった。そのまま無言で踵を返し、声の主へと振り返る。「おーい!こっちこっちー!」とさっきの母親が笑顔で此方に手を振っては俺を呼んでいる。それに対して俺は少なからず動揺した。勿論その隣にはナマエも立っていて、どれだけ困った顔をしているのだろうかと思ったが、その顔は意外にも穏やかな表情で、正直拍子抜けした。
「お母さん、紹介しますね。この人はトラファルガー・ローさんって方です」
「………初めまして、トラファルガー・ローです」
「初めまして、私はここのお墓に眠っている子の母親です」
「どうも…すいません、何も関係ない自分まで足を運んでしまって」
「あら、何言ってるの。そんな事ないわよ、きっとあの子も喜んでいるわ」
「……………」
……恐らく、この母親は俺とナマエの関係に気付いている。それでもあえて、何も気付かないフリをしてまで俺に気を遣っているのだろう。そう思った。その優しさがチクリと一つ胸に突き刺さり、そしてそれ以上に二人に対して申し訳ないとも思った。……何をやってやがる、俺は。
「……お母さん、お花買って来たんですよ私。ここに一緒に飾りませんか?」
「まぁ綺麗…!素敵だわ!有難う、是非ともそうしましょう…!」
「じゃあ俺も手伝います」
「あら、そう?じゃあ宜しく頼むわね、ありがとう」
「いえ…」
にっこりと目を細めて穏やかに笑った母親の表情はとても柔らかいものだった。きっと亡くなった男も、この母親のように優しい目をしていたのだろうなと、ふとそんな事を思う。それを横目に墓の前に花束を広げたナマエの隣に腰を下ろし、自分は何をすれば良いのかと質問をする。
「んー…じゃあローは、あそこに立て掛けてあるバケツに水を汲んできて貰える?お花は私とお母さんでやるから、ローはお水を上からお墓に沢山掛けてあげて」
「あぁ…分かった」
宜しくね!そう言って、ぱっと花が咲いたかのように笑ったナマエの頭を軽く撫で、その場に腰を上げては少し離れた場所へと足を進める。辿り着いたその先で、何個か壁にぶら下がって掛けてあったバケツの一つを手にし、その隣にあった水道水の蛇口を捻っては勢いよく水を溜めていった。
「………あんな感じの奴だったんだな、きっと」
周りに誰も居ないその場所で、ポツリと小さく独り言を呟いた。……そう、恐らく亡くなった男もあの母親のように広い心を持った男だったのだろう。見た事もなければ話した事もない。それこそ一度も会った事はない奴だが、それでも何となく本能で分かる。そして間違いなくナマエは、そんな真っ直ぐな心を持った男だからこそ惹かれたのだろう。……正に俺とは真逆な奴だ。
「もはや奇跡だな…」
ナマエを手に入れる事が出来たのは。そんな事を思いつつも、見る見るうちに溜まった水を目にして直ぐに蛇口を捻って勢いを止めた。最後に名残惜しそうにピチャン、と零れ落ちた一滴の滴。それをぼんやりと眺めつつも、その場にて一人、小さな息を吐いた。
「素敵な人ねぇ…彼」
「え?」
ナマエちゃんの大事な人なんでしょう?そう言って、大きなハサミを手にしたお母さんが、口の端を上げて穏やかに微笑みつつもお花の茎を一つ一つ丁寧に切り落としていく。その横顔をぼんやりと見つめつつも、何処か遠くに飛ばしていた意識を取り戻して、「はい」と小さく答えた。
「………ローは、私のとても大事な人で、そしてそれ以上に全てが眩しい人なんです」
「そう…それは良い事ね。何かそれ、彼を見てて分かるわ」
「はい。……それと同時に、ローに出会って気付かされました。私、自分で思ってた以上に弱い人間だったみたいで」
「……………」
「ローに、救われたんです。私」
感謝してるんです。それがちゃんと本人に伝わっているのかはちょっと、不安な所ではあるんですけど。
そう説明を付け足して、私は隣に腰を下ろしているお母さんに向かってにっこりと微笑んだ。それこそ、何の迷いもなく。ただただ真っ直ぐな想いをぶつけるかのように。
「本当に安心したわ…私」
「…………え?」
「この4年間、ずっとあなたの事を心配してたの。あの子が亡くなった原因は自分なんじゃないかって、あなたの事だから自分自身をずっと責めているんじゃないかしら…ってね」
「……………」
「でも、もうそんな心配は必要ないみたいね」
「………お母さん、」
よし、綺麗に仕分け出来た!そう言って、にっこりと嬉しそうに手を叩いてお母さんは勢いよくその場に腰を上げた。そのまま一つ一つ丁寧にお花を飾りつけながら、眉を下げて彼女は少しだけ困ったような表情をしつつも話の続きを口にする。
「ナマエちゃん…もう良いのよ」
「…………え?」
その姿をぼんやりと眺めていた私の手をギュ、と握り締めて、お母さんはポロリと一つ大きな涙を溢した。
「もう十分…あなたはよく頑張ってくれたわ。あの子もそれは痛い程分かってると思う」
「……………」
「だから…っ…、もうあなたはあなたの人生を生きていきなさい。大事な人が居るなら尚更…」
「………お母さん」
今まで本当に有難う。そしてそれ以上に、あの子と出会ってくれて本当に本当に有難う。
何度も何度もそう口にしては、お母さんは私の両手を握り締めて感謝の気持ちを私へと伝えてくれた。その小さな姿を前に、視界がゆらりと涙で滲む。私が涙を溢すのは可笑しい。そうは思いつつもその勢いを止める方法が全くと言って良い程思い浮かばなくて。次に気付いた時には、目の間に居る彼女の身体を思いっきり強く抱き締め、そして同じように自分もわんわんと泣き叫ぶように声を出して泣いた。
「………わ、私…ほんとうにほんとうにほんっとーに…っ…、心の底から…か、彼の事が好きでした…」
「……うん、分かってるわ…ちゃんと…、それは私もあの子も分かってる…」
「お母さん…、彼を…ちゃんと守ってあげれなくって…っ…!ほん、とうに…ごめんなさい…!!」
「何言ってるの…!そんな事、私もあの子も一ミリも思ってないわ…!」
「ご、ごめんなざい…っ…!!ごめ…っ…なざぁぁい…っ…!!」
………この4年間。いつだって、一番に想い出すのは彼の優しい笑顔だった。
『大丈夫だよ、ナマエを独りになんてしないから』
独りにはしない。そう何度も私に優しい言葉をくれては、その度に強く私を抱き締めてくれた彼。
『俺、今生まれて初めて運命を感じたんだけど』
『良いんじゃない?人にどう思われようが自分の好きにしてみれば。ほら、案外みんな良い意味悪い意味自分の事以外見えてないもんだし』
『自分のやりたいようにやってみな。人生一回きりだよ』
そこに躓きそうになる度に、彼は何度だって諦めず私を救い出してくれた。狙った優しさでもない。何か大きな事を成し遂げようと考えて発言していた訳でもない。それでもいつも真っ直ぐな気持ちを背に、私を暗闇から引っ張り出してくれる。そんな誰よりも優しい彼の事が大好きだった。
『俺と結婚して下さい!』
だからあの時、何の迷いもなく彼のプロポーズを受け入れた。今まで彼に支えて貰った分、今度は自分がお返しする番だと思ったからだ。そして何より、そんな彼の側で、生涯を共に過ごしていきたいと心の底からそう思えたから。
『楽しみだなー結婚式!』
いつも、ずっと心の奥底で引っ掛かっていた。
………約束を、果たせなくてごめんね。ずっと側に居てあげる事も出来なくて、ごめん。あなたがこの世界から姿を消したと同時に、全てから目を背けて、そしてそのせいでこの場所に一度だって会いに来なかった私を、どうか許して欲しい。
「……幸せになるのよ、ナマエちゃん…っ、世界中の誰よりも一番…」
「お母さ…っ…、」
「それが、あの子と私の一番の願いよ…!」
誰よりも一番泣きたいのはお母さんの筈なのに、でもそれ以上に、馬鹿みたいにその場で泣きじゃくる私に、彼女は何度も何度も背中を撫でてくれながらも私に自分の気持ちを伝え続けてくれた。その痛い程の優しさに更に泣けてきて、嗚咽を漏らしながらも、それに応えるかのように何度も何度も私は首を縦に振る。やがて段々と落ち着きを取り戻した私の背からそっと手を離し、そこに何本か余っていた花を綺麗に飾り付けて、最後に「元気でね…誰よりもあなたの幸せを祈っているわ」そう言って踵を返し、彼女は静かにその場を去って行った。
「……うっ…、」
一人そこに取り残されたまま、その場に小さくしゃがみ込む。きっと、涙は永遠に枯れる事はないだろう。だけど形のない物だと分かっていても、それでも願わずにはいられない。
『ナマエ』
記憶の片隅に眠る、いつまでも色褪せる事はない、彼と彼の幸せを。
「………ナマエ、」
その心地の良い声に、はっと意識を取り戻して振り返った。そこに立っていたのは、少しだけ心配そうに眉を寄せて此方を見つめるローが居て。
「……帰ったのか、あの母親は」
「うん…」
そうか。そう言って、ローは手にしていたバケツをその場に置いて小さな息を吐いた。そのまま私の前へと辿り着き、同じように腰を降ろして私と同じ目線を向けてくれる。
「………綺麗だな、花」
「うん…」
「水、掛けるか。お前の為にこれでもかという程沢山汲んできた」
「あはは…!そんなに?」
「あぁ、感謝しろよ」
そう言って、目を細めて穏やかに微笑んだローは頬に流れた私の涙を優しく拭ってくれた。泣いてる理由、聞かないの?そう小さく問いかければ、「そんなもん、いちいち聞かなくても分かる」と、彼は困った顔をしつつも小さく笑った。
「墓参りなんざ初めての経験だな」
「え…?」
「感謝してる。お前にも、この男にも」
「…………」
「何せ、俺の初めてをくれた奴等だからな」
「ロー…」
聞けば、ローの家族は自分が幼い頃に病死して今は居ないとの事だった。故郷も遠い為、家族を失った瞬間に親戚の家を転々としていたせいで、今まで一度も墓参りをした事がないと、少しだけ寂しそうにローは私に説明をした。そしてなにぶん、自分もまだ幼かったからか、その時の気持ちがどうだったのかも詳しくは覚えていない、とローは言う。
「お陰で大して愛情を受けた記憶がねぇ分、人とどうやって向き合えば良いのかさっぱりでな。お前と出会うまでは、本当にカスみたいな生活を送ってた」
「ロー…」
「嘘じゃねぇぞ。本当に感謝してる。こんな俺に、愛情…とやらを教えてくれたお前等二人にな」
「……………」
にしても、大して暑くもねぇのに墓に水を掛けんのか。その場に腰を上げて、彼のお墓の前でブツブツそんな小言を吐くその横顔に、「ロー、」と小さく名前を呼んだ。
「あ?」
「……………」
「………おい、どうした」
「……………」
「ナマエ?」
名前を呼んだくせに、その場で俯いたまま何にも口にしようとしない私に、ローは焦りを含んだ声で此方に問い掛ける。ようやくそこで地面から顔を引き上げて立ち上がり、少し離れた場所に立っているローと二人、互いに向き合う形で視線と視線が交差し合う。
「…………今から私、ローに凄い酷い事言ってもいい?」
「………あ?」
「言って、いい?」
「……………」
その私からの真剣な顔と発言に、少しだけ目を見開いたローがその場に黙る。でも直ぐに「あぁ…」と返事を返してくれた。それに一度大きく深呼吸をし、ゆっくりと口を開く。
「………私、多分一生彼の事を忘れる事はないと思う。例え何年、何十年経ったとしても」
「……………」
「でも、もうそれは好き…とかじゃなくて。自分の記憶の中で眠る彼との想い出を…なかった事には絶対したくないな…っていう気持ちからで、」
「………あぁ」
そこまで口にした所で、またしてもジワリと視界が涙で滲む。
「……っ…、私、ずっと…彼を想い出にするのが怖かった…もう何年も現実から逃げてたの…っ、」
「……………」
「でも…っ…、そんな中ローに出会って気付いたの…それじゃ駄目なんだ、って…」
「……………」
「わ、私がずっと守ってきたつもりのその小さな抵抗は…っ…、自分にとっても彼にとっても…何一つ意味がない物なんだ…って、…ようやく気付けたから…だからっ…、!」
その瞬間、ポロ、と零れ落ちた涙。と同時に、私の奥底で何処からともなく懐かしい声が目の前を横切っていったような気がした。
『頑張れ、頑張れナマエ』
「…………私…ローの側に居たい…っ、」
「……………」
「…っ、こ、これまでいっぱい…いっぱいローの事を傷付けてきた私が…こんな事言えた立場じゃないんだけど…でも…!」
「……………」
「………そ、それでも、…っ…ローの隣で、ローと肩を並ばせて…これからの人生を一緒に過ごして行きたい…っ、」
「……………」
「………ダメ、かな…そんな我儘な事考えちゃ…」
「……………」
ローは、感情が抑えきれずに拙く話す私の話を、ずっと黙って聞いてくれていた。それこそ何かを見守るかのように。
そう、ローは初めてその場その場で私に的確な答えを教えてくれた人。
『……別にお前のせいじゃねぇだろ』
『黙って俺の胸の中にいろ』
『俺は半端な気持ちでお前に手を出したつもりはねぇ』
現実から目を背けてばかりだった私に、言葉足らずではありながらも、真正面から私の気持ちと向き合い、その時々で道を開いてくれた。弱い自分でも良い。向き合え。そう何度も後押しをしてくれては、私自身をそっと優しく包み込んでくれた。
『……一生、俺の片思いだと思ってた…』
………きっと、その分沢山傷付けた。それこそ自分では図りきれない程に。沢山傷付けて、沢山困らせて。でも最後にはいつも、こんなどうしようもない私を全力で守ってくれて。馬鹿な私は、いつもそんなローの優しさに甘えてばかりだったね。
「………っ、か…彼の事は忘れない……忘れる事は一生ない。…でも、それでも…!」
「……………」
「……今度は、私がローの事を守りたい…っ、」
「……………」
「…………ローが好き…、好きなの。こんなどうしようもない私に…、いつも本気で向き合ってくれる、そんな優しいローの事が…せ、世界中の誰よりも…っ!」
「……………」
こんな私じゃ駄目かな。そう小さく呟いて、その場に深々と頭を下げた。目をギュ、と深く瞑り、自分より少し離れた場所で立つ、ローからの返事を待つ。
「………俺も今から、お前と同じように酷な事言っていいか」
「………え?」
「言うぞ、覚悟しろ」
思ってもみなかったローのその返事に、思わず素っ頓狂な声を挙げてゆっくりと体制を起こした。コートのポケットの中に手を入れて、少しだけ肩を竦ませて此方を見つめる彼の表情は、所謂無の状態で。その読めない表情に思わず目が点になってしまった。
「………最初はお前の事、どっちかと言うとただの興味本位から始まった」
「……………」
「こいつは今何を考えてこんな発言をしてるのか、何を思ってこの男の事を忘れられずにいるのか…ただそれだけが気になった」
「……………」
ゆっくりと、ある一点を見つめながらもローは私に順を追って説明をしていく。何度も何度も、まるで何かを自分の中で整理していくかのように。
「……だがいつの日からか、そんなお前の心の中を知りたいと思い始めた。…俺が全部受け止めてやりたい…とな。でもその分、お前の心の中をいつだって支配しているこの男の存在が邪魔で仕方がなかった」
「………ロー」
そう言って、ローは直ぐ隣にある彼のお墓へと目を向ける。
「……何とも情けねぇ話だ。もうこの世界には存在してねぇ奴に、いちいち馬鹿みたいに嫉妬して…亡くなった奴に勝てる訳もねぇのにな」
「……………」
「……でもこいつのお陰で、俺はお前の事が何よりも大事なんだと改めて気付かされた。……だから今は前と違って心の底から感謝してる」
「……………」
お墓に目を向けたまま、ローは腕を伸ばして、そっと墓石に触れて目を細めて笑った。
「………ナマエ、そもそも誰がこいつを忘れろなんて言った」
「…………え?」
そこまで口にして、ローは墓石から手を離し、目の前に佇む私へと強い視線を向ける。
「確かにお前は酷ぇ女だ…何処かで俺がお前に惚れてると気付いてたくせに、それでも敢えて見て見ぬフリをしてたんだからな」
「い、いや…別に私、そんなつもりは…!」
「だがそれは、お前が自分の中ではっきりと過去は過去のものへと変えなきゃならねぇと分かってたからだろ。そんな中途半端な想いで俺には向き合えねぇ…とな」
「………ロー」
「俺は、」
その言葉を最後に、ローはそこで一度大きな息を吐いた。眉を下げ、何かを祈るように瞼をそっと閉じて、ゆっくりゆっくりとその形の良い唇を開く。
「…………今まで一度だって、この男の事を想うお前が嫌だと思った事はねぇ」
「……………」
「寧ろそんなお前だからこそ俺は惹かれたんだと、そう思ってる」
「………ロー」
ローの言葉が、まるで何かのパズルが当てはまっていくように、私の胸の中で一つ一つ視界がクリアになっていく。
「………過去も現在も未来も見据えるそんなお前が、俺はただ愛しい」
「……っ…、」
「別に良いだろ、無理にこいつを忘れようとしなくたって」
「……ローっ…、」
「ちゃんと向き合い続けてやれ…こいつと。それこそお前の一生を掛けてな」
「………うん」
俺はそんなお前の隣に居られれば、それだけで充分だ。
そう言って、ローは穏やかに笑った。そしてその時心の底から、改めてローに出会えて良かったと思った。……一体この人は何処まで私の事を理解してくれているのだろうか。こんな私のどうしようもない部分を含めて、それでも彼は全部を受け止めてくれようとしている。そんな広い心を持ったローに、私は今後どうやって恩返しをしていけばいいのだろうか。
「………ナマエ、来い」
そんな事を頭の中でグルグルと考えていたその時、ローに呼ばれて地面に俯かせていた顔を彼へと向けた。ボタボタと情けなく大量の涙を頬に流している私に、ローは少しだけ困ったような顔をして、自分の方へ来いと両手を左右に広げては自分の元へと私を呼び寄せる。
「………お前は泣いてばっかりだな」
「ローぉ…っ、」
「ひっでぇ面…」
「う、うるさいな…!」
その大きな腕に飛び込んだ瞬間、ロー特有の独特な匂いが鼻を掠める。煙草の入り混じった苦い香りと、彼がいつもつけているお気に入りの香水の匂い。くすくすと楽しそうに喉を鳴らすローに、優しく身体を包み込まれては、ヨシヨシと頭を撫でられる。泣いてばかりの私にローは一つ、私のツムジに小さなキスを落とし、やんわりと腕を引き離しては、泣き腫らして赤くなった私の目元に、スルリと親指を滑らせては小さく笑う。
「おら、笑え」
「無理…まだそんな気分じゃない…」
「なら俺が笑わせてやるよ」
「え?」
そう言って、相槌をうった瞬間降り注いできたローのキス。子供を落ち着かせるかのように、私の顎を持ち上げて腰に腕を廻し、ただただ唇と唇が触れ合うだけの軽めのキスだった。でもそれが何だかとても心地が良くて、そして何処かそれ以上に切なくって。笑え、と言う割にはこの男はわざと私を泣かせようとしているのだろうかと、本気でそんな馬鹿な事を考えた。
「ロー…好き、」
「……あぁ」
「好き…っ…、だいすき…」
「俺も…それこそ気が狂いそうになる程にな」
そこまで気持ちを伝えあった所で、いつもの深いキスへと一気に変化した。頬に沢山の涙を流しながらも、唇を薄く開いてローからの舌を強請る。それに気付いたローが、その小さな隙間から舌を侵入させて、息継ぎもままならない程の深いものへと変えていった。私達の隣には彼が眠るお墓。周りには沢山の木々達が風に揺れていて、何度も何度もその横を幾多の風が吹き抜けていく。
『ナマエ』
その時。記憶の片隅で、あの頃の彼が屈託なく笑ってくれたような気がした。嬉しそうに此方に手を振りつつも、その彼の表情はいつもと変わらない笑顔のようにも見えて。何だかそれがとても嬉しかった。
…………絶対に忘れないからね。
ローと何度も何度もキスを繰り返しながらも、ふと一人心の中で誓う。まるでその私の決意を後押ししてくれるかのように、その時、ある一つの大きな風が私達二人の前を横切っていった。その大きな風にゆらゆらと揺れて、白い二羽の鳥が大空へと羽ばたいていく。それをぼんやりと目に入れては、また静かに瞼を閉じ、目の前に居るローの首元へと、そっと腕を廻した。
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