薄暗い寝室内に、ぼんやりと浮かぶ人工的な光。時刻はまだ朝の4時。何となくではあったが、ベッドのヘッドボードにある自分の携帯を手にして確認したそれは、夜明けにはまだ少し遠い時間帯だった。
「…………目ぇ覚めたな」
うわ言のように、一人そんな独り言を呟いて自分の身体を覆い包んでいる布団を剥ぐ。ふと隣に目を向けると、うつ伏せの状態で顔だけを此方に向けたナマエがスヤスヤと心地良さそうに寝息をたてていた。
「……………」
そのいつもより幾らかあどけない彼女の頬に手を滑らせ、そしてそのまま流れるように頭を撫でる。そんな俺の行動に少しだけ身体と眉をよじらせたナマエは、「んー…」と小さな唸り声をあげた。
「………悪かった」
ふいに出た謝罪の言葉。それが何を意味するのか、この状況を目にする奴がいたなら当然のように自分が犯した罪を蔑み、そして罵る事だろう。『全てお前が悪い』と。
「……………」
最初に一度、この家に訪れた際に目にしたあの写真たてが視界に映る。その真ん中でナマエの肩に腕を廻して満面の笑みを浮かべたある一人の男に、『一体お前は何をしてくれたんだ』と責められているような気がした。
ポツ、ポツ。ザァァァア…
外は未だ土砂降りの雨が降っている。窓に立て付けてあるブラインドカーテンの隙間から僅かに漏れている外の明かり。それが何だかもどかしく、そして何処か苦しかった。俺はまるでその光から逃げるようにベッドから抜け出し、深い眠りについているナマエを起こさないように細心の注意を払いながらも、パタン、と静かに、寝室のドアを閉めた。
「………まだ捨ててなかったのか、これ」
換気扇の下で、カチ、と煙草に火をつけて一番最初の煙を勢いよく吐き出す。咥え煙草をしたまま、小さな明かりを付けたと同時に姿を現した、自分専用の灰皿。ぼんやりとそれを見つめたまま、その中身に対して小さく呟いた。前に最後に訪れた日に自分が吸った、大量の吸い殻が未だそこに変わらずあり、非喫煙者のナマエがそれを捨てずに、まるであの日の続きのようにそこに存在しているのが不思議な感じがしてならなかった。
「……………」
いつもなら困った顔をして、俺が吸い終わったと同時に即座にゴミ箱に捨てていた筈。なのに今回ばかりは違う。まるで俺が此処で煙草を燻らせるのを待ち望んでいたかのようなその行動に、ふと、らしくもない淡い期待が脳裏をかすめた。
『………んっ、ロー…』
あの甘い声に、いつも俺の思考回路はあらぬ場所へ行く。まさか自分が此処まで理性を制御出来ない人間だとは思ってなかった。結局の所はただの盛りのついた男でしかなかった、という訳か。連絡が取れないなら会いに行けば良い。それを拒否された所で、ナマエが嫌がろうが何だろうが無理矢理力でねじ伏せてやれば良い。本気でそう思った。
『言っとくが、俺は半端な気持ちでお前に手を出したつもりはねぇ』
そしてあの言葉にも、何一つ嘘偽りはなかった。これまで一度だっていつまでも想い出に縋る弱い女、とも思った事は無かったし、寧ろ逆にそれだけ誰かを純粋に想い続ける事が出来るナマエだからこそ自分は惹かれたのだろう。と、ふと思う。
「…………」
暫くそこで無言のまま立ち尽くしていた。気付けばフィルターぎりぎりまで限界に来ていたそれを最後に、ふぅ、と吐き出しては灰皿に押し付ける。そのまま洗面所へ向かおうと踵を返し、リビングの扉を開いたと同時に目に飛び込んで来た二つの傘。一本は自分の黒い傘。そしてもう一本は…
「…………まさか、あいつ」
ふいに手にしたそれを見つめながら呟く。そしてその瞬間、この4年間もの間、あの何度も何度も脳裏に過った、あの土砂降りの雨の日の記憶が蘇る。
『あぁ、有難う。でも気にしないで。私、好きでここに居るから…』
そこでようやく何かに気付いた。
………そうか、あいつが。
「…………お前だったのか、ナマエ」
小さく呟いて、手にしていたそれを力強く握り締めた。視界の先に映るもの。……それは、あの4年前の雨の日に出会った女が、……ナマエが手にしていた、あの青い傘だった。
『…んな所で何してやがる。さっさと乗れ、風邪引く』
いつもの週末。あの日はやたら商談やらなんやらと予定が立て込んでいて、いつもより倍以上の疲労が溜まっていたのを今でもよく覚えている。そのせいか、憂さ晴らしがてらいつものようにペンギンと会社帰りに飲みに行っては少々アルコールを摂取しすぎた事に少しだけ悔やんでいた。その帰り道、ふと何となく気分転換がてらいつも通るルートを変更し、少しだけ遠回りする事にした俺は、ただ無心で道路の端を歩き続けた。
「…………飲みすぎたな」
ふとそんな事を考えつつも少し遠くに見えてきたタクシー乗り場。結局このどんよりとした土砂降りの雨の雰囲気に負けて、電車ではなく急遽タクシーに乗り変えようと思考を捻じ曲げた。あともう少しで乗り場まで辿り着く。正にその時、俺の隣を風のように横切って行った二つの声。
「こっちこっち!ママ早くー!」
「こら!ちょっと待ちなさい!車に轢かれちゃうから…!」
全身黄色いカッパに身を包み、そして黄色い長靴を履いた幼い子供が嬉しそうに自分の背後にいる母親の元へと声を張り上げては呼び寄せる。同じように少しだけ息を切らしつつも、自分より少し前を走る子供へと注意を促した母親と子供のその二つの声は、パシャパシャと水溜りを蹴りながら俺の横を勢いよく通り過ぎて行き、そしてその声は次第に小さくなって消えて行った。
「………ガキが。散っただろうが」
お陰で自分が着ているスーツの裾が少しだけ泥に塗れた。…だがまぁ良い。どっちにしてもこれはいずれクリーニングに出そうと考えていたものだ。そんな事を思いつつも小さく溜息を吐き、俺は歩く速度を速めては目的地へと急ぐ。
「……………」
だが、終盤に差し掛かった所で俺はピタリとその場に足を止めた。何故なら、まるで通り過ぎて行ったあの親子と入れ違いのように、青い傘を差し、そこにただ茫然と立ち尽くしていた女の姿がふと目に留まったからだ。
「……………」
少し離れた場所から、その女の動向を見張る。何せその女がさっさとタクシーに乗り込んでくれなければ、次につっかえている自分が乗車出来なかったからだ。『さっさと乗れ』念を送るかのように、ただその場所にてひたすら無言で女を睨み続けた。…だが、俺がどれだけ鋭い視線を浴びせてやろうが何だろうが、一向にその女が乗車する気配はない。どうやらそれに気付いたタクシーの運転手も、声を掛けて良いものなのかどうか少々戸惑っている様子だった。
「……………」
暫くして睨むのを止め、その女の横顔をぼんやりと見つめる。まるで此処ではない、何処か違う場所に想いを馳せるかのように、女は依然としてその場所で一人、覇気のない顔でただただ静かに遠くを見つめ続けていた。
「…んな所で何してやがる。さっさと乗れ、風邪引く」
ついに痺れを切らした俺は、止めていた足を動かし、そこに呆然と立っていた女へと声を掛ける。だがそれに反応して、ふいに此方へと顔を向けた女の表情に、その時の俺は柄にもなく声を失った。
「……………」
「……………」
互いに無言のまま、暫くその場にて何十秒か時が止まった。…かのように思えた。それ程今自分の目の前に立っているその女の表情が予想外すぎたからだ。
「あぁ、有難う。でも気にしないで。私、好きでここに居るから…」
「……………」
沈黙を先に破ったのは女の方だった。だがその発言と引き換えに、彼女の頬に伝わった一筋の涙。それが何だかやけにアンバランスで、そしてそれ以上に何故か胸が締め付けられ、何とも言葉にし難い程の複雑な感情に包まれた。……何硬直してやがる。用がないんならさっさとその女を退かせれば良いだけの話だろ。と、俺の頭の中で、もう一人の冷静な自分が指令を出す。
「………乗れ」
だが口から出てきた言葉は、自分が考えていた思考とは真逆の言葉だった。それが何故なのか、その理由は未だに自分でもよく分からない。ただ何となく、その女の事が放っておけなかった。
「…………待ってるんだ、私」
「あ…?」
「此処で。大切な人を」
「……………」
もうずっと、この場所で。そう言って、女は寂しさを覆い隠すかのように笑った。…笑った、と言ってもその表情は硬く、まるで無理矢理無茶な理由をつけて、自分に言い聞かせているかのように見えた。
………………待ってる?自分の大切な奴を…こんな閑静な住宅街でか?
「…………こんな場所でか」
「そ、こんな場所で」
「……………」
「だから私の事は気にせず乗って下さい。本当、大丈夫…、だから……」
「……………」
何が大丈夫だ。馬鹿なのか、この女は。その時本気でそう思った。どう見ても、こいつは全く大丈夫なんかじゃない。ただの強がりでしかないのは明白だ。ただ待ってるだけなら何故泣く。相手が家に帰って来るのを分かっているなら、わざわざこんな場所で、しかもこんな土砂降りの雨の中傘を差してまで待つ必要はない。
………………何言ってやがる、この女は。
「おい…訳が分からねぇ事言ってんじゃねぇよ…さっさと乗れ。それともあれか、お前ん家はこの辺なのかよ」
「………………」
「…………おい、てめぇ。話聞い、」
「違う」
「…………あぁ?」
苛立ちを重ねる俺の言葉を遮って、女は力強く否定した。小さく左右に頭を振り、手にしている傘の柄をギュ、と強く握り締める。その手は恐らくだが震えていた。
「………何が違う」
「…………」
「おい、」
「分かってるの、本当は」
「………あ?」
答えを急かす俺に、ようやく何かを口にしたその言葉に俺の思考回路はピタリと止まった。そのままぼんやりと意識を女に向け、次に出て来るであろう言葉の続きを静かに待つ。
「………分かってるの。そんな事は自分が一番…どんなに此処で待ち続けても、彼はもう二度と家には戻って来ない事も…」
「…………」
「もう二度と、あの…っ、優しい笑顔も見れない事だって…自分が一番よく分かってる…っ、」
「…………」
「…っ…、でも、仕方ないでしょ…?だって、…信じられないじゃない…もう二度と会えない、だなんて…」
「…………」
「……も、もう二度と…っ…、この場所で待つ事さえも出来ない、だなんて…」
どうやって受け止めればいいの?
そう言って、震える身体を片手で抱き込み、女は顔を伏せたままその場に小さくしゃがみこんだ。まるで感情を無理矢理抑えつけるかのように、下唇をギュ、と噛み締めながら。そしてそこでようやくこの女の言っている意味が分かったような気がした。……恐らくこいつは、もう二度と会えない奴の帰りを待っている。こんな天気の悪い日に、こんな場所で。
「………どっちにしてももう帰れ。流石に風邪ひく」
「……っ……、」
「此処から家が近ぇんなら尚更。何なら俺がお前を家まで送ってやってもいい」
「……い、いえ…っ、大丈夫、です…」
「………ならもう行け」
中途半端に距離が空いていたそこまで歩を進め、しゃがみ込んでいる女の腕をやんわりと引いてはその場に立たせた。地面に顔を俯かせたままの女の頬にはさっきと変わらない大粒の涙が流れていて、俺は無意識にその頬へと腕を伸ばし、何度も何度も親指で拭ってやる。
「………あの、」
「なんだ…」
「……すいません…何か一人で馬鹿みたいに泣いちゃったりして…今冷静になって考えてみたら…その、…なんというか…っ、恥ずかしい、です…」
「………別に。それよりお前そんな様子でちゃんと家まで帰れるのかよ」
「は、はい…、うち直ぐそこなんで…」
「なら良い…」
「…………」
その俺からの返しが予想外だったのか、目尻に大量の涙を浮かべたまま女はぼんやりと俺の顔を見上げた。その顔が何だかまるで道に迷った幼い子供のようで、そしてまたそれ以上に何処か切なそうで。ついさっき初めて言葉を交わしただけの奴なのに、何故こんなにも自分は心配の目を向けているのだろうかと心の中で一人、小さな苦笑いを溢す。
「………ありがとう」
そんな俺に察したのか、女は眉を下げ、戸惑い気味にその場に深々と頭を下げた。「もう大丈夫」そう一言言い残し、女は踵を返して、自分の家路へと戻って行った。
「…………世話が焼ける女」
もう二度と会う事はないだろう。そんな事を考えつつもその女の後ろ姿をじっと見つめる。暫くそのまま女の姿が完全に見えなくなるまで、そこから一歩も動かずにその場に留まり続けた。そうしてその姿が見えなくなったと同時にようやくタクシーへと乗り込み、運転手に行き先を告げ、背もたれに体重を預けたままぼんやりと窓を打ち付ける土砂降りの雨に目をやる。梅雨でもないくせに、それから三日三晩、雨は一度も止む事はなく、ネオンに光る街全体をただひたすら濡らし続けた。
「…………どうりで惹かれる訳だ、あいつに」
この4年間もの間、ずっとそこだけが曖昧だった。脳裏でチラつく映像はいつもナマエの泣き顔ばかりで、その後に交わした言葉達を断片的にしか思い出せずにいた。…いや、もしかしたら無意識に記憶に蓋をしていたのかもしれない。それこそわざわざあいつが必死に守ろうとしている相手の男との想い出を邪魔してはいけないと、自分が一番理解した上での行動だったのだろう。
「………やっと繋がったな、記憶が」
正直、あの時のナマエの表情がどんなだったのかは思い出せても、肝心の当の本人の顔自体はあやふやではっきりとは思い出せずにいた。だがそれも今この瞬間から記憶は鮮明な物となり、そしてそこで改めて気付かされる。恐らくだが、初めて出会った時から俺は既に惹かれていたのだ。
『あぁ、有難う。でも気にしないで。私、好きでここに居るから…』
名前も知らねぇ。何処に住んでるのかも分からねぇ。それでもあの場所で、土砂降りの雨の中、ただひたすら自分の想いを馳せ続けた、青い傘を差した一人の女に。
「ロー…起きてたんだ。おはよう」
そこまで思考を巡らせた所で、背後から聞こえてきたか細い声。振り返るとそこに立っていたのは、この部屋の主でもあるナマエだった。思いもしないその声に一瞬驚きはしたが直ぐに冷静になり、「悪い、起こしたか」と真顔でナマエへと相槌を返す。
「んーん、平気。何か喉乾いちゃって…ローも何か飲む?」
「………あぁ」
取り敢えず顔洗ってきなよ。そう言って、ナマエはその場に踵を返しリビングへと戻って行った。少し離れた場所からカチャカチャと食器棚からカップやら何やらが擦れる音が響き、それをぼんやりと聞きつつもようやくその場に腰を上げて、手にしていた傘を壁に立て掛けては洗面所へと向かった。
「はい、珈琲で良い?…あ、あと一応水も此処に置いとくね」
「あぁ…」
どうぞ。そう言って、ナマエはテレビの前にあるソファーへと腰掛けてズズっと紅茶を啜った。猫舌なのか、何度か熱を冷まそうと息を吐いてはまた小さく啜る。そのあどけない動作をダイニングテーブルに頬杖をついたまま、俺はただぼんやりとその姿を見つめ続けた。
「どうしたのロー。飲まないの?」
「……いや、飲む」
「何それ、変なのー」
「……………」
くすくすと小さく笑うナマエを横目に、ミネラルウォーターが入っているペットボトルの蓋をパキ、と開けては喉に流し込む。何度かそれを繰り返して次に珈琲へと口付けた。朝の冴えない頭にカフェインはよく効くな。そんなどうでも良い事を考えながら。
「………ナマエ、」
「んー?」
「昨日は悪かった」
「…………」
俺のその言葉に、小さく肩を竦ませてテレビのリモコンへと伸ばし掛けていた彼女の手の動きが止まった。そのままある一点を見つめながら、「なにが?」とナマエは薄く笑いながらもゆっくりと此方に振り返る。
「理性を抑えきれなかった」
「…………」
「昨日も言ったが、俺はお前に半端な気持ちで手を出した事はねぇ」
「…………」
「だから昨日の俺の行動に自分自身は何ら迷いはねぇが、どっちにしてもお前の気持ちを無視して抱いたのは事実だ」
「…………」
「悪かった、あんな真似して」
そこまで口にした所で、ナマエはその場に腰を上げて俺が座るダイニングテーブルまで近付いてくる。そして丁度俺の目の前にピタリと足を止めては、俺を見上げる形でその場に小さくしゃがみ込み、ゆっくりと下から俺の顔を覗き込んだ。
「………何で謝るの?」
「………あ?」
「嬉しかったよ、私…ローに抱いて貰えて」
「……………」
「ずっと、ローに会いたいって思ってたから」
「……………」
照れ臭そうにそう呟いて、ナマエは俺の手をギュ、と小さく握り締めた。そのまま親指で軽く上下に擦りながらも、その場で動きが止まったままの俺の頬にスルリと一つ、もう片方の手で優しく触れた。
「………ずっと、連絡返さなくてごめんね。怖かったんだ、私」
「……………」
「もうローには頼っちゃいけない気がしたの。…ほら、だって私いつもローに甘えてばっかりじゃん?」
「……………」
「あとそれと同時に、自分の中でどんどんローに惹かれていってるのが分かって怖くなった。……過去さえも完全に想い出に出来てないのに、このまま中途半端にローに甘えてちゃいけない気がして…」
「……………」
「でも、それも今日で終わり」
「あ…?」
にっこりと口の端を上げて、彼女は笑う。まるで何かから吹っ切れたように、すがすがしい程の笑顔で。
「どういう意味だ、それは…」
「ねぇ、ロー」
「あ?」
「ローはさ、私の事好き?」
「…………」
突然の彼女からのその問いに、一瞬で口が噤む。そして流石に自分でも分かった。柄にもなく、今自分は動揺しているのだと。
「……私は、好き。ローの事が」
「…………」
「勿論、一人の男として…」
「…………」
「ごめんね、好きになっちゃった…それこそ自分でもどうしようもない程に…」
「…………」
夢を、見ているのかと本気で思った。一生叶う事はないだろうと諦めていた自分のこの気持ちに、真っ直ぐに自分の想いを此方に向けてくれているナマエの言葉が、俺の細胞の奥底まで響いていくのがよく分かった。そしてそれと同時に片手で目頭を押さえたままその場に深く頭を俯かせる。そこで改めて、自分の想いをはっきりと再確認出来たような気がした。
「………お前が好きだ。ナマエ、」
「…………うん」
「俺は…いつだってお前を…お前だけを笑わせてやりてぇ…」
「…………うん」
「…お前が困ってる時は一緒に悩んで、お前が悲しい時はいつだって俺が救い出してやりてぇと本気で思ってる…」
「…………うん」
「……一生、俺の片思いだと思ってた…」
その言葉を最後に、俺の胸へと飛び込んで来た華奢な身体。その彼女の首筋に顔を埋めた瞬間、涙が溢れた。『大丈夫だよ』『ずっと辛い想いをさせてごめんね』そんな言葉を繰り返しては、ナマエが俺の背中を何度も何度も優しく撫でる。その温もりが心地良くて、そのままそっと瞼を伏せた。そのまま一気にナマエの身体を抱き寄せては背中に腕を廻し、その手に力を込める。まるで初めて親の温もりを知った幼い子供のように、俺は暫くの間、馬鹿みたいに涙を溢しては、そのナマエからの優しさに甘え続けた。
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