「人間の記憶って、限りなく妄想に近い物だよね」

「……………あ?」


時刻は夜の22時過ぎ。もう何度もこの部屋に訪れているローと肩を並ばせて、テレビの向こう側へと意識を飛ばす。3人掛けのソファーの前に配置してあるテーブルの上には、ついさっき淹れたばかりの珈琲の湯気がゆらゆらと天井に向かってたちこめている。それに目をやり、ふと思い出したかのように手を伸ばしては、再びソファーへと腰掛けた。ずずっと小さく啜って、はぁ、と溜息交じりに息を吐き出せば、何だか胸の奥底で懐かしい記憶が蘇ってきたような気がした。

「何の話だ、それは」

「ほら、ロー見て。今テレビの特番で人間の脳の記憶について色々特集やってるよ」

「あ?」

その言葉と共に、右手の人差し指をすっとテレビに向かって指差した。そんな私の動作に、ただ黙ってそこに視線を送ってくれたローの気配を隣で感じつつも、私は淡々と話の続きを口にする。

「不思議だよね、記憶って。写真みたいにいちいち画像とか残ってないのに、脳の何処かに存在してるんだもん。例えばー…んーそうだなぁ。その時に行った場所や、その当時よく聴いていた音楽、誰かとの会話や仕草や声。それら全てが引き金となって、いつだって記憶は都合よく、そしてまた美しい想い出となって蘇ってくる」

「………………」

「でもその分記憶ってさ、夢と同じくらい現実味がないから、時々自分でもよく分からなくなったり、ましてやその記憶が確かな物だったのかさえもあやふやになったりして掴みようがなかったりしない?」

「………そうだな」

「私ね、実は一個だけそんな感じであやふやな記憶があるの。もう随分前の話なんだけど、ふとたまに想い出す時があるんだ」

「………………」

「暇だから、想い出話とかしていい?……あ、大してそんなに時間は取らせないから」

「あぁ…」

良かった。にっこりと笑みを浮かべて隣に座っているローの肩へと自分の頭を乗せて体重を預けた。そのままローが手にしている分厚くて難しそうな本に手を伸ばして、途中まで読みかけていたページに栞を挟んでは強制的に休憩を挟ませる。ローは、「やけに今日のお前は喋るな」なんて困ったように笑うから、「たまにはそんなセンチメンタルな日だってあるよ」と相槌をうった。





15歳。季節は本格的な夏目前。ジリジリと痛いぐらい肌に突き刺さる日差しをめいいっぱい浴びながら、右手を空にかざすように自分の顔に影を作った。上空には何羽かの小鳥が仲睦まじく飛んでいて、ただただその様子をぼんやりと目で追う。

「ナマエ、お待たせ」

待った?にこにこと目尻を下げて爽やかに私の前に登場したのは、去年からずっと片想いをしていた先輩だ。私より1つ年上で、去年まで同じ中学に通っていた人。先輩は校内でもよく目立っていたし、いつだって仲間達と楽しそうに笑っていて、たまに廊下ですれ違う時にただ何となく目で追ったりしていた。初めは『楽しそうに笑う人だな』とか、『よく女の子と喋ってるな』とか。ただそれだけの事だったのに、次の季節を跨ぐ頃には『こっちを向いて欲しい』だとか、『私とも色々喋って一緒に笑って欲しい』とか、そんな感情が芽生えていた。でもだからと言って人より少し引っ込み思案な性格の持ち主の私は、ただただ先輩の姿を目で追う事ぐらいしか出来ずにいて。というか、寧ろそれだけで精一杯だった。

「名前、何て言うの?」

そんな日々を淡々と繰り返していたある日、たまたまこの前からずっと返却し忘れていた本を手に放課後誰もいない図書室まで足を運んだ時の事だ。

「俺、実は今かれこれ2時間近く彼女を待ってるんだけどさ。あいつ何か課題出すの忘れてたらしくて先生に呼び出しくらってて。丁度暇してたんだ」

だからもし暇なら、俺の話し相手になってくれない?

そう言って、夕陽が差し込む誰もいないこの図書室内に先輩の屈託なく笑う声が大きく響き渡った。そのまさかの展開に、その時の私は一瞬呼吸をするのも忘れるぐらい驚きを隠せずにいた。……ずっと、ずっとずっと憧れていた人が今、名前も顔も知らない私に話し掛けている。そしてまたそれと同時に私に興味を示してくれていて……え?ちょっと待って。これって本当に現実?とか思いつつも、無表情のままただただそこに突っ立ったままの私がそこに居た。

「とりあえず、ここ座りなよ」

目尻を下げて、隣の椅子を後ろに引いて、ニカっと笑った先輩がおいでおいでと幼い子供を自分の元に引き寄せるように私を呼ぶ。まだ何にも返事をしていないのに、けれども私の足は着実に前に進んでいて。そして次に気付いた時には先輩に言われるがままストンとそこに腰を降ろしていた。勿論、肝心の本は未だしっかりと腕に抱き締めたまま。

「今日から俺とナマエちゃんは友達な!」

白い歯を出して、此方に手を差し伸べてくれたその彼の表情に一瞬で惹きこまれた。ううん、違う。本当はこうなるちょっと前から既に私は彼に惹かれていた。たまたまとはいえ、こうしてずっと憧れていた先輩と正式に知り合いになれて、はたまたこうしてずっとずっと自らが望んでいたあの優しい笑顔を今自分へとハッキリと向けられている。もうそれだけで充分のような気がした。それと同時に、『彼女を待ってる』という先輩の発言に胸が痛んだ事には、敢えて気付かないフリをする事に決めた。

「先輩、いつも校内で楽しそうに笑ってますよね。私ずっと先輩のその笑顔が大好きでよく目で追っていました」

ほぼ無意識と言っても良い程の発言だった。多分、予想外の出来事が一度に全部やってきたから、多少なりとも気が動転していたのもあると思う。でも不思議とその言葉に後悔は無かった。ボソッと囁くように呟いた私に、先輩は一瞬目を丸くして驚いていたけれど、直ぐに彼の目は細められ、『ありがとう』と言って2度優しく私の頭を撫でてくれた。……うん、もうそれだけで本当に充分だ。ほぼ初と言ってもいい程の私の淡い恋心は綺麗に咲き誇り、そして同時に見事に舞い散っていった。でもそれでもやっぱり後悔はしてなくて。その時、本当に先輩に出会えて良かったと思えたんだ。




「初恋か。偉く遅かったんだな」

「そう?自分じゃそうは思わないけど。でも確かにローの言う通りかも。その当時、初めて恋って物を経験して、先輩を取り巻く全てが煌めいて見えて。……まぁ、今になって考えてみれば憧れに近い物だったかもしれないんだけど」

「へぇ」

「でも、未だに恋をする瞬間って幾つになってもドキドキして好きだなぁって思えるから、やっぱりそれは憧れじゃなくてちゃんとした恋だったのかもしれないなぁ」

「良いんじゃねぇか。淡い初恋って事にしとけば」

「あはは!確かに」

「で?」

「……え?」

二人一緒に腰掛けているソファー内に、ローが軽く体勢を整えたせいか少しだけその場が軋む。そのまま自分の長い足を組んで片腕は私が座っている真後ろの背もたれへと移動し、まるで彼にソファーごと丸ごと全て守られているような光景となった。でもローは直ぐに背もたれに廻した自分の腕を曲げてそこに頬杖をつき、隣にいる私の横顔をじっと見守るように此方に視線を送ってくる。

「そのお前の初恋とやらは、その後どうなったんだ」

「………………」

そのローからの質問に、口の端を上げてそれに応えるように笑みを向けた。そんな私の表情に一瞬で顔を変えた彼の目の奥には、ただただ好奇心から来ているであろう『続きが気になる』とでも言うような感情が見え隠れしている。その姿をぼんやりと見つめながらも、そうこうしている内にローの長いもう片方の手がそっと私の頬を撫でる。それがとても気持ち良くて思わず目を瞑って心地良さに身を委ねた。そして脳の何処かに未だ存在している記憶を引っ張り出して、話の続きを語る事にした。




「もう駄目かもしれないな」

先輩と正式に知り合いとなったあの日から、約数か月の時が過ぎていた。青々しかった葉の色が次第に色味を増す頃、先輩と私の関係はただの知人から友人へと順調に変化を遂げていた。先輩に至っては始めから私に自分達は今日から友達だよと言ってくれていたけれど、でもそうは言っても自分は友情以上のやましい感情があったから素直にそれを受け止める事が出来ずに、そしてまたそれを暫くの間はっきりと認める事が出来ずにいた。でもそれも先輩と二人で話す機会が増えて、その度に彼の口から溢れ出る彼女さんへの想いを聞いていると、いつしかそんな邪念は何処か遠くに消えて行ってくれた。ようやくこれで先輩と対等に会話が出来る。そんな事を考えていた、ある日の事だった。

「あいつ、俺以外に他に好きな奴が出来たみたい」

はは、と自嘲気味に笑う先輩の表情は固い。当たり前だ。ついこの前まで二人は何気ない事で笑い合って、他愛もない二人のエピソードを嬉しそうに私に話してくれていた筈なのに。何が原因なのか、先輩がいけなかったのか、それとも彼女が急に心変わりしたせいなのか。いまいちはっきりとした理由は私には教えてくれなかったけれど、でも別にいちいちそれについて先輩を問い詰める気は一切なかったし、寧ろ逆にそんな大事な事を自分に話してくれた先輩の事が心配で心配で堪らなかった。

「………何でだろうな。好きって気持ちはあるのに、それでも気持ちが追いついていかなくて。何とかしてあいつの気持ちを取り戻したいって気持ちは確かにここにあるのに、言葉と行動がまるで真逆でさ。……俺、いつからこんなに弱くなったんだろうな」

まるで今の自分に言い聞かせるように、そして何かを振り切るようにしてその場に頭を伏せた先輩の姿をぼんやりと見つめながら、私は思う。

先輩、笑って。あなたのその笑顔が大好きだから。

先輩、こっちを向いて。元気が無いなら、私が幾らでもあなたを笑わせてあげるから。


先輩、先輩、先輩、

「……………先輩、好き…です」

「………………え?」

はっとして気付いた時には、時既に遅し。完全に無意識から来る発言だった。それでもその言葉に嘘偽りは無かった。勿論、後悔もしてない。そもそも本当の事だし。そんな事をあれやこれやと考えて、その反面、自分の発言に対して頭の中が真っ白になっている私に、先輩は伏せていた頭を上に上げ、その大きくてクリクリした瞳で真っ直ぐと私の顔を捉えては此方を凝視するように強い視線を向けていた。

「…………それ、本気?」

そして私に向かって、信じられない物でも見ているかのように先輩が再度私に確認を取る。

「本気、です…当たり前じゃないですか。冗談でこんな事言う訳なんてな、…!」

それは、本当に一瞬の出来事だった。あ、と思った時には先輩の顔が近付いて来ていて、そしてあ、と思った次の瞬間には先輩の唇が私の唇と重なっていて。嬉しくて、切なくて、でも何処か寂しくて。でもその分やっと自分の想いが伝わる事が出来て良かった、って思った。

「先輩…私、2番目で良いです。だから、先輩の側に居させて下さい…っ、」

「………そんな馬鹿な真似…、させる事なんか出来ねぇって…」

はぁ、と吐息交じりに互いの唇が離れたその瞬間、自分の何かが派手な音を立ててガラガラと崩れ落ちていった。恐らく、それは理性だ。でももうここまで来たからにはそれはただの邪魔な存在でしかない。本当に心の奥底からそう思った。先輩は口では私に対してそんな馬鹿な事は出来ないと言っていたけれど、でも勿論そんなのはただの建前で、それからあっさりと先輩と私の曖昧な関係は続く事となった。




「……………いつまでこんな関係続ける気だ、私は」

先輩と付かず離れずの関係が始まって、約半年ぐらい過ぎたその日。晴れて高校生になってまでも先輩との関係は相変わらずで、セカンドのポジションは未だ継続されたままだった。先輩は先輩で何だかんだ彼女さんとは関係を続けていて、そうは言ってもいつかは自分へと振り向いてくれるだろうと信じていたその想いは、どうやら永遠に実らなさそうだ。そんな絶望の傍らで、私はその日不思議な出会いを経験する事となる。

「失恋か」

「………………はい?」

「女が海を見に来るのは、大抵失恋かただのナンパ待ちかのどっちかに決まってる」

「……………」

「当たりだろ」

夕焼けをバックに、近くの海岸まで足を運んだその日。何だか急に何もかもがどうでもよくなって、一旦頭の中を整理する為に訪れたこの場所。そんな哀れとしか言いようがない私に、ある一つの声が向けられた。その人は、防波堤に腰を降ろして背後のコンクリートの壁に背を預け、胡坐をかいたままぼんやりと水平線を眺めているようだった。一応その問いが本当に私に向けられたものなのかを確かめる為に、キョロキョロと周囲を見渡してみたけれど、やっぱりというかなんというか。要するに、誰も居なかった訳でして。

「………失恋、してないし…ナンパ待ちで此処に来たって訳でもないんですけど…」

「へぇ、そうかよ」

「……………」

自分から質問をしてきたくせに、その男は未だ遠くの水平線に目を向けたまま興味なさげに私の返事に相槌をうった。そこでようやくこの人も同じ高校生なんだと気付く。何故なら彼が今着ている制服は隣の学校の物で、よく通学時に目にしていたからだ。歳は…幾つなんだろう。雰囲気大人っぽいし、何となく彼の醸し出しているオーラは落ち着いているようにも見えるから、もしかすると私よりは年上なのかもしれないな。と、そんなどうでも良い事を頭の片隅でぼんやりと考える。

「座れば」

「…………え?」

「海、見に来たんだろ。お前も」

「…………うん」

ん。それだけ言って、少しだけ左に寄ってくれた彼の隣に椅子一つ分の距離を空けて腰を降ろした。そのまま何も考えぬまま、ただただ目の前に広がる海をぼんやりと見つめる。

「サボりか」

「………え?」

「授業。まぁ、こんな天気の良い日にわざわざくだらねぇ授業を受ける気になんざなれねぇよな」

「……………」

「人間、たまには休憩も必要だ」

そう言って、ふっと口の端を上げて皮肉めいた言葉を吐いた彼の横顔へと視線を向けた。日没まであと残り数十分。相変わらず人は人っ子一人居なくて、まるで私とその彼だけがこの世界に隔離されたかのような錯覚さえも覚えた。隣に座っている彼の横顔を何にも考えずに見つめすぎていたせいなのか、そんな私の視線に気付いた彼の切れ長な目が此方を向く。………うわ、綺麗な目。何かの絵みたいに綺麗な顔をしてる。そんな事を考えつつも、「うん、今日はサボり。たまにはありかなって思って」と返事を返した。

「奇遇だな。俺も今日はサボった。どうせ明日からは違う場所へ行くのに、わざわざ最後の日まで真面目に授業を受けるのが馬鹿らしく思えてな」

「へぇ、あなた何処か行くの?転校とか?」

「あぁ…もう慣れたもんだ。物心ついた時から親戚の家やら何やらと転々としていて、お陰で毎回これと言って思い入れもないまま次の場所へと向かってる」

「そっか…何かそれもちょっと寂しいね」

「どうだろうな。最近そんな感情も鈍って自分じゃよく分からねぇ」

「………………」

胡坐をかいたまま、壁に寄り掛かった状態で両手で自分の体重を支えている彼と、その彼の隣で、体操座りをしたまま腕に頭を少し伏せた状態で遠くを見つめている私。名前も知らない。歳も知らない。お互いに顔を見た事もなければこれまで一度だって会話をした事もない奇妙な関係だけど、でも何故かその時の私にとっては、そのぐらい距離がある相手が丁度良いと思えた。

「…………さっきの話、」

「あ?」

「さっきのあなたの話、当たりかも…」

「……………」

「失恋、してるようなもん。……最初から」

「……………」

はは、と乾いた笑いがその場に広がる。何にも面白くないのに笑ってしまったのは、多分きっとそれは自分の中での精一杯の強がりだったのだろう。そんな私にただ黙ったまま此方に視線を向けてくれた彼は、「へぇ」とやっぱり興味なさげに返事を返した。

「どんな男だよ、そいつは」

「どんな?んー…なんだろう。何か、綺麗な人」

「見た目がか」

「ううん、それもあるけどそうじゃなくって…ほら、何ていうかさ。心が綺麗な人っているじゃん?とにかく眩しい!って感じの人。そんな感じかなぁ」

「へぇ、そんな奴が居るんなら見てみてぇな。俺も」

「今度紹介するよ。……って、あれか。あなた明日にはもうこの街には居ないんだっけ」

「まぁな」

残念だ。そう言って、視線をまた海へと戻した彼の横顔を見つめる。何処か寂しげに笑う彼のその表情は何処となく影を背負っているように見えて、「あぁ、この人絶対女の子にモテるだろうな」と思った。同年代の男の子より大人びてるだけあって、彼はきっといちいち余計な事は人には発言しないし、そしてまたむやみに詮索もしない。出会ってまだたかが数分だけど、でもそれでも何となくこの短い期間でそれだけはハッキリと分かった。

「本当はね、自分が一番よく分かってたりするの」

「なにがだ…」

「彼ね、優しい人なの。本当に。本来ならこんな面倒な関係を続けていけるような器用な人間じゃなくって、」

「……………」

「私が…その舞台から引きずり落としたようなもんでさ。わざと私に合わせてくれてるみたい」

「……………」

「好きならさ、そんな事すんなよって感じなんだけど…でも何かそんな簡単な事が出来なくて。ズルズルと関係を続けてたりするんだよねー…ほんと馬鹿だ、私」

「……………」

風が、吹く。鳥が、大空を舞う。太陽が、最後の力を振り絞って闇の中へと消えて行く。それと引き換えに顔を覗かせるのは月だ。入れ違いで姿を現すその光景はいつだって必然で、いつだってその事実は変わらない。きっと、私の今のこの現状はそれとよく似ている。一見綺麗に交わっているように見えるけれど、でも本当は全くと言って良い程交わってなんかなくて。先輩が太陽ならば私は月。光り輝く彼の姿を追い求めて距離を縮めようとするけれど、その距離は思った以上に遠くて、掴めなくて。………あぁ、そうか。多分きっと私はその追いかけっこに疲れたんだ。だからたまにこうして一旦休憩を挟みたくなるんだ、きっと。

「別に、良いんじゃねぇか。そのままで」

「……………え?」

「恋愛なんざ、馬鹿になったもん勝ちだろ。寧ろ馬鹿にならねぇ方がどうかしてる」

「………………」

「俺は逆に羨ましいけどな。そこまで一直線に誰かを好きになれる事が。自分には一生縁もゆかりもねぇ話だ」

「………………」

彼は何処となく遠い目をしながら、水平線を見つめたまま私にそう言った。そのまま制服の胸ポケットに忍ばせていた煙草を一つ取り出し、ふぅと白い煙を吐く。まだ高校生だよ、あんたまだ未成年だよ。そんな事を思いつつも、その姿が余りにも様になっていて、正論の言葉は喉の奥底へと消えた。

「………そう、かな。本当に?本当にそう思う?」

「あぁ…別に俺らまだこの歳だし、焦る必要も生き急ぐ必要もねぇだろ」

「………………」

「ゆっくりで良いんじゃねぇか。後悔だけはしねぇように、自分が思うままに生きれば。先はまだ長ぇ」

そこまで口にして、彼は煙草を咥えたままゆっくりとその場に腰を上げた。制服を着崩して着ているからか、ブレザーの下から覗いている白いシャツが質素に風に揺れている。未だ遠くを見つめている彼のその端正な横顔は一点の曇りも迷いもない。まだ若いというのに、きっと彼は人より背負っている物が何か違うし、抱えているそれも私が想像する以上にとても大きい物なのだろう。なんとなく、そう思った。

「最後にお前に出会えて良かった。まぁ、もう二度と会う事はねぇだろうがな」

「うん…私も。元気でね、ありがとう」

彼と向き合う形で私もその場に腰を上げ、右手をすっと彼の前へと差し出す。それに気付いた彼もポケットに忍ばせていた手を此方に差し出して、「俺の方こそありがとな」と言って穏やかに笑った。

その時握り締めた、彼の手の温もりは未だに頭の片隅に記憶している。勿論それは形とか物には残らない物だけど、それ以上に今日という日を彼と一緒に過ごせたのが嬉しかったから。最後に高校生らしからぬ大人びた表情で口の端を上げ、何処か不器用そうに小さく笑う彼の顔はとても印象的だった。出来る事ならば、その彼の表情も一緒にいつまでも脳の引出しに記憶しておきたかったけれど、やがて月日は流れ、目まぐるしく巡っていく日々の中で次第に薄れていき、今となっては彼の顔一つハッキリと思い出す事が出来ずにいる。




「もしかしたらその人は、あの日たまたま見た幻だったのかもしれないなぁ…」

「…………かもな」

「でもその彼のお陰で、私その一年後には先輩と別れる事が出来たんだ」

「へぇ…」

「しかも思ってた以上に綺麗に別れる事が出来たの。もう良いや、よく頑張った自分。ここまで尽くしたんだから後はもう後悔なんてない!…って思ったら結構すんなり別れを告げる事が出来てさ。ほんと、あの時の彼のお陰だよ」

「………………」

ソファーに寄り添って、ローの肩に自分の頭を乗せて、彼の指を意味もなく撫で続ける私に、ローは少しだけ困ったように笑う。「もしかしたら、そいつもお前に救われたのかもしれねぇな」と言いながら。

「え…?」

「見ず知らずの女に一瞬でも心を開いたんだろ、その男は」

「…………そう、かな。でも私、あの時特に何もしてないけど…」

「いや、ただ会話するだけで救われる事だってあるだろ。多分。……きっと今頃そいつも、お前に出会った日の事を想い出してる」

「あはは!何でローにそんな事分かるの?」

「…………さぁ、何でだろうな」

そう言って、ずっとローの指を撫でていた私の手を捕まえて、彼は自分の口元へと引き寄せては私の指に一つ小さなキスを落とす。瞼を伏せて、愛しそうに何度も何度も唇を寄せるローの表情に心臓を鷲掴みにされ、そしてそんな私を包み込むかのように次第にキスをする箇所が変わっていく。米神、頬、鼻、そして唇。暇を弄ばせていたローのもう片方の腕はスルリと形を変え、私の肩を抱き寄せては、彼の匂いに一気に包まれた。

「そういえば、少し似てたかも…」

「………あ?」

「あの人、ローに」

「……………」

キスの合間、ふと一瞬脳裏に過った記憶が舞い戻り、そしてまた本当に一瞬だけチラついたあの時の彼の横顔。そこに広がる海を前に、何処となく寂しそうに笑っては、凛とした姿勢で前を見据えていた、あの影のある横顔を。

「…………光栄な事だな、それは」

そう言って口の端を上げ、私に対して穏やかに笑ったローとあの日の彼の表情が一瞬リンクしたように見えた。


『先はまだ長ぇ』


先輩に別れを告げた、それから約3年後。私は亡くなった彼と出会い、恋に落ち、そして生まれて始めて永遠の別れを経験する。絶望を感じ、未来に希望を見出せず、そして何処か同時に何かを諦め掛けていた。


『過去も現在も未来も見据えるそんなお前が、俺はただ愛しい』


それでも生きている限り、人の運命はひょんなことから姿形を変える。彼を亡くしたその4年後。私はローに出会い、ローに救われて、そして恋に落ちた。まるで最初から決まっていたかのように、それは必然のようにそこに現れてくれて。

「ロー、」

「なんだ…」

彼の首に自分の腕を絡ませて、下からそっと藍色の瞳を見つめた。目の前にあるその強い眼差しは、やっぱりあの時の彼の表情とよく似ている。そんな事を思いながら、そっとローの耳元に唇を寄せ、私は何かを祈るように瞼を閉じてこう言った。

「私と出会ってくれて、本当にありがとう」

その私からの言葉に、目を丸くして少し驚いたような顔をしたローだったけれど、直ぐにそれは目を細められ、「それは俺の台詞だ」と言って嬉しそうに笑った。そして次に気付いた時にはソファーに押し倒されていて、首筋にローの舌が這う。

「ナマエ。想い出話はその辺にして、そろそろ俺の欲望に応える時間にしろ」

そう言って、ローの手が私の頬に触れる。あの日の彼と同じように穏やかな表情で、そしてまた何かを懐かしむように笑いながら。

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