別にキスをしたからだとか、身体を重ねたからと言って男女の関係全てが始まっていく訳じゃない。とびきり甘い夢を見せて貰った所でその先に繋がる物なんて、多分きっとそれこそ紙一重なんだ。
「じゃあな。ちゃんと俺が帰ったら鍵閉めとけよ」
「うん、またね」
パタン、と玄関の扉を閉める音が一人きりの暗い廊下内に響き渡る。簡潔に結果論だけを述べると、ローとキスをした。ただそれだけ。向こうもそれ以上の事は求めてこなかった。ガシガシと頭を掻きながらリビングに戻ると、綺麗に食べ終えてくれた何枚ものお皿がテーブルの上に存在している。それらを手に取りシンクの前へと移動し、勢いよく水道の蛇口を捻るとジャーと水の捌けていく音と脳内のローとのキスの卑猥な水音がリンクし始めた。
『口開けろ』
………今考えたら結構凄い事しちゃったかも。あの感じからして奴は相当女慣れしているに違いない。いや……まぁそりゃそうか。だってうちの会社の女子社員にまで人気がある男だもん。女慣れしていて当然だ。
「…なんで、キスなんかしたんだろう」
未だ水を出しっぱなしの最中、ふと右手の人差し指で自分の唇に触れてみる。プニ、とした感触がリアルでまたしても一気に羞恥心が込み上げ、無意識に頭を左右に振った。多分きっとロー自身はあの行動に意味なんてない。ただの事故だ。そう自分に言い聞かせながらスポンジを手に取り洗剤をつける。キュ、と音を鳴らして止まった水音が、一人きりのキッチン内に静かに響き渡った。
「あんたさぁ、最近何かあったでしょ」
その堂々と口に出された言葉に対し、手にしていたグラスがピタリと止まった。そう、それはあのローとキスをした夜から丁度2週間程経った今現在の事だ。『飲みに行くわよ!』といつもようにナミから急遽お声が掛かり、行き着けの店のドアをかいくぐって今に至る。観念しなさい!とでも言うように何故かグイグイと迫られた私の腰は引けていて、あははは…と感情のこもっていない愛想笑いを浮かべながら、グビ、と一つカクテルを喉に流し込んだ。
「男でしょ。男なんでしょう?そうなのよねー!?」
「ちょ、ちょっとナミ…!近いってあんた」
「またいつもみたいに私の知らない所で抜け駆けしてるパターン?あーあもう、やんなっちゃうわね」
けっ。そう悪態をついて偉そうに脚を組んだナミのやさぐれ感は半端ない。いつもながら折角の美人が台無しである。まぁまぁ落ち着いてよと宥めたのも空しく、「誰のせいだと思ってんのよ!」と、逆に反感を買ってしまった。こ、怖い…
「で?相手はどんな男なのよ」
「…………………え?」
「え?じゃないわよ。だからー相手のおーとーこー!男!が、どんな奴なのか説明しろって言ってんの」
「ど、どんな男か…ですか」
「そう」
何なの、この状況。ってぐらい私の米神に嫌な汗が伝った。何か感覚的に、無実なのに真実を言えと無理やり事情聴取されてる気分だ。てかその前に何て説明をすれば良いのかが分からない。『ローとキスをしました、でも別に付き合ってません』…ってか?いやまぁ、これで良いんだけど説明的には。だって事実だし。それ以上でもそれ以下の関係でもない訳だし?…………でも、
「何か……複雑」
「?なにがよ」
そう、何か複雑なのだ。こう…何て言うか上手く例えたり出来ないけど、感覚的に?本能的に?脳の何かが違うと叫んでる気がする。
『もしかしたら、あの夜に交わしたキスには何か意味があったんじゃないか』
『ひょっとして、あの夜ロー自身に何か他の考えがあったんじゃないか』
もしかしたら、ひょっとして、そんな言葉を並べてはあれやこれやと出もしない答えを悶々と考えてみたりして。いつまで経ってもグルグルグルグル脳内で動き回る疑問は、あの夜以来一向に消えてくれそうにない。
「ちょっと。あんた何一人で感傷に浸ってんのよ?私の質問に答えなさいよ」
「…え?あ、あぁはいはい。えーっとだから、つまりそのぉ…」
「ちょっと待って。まさかあんた、」
「え?」
そこまで言って、ナミは「ハァーっ」と深く長い溜息を吐いた。そして沈黙を終えて直ぐに今度は大きく息を吸い、彼女にしては珍しく恐る恐る私にこう聞いた。
「まさかその相手、トラファルガーじゃないでしょうね?」
……さすが親友。お見事。
「…………ちょっと、まじで!?まじで相手の男トラファルガーなわけ!?」
「い、いやぁー…これはその…なんていうか、えーと…な、成り行きといいますか、」
「はぁっ…!?成り行き!?」
「だ、だから!その場の雰囲気…ってかノリってのがあるじゃん?んで、つい…キスを」
「キ、キス!?はぁっ…!?まじで!?」
「ちょっ…ナミ、声が大きい!」
シー、シー!そうやって彼女の口を塞ぎながら、なだらかなBGMが流れるこの店内には相応しくないテンションの女2人が交互に深呼吸をする。そうして何とか落ち着かせた気持ちを抱き寄せるかのように、「で?何でそんな事になったのよ?てかそれいつの話?」と、ナミは冷静に疑問を問いかけた。
「えーと、ローが家に来た日だから…約2週間前ぐらい?かな」
「ちょっとあんた、何でそんな大事な事を私に報告せずにのほほんとしてたのよ。つーかあいつ…前に手出すなって釘刺しといたのに…ったく」
「え?何それ。それこそいつの話?」
「あーいーのいーの、こっちの話」
「何よそれ…」
もはや先の読めない展開に頭は大混乱だ。にしてもやっぱバレたか…黙ってても普通に毎日を過ごしててもバレる時はバレるもんなんだなぁ。まぁ、私の親友が人より遥かに勘が鋭いってのが一番の理由なんだろうけど。
「で?」
「……………え?」
「え?じゃないわよ。これからどーするつもりなわけ?あんた達」
「どうって言われても…」
「付き合うの?付き合わないの?それともお互いただの火遊びの相手なだけ?」
「………………」
正直そんなの私が聞きたい。でもそうは言っても何となく結果は見えてる気がする。多分、
「何にも変わらないんじゃないかな」
「………え?」
「そ、何にも変わんない。なーんにも」
そう言い残して、バーテンダーに追加オーダーをした。隣でひたすら?マークを飛ばしまくっているナミをスルーして、バーテンダーからお酒を受け取りゴクゴクと勢いよく喉を鳴らす。
「ちょっと…何にも変わらないってどういう事よ。てかナマエ、あんたそういうタイプの女だったけ!?」
「っはー!美味しい!やっぱ仕事帰りのお酒は最高!」
「だから聞いてんの!?無視しすぎじゃない…!?」
別に無視してる訳じゃない。ただ単純にその質問には答える事が出来ないだけだ。今までの私の価値観と数少ない恋愛経験から考えてみると、今回のローとの成り行きからの曖昧な関係は完全にアウトだ。そう、アウトな筈なのだ。
「ほんっと、前代未聞…」
恐らく、自分の気持ち的に半々なんだろう。もう何年も忘れかけていた女の部分と、それでも僅かに残っている理性が働いている自分に押しつぶされそうだ。きっとこのままローに会い続けてしまえば、いつか本当に一線を越える事になるだろう。だったらもう答えは一つだ。
「大丈夫よナミ。もうローとは二人で会わないから」
「ナマエ…」
「私、こう見えて自分のポリシーは変えない主義なの。それに易々と過去を捨てるつもりもないから」
「…………そう」
「うん、だから大丈夫」
本当は、あの夜ドキドキした。本当は目の前に存在するローに、熱い体温と甘い声で何度も私の名前を呼んだローに全てを預けて逃げ込みたくもなった。…だけどそれでも、それ以上に忘れられない想いだって確かにここにあるんだ。
『大丈夫だよ、ナマエを独りになんてしないから』
過去はいつだって美化される。美化されるからこそ楽しかった想い出も辛かった想い出も完璧には消せない。消せないからこそその想い出は永遠となりそれは追い越せない。
「何があったって忘れないよ…」
ボソと呟いた言葉はまるで自分を安心させる為の呪文のように思った。消せない痛みも決して生涯忘れたくはない彼の事も胸に抱いて、私はただひたすら前だけを向いて歩いていく。例えそれが、どんなに辛い現実だとしても。
「……私は、あんたさえ幸せならそれでいい」
そう言って、隣でそっと寄り添ってくれたナミの言葉が優しすぎて、ふと涙が溢れた。それと同時に、もうローには頼っちゃ駄目なんだと改めて現実を突きつけられたような気がした。
『もう喋るな』
『黙って俺の胸の中にいろ』
だって彼は私にとって、眩しすぎるから。眩しい存在すぎて、余計自分が惨めに思えて仕方がないから。
「お客様、さっきから携帯がずっと鳴ってますよ」
「え…?」
ゆっくりと上体を起こし、カウンターに置きっ放しにしていた携帯に手を伸ばす。そして気が遠のいていた筈の感覚が、画面に表示されている名前を確認した瞬間心臓が飛び跳ねた。
ーーー着信 トラファルガー・ロー
「…………出ないの?」
「うん、いいの。……あ、すいません。これ、もう一つ追加でお願いします」
「かしこまりました」
カラカラ、と氷がグラスに入る音を聞き入れながら、私の手には未だ振動し続けるバイブ音。出ないと決めたくせに、どうかそのまま消えないで。なんてそんな事を想う自分はきっと、世界一矛盾しているに違いない。
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