ポツ、ポツ、と雨音が聞こえる。まるで何かに怯えるよう、控え目に自分を主張するかのように。

やがて思い出したように雨は勢いよく地面を叩きつけながら、ただその場にてぼんやりと立ちつくす女が居た。その女は傘もささず、置き去りにされた心を洗うかのように雨空を見上げ、そうしてゆっくりと瞼を閉じた。

『大丈夫だよ、ナマエを独りになんてしないから』

こだまするその言葉が、女の心の奥底を刺激する。そしてその瞬間、スーっと零れ落ちた涙が頬を伝い、とめどなく降り注ぐ雨と共に同化していった。





「結婚するならどこの式場が良い?」

「…………はい?」

そう聞かれたのは、彼と付き合い始めて約2年目の初夏の事だった。湿度、温度と並んで最低最悪の日々が続いていたある日、彼は思い出したかのようにふとそんな事を私に問いかけてきたのだ。

「いやー俺的には海外とかも全然アリだと思うんだけど、やっぱなんだかんだ結婚って一大イベントだから金掛かるじゃん?でもどうせやるなら派手にいきたいし、かと言って質素すぎてもつまんないしナマエなら何処が良いかなぁと思って」

「…………」

「…あ、やっぱその前にナマエのドレスの方が先か!よし、この中からどれでも好きなのえら」

「ねぇ、さっきから何の話してる?」

ちょっと待った!とでもいうように、勢いよく伸ばした右腕が空を彷徨う。読めない先の展開にストップを掛けるのは至って自然な流れだろう。お陰様で読んでいた雑誌のページがグシャグシャになったじゃないか。どうしてくれる。

「何って…結婚?」

「誰と誰が?」

「俺とお前?」

「いつプロボーズした?」

「さぁ?いつだろうね」

「だよね?全然してないよね?えなに。馬鹿なの君」

「あーそっかそっか。うん、じゃあ今言うわ」

「…………はぁっ!?」

よいしょ、そんな爺臭い一言を残し、彼はうつ伏せになっていた上半身を起こして私の目の前へと辿り着く。そうして胡座をかいてはゴソゴソとデニムのポッケから何かを取り出し、いつものようにニカっと笑った。

「ミョウジナマエさん」

「……はい」

「色々苦労させるかもしれませんが、必ず幸せにすることを誓います」

「…………」

「俺と結婚して下さい!」

正直、予期しない急な展開に頭は破裂寸前だった。だけどこれは夢でも何でもない、れっきとした現実だとも思った。だって目の前に差し出されている彼の手が微かに震えているのが分かったから。私の身長より遥か何倍も高い彼のツムジがよく見えるのを確認しつつ、そっと彼が手にする指輪に触れて「はい」と答えた。

「そう宣言したからには、意地でも幸せにしてね」

なんて、軽い冗談を交えながら。





「きっと…好きで好きで仕方なかったんだと思う、彼のこと」

「…………」

夜の海は残酷だ。キラキラと輝く昼間の姿とは異なって、まるで闇に引きずり込まれそうになるから。寄せては返す波の音と、ジャリジャリと砂を踏む二つの音。秋から冬へと移行しつつある海、ましてや夜だからビックリする程人はいない。

「だから驚いたけど、直ぐにOKを出した。彼の居ない世界なんて想像がつかなかったから」

「…………」

「でももう彼はいない。あぁ、神様なんて存在しないんだなって軽く呪いさえもした」

「…………」

「現実はいつだって重くのし掛かるもんなんだね。あんな悲しいさよならなんて、誰が想像出来たんだろう」

そう言って遠くを見つめるナマエの横顔を月明かりが控えめに照らす。二人だけの浜辺に響く彼女の切なそうな声。胸がざわついた事にはあえて気付かないフリをして、ローはコートの中から煙草を取り出し、軽く煙を吐き出した。少し前を歩くナマエと同じように、夜の海をぼんやりと眺めながら。





「待ち合わせはこのホテルのロビーにしよう」

彼からプロポーズを受けて約半月が経った頃、善は急げならぬせっかちな彼が持ってきたのは、ある一枚のパンフレットだった。

「式場選び?」

「そ。ネットで検索してみたらさ、ここのホテル内のウエディングプランが一番評判が良かったんだ。だから試しに明日行ってみねぇ?」

「あ、明日!?」

「うん。…あ、何か予定あった?」

「いや…別に午前中美容院に行くぐらいだけど」

「んじゃ問題ないな!俺も午前ちょっとだけ仕事出るから、直接ホテルで待ち合わせしよう」

「うん…」

有無を言わさず、さっさと明日の予定を決めた彼の横顔は幸せに満ち足りている様子だった。そんな半ば強引に私を説得した彼を横目に、自分の頬が緩んでいる事に気が付いた。何だかんだ言って、彼のそういう強引な所も嫌いじゃなかったし、寧ろ余り日頃から行動力のない私にはうってつけの相手だと再確認出来たからだ。

「楽しみだなー結婚式!」

あの時、屈託のない顔でそう微笑んだ彼の笑顔が未だに忘れられない。何にも汚されてない純白のウエディングドレスを着飾る自分より、白いネクタイを身に着け、汚れを知らない潔白に包まれたタキシードを着こなす彼の方が、よっぽど相応しいと感じたから。

「明日、仕事終わったら連絡して」

そう、彼とは未来永劫ずっとずっと一緒だ。だから明日も明後日も明々後日も全部私の隣には彼がいる。そう信じて疑わなかったのに。


ーー『危ない!!』


それは、一瞬の出来事だった。次の日、予定を済ませて予定時刻より少し前にホテルに着いた私は、暇を弄ばせる為に何となくロビーから外へと足を運んだ。携帯の時刻は丁度5分前を指していた頃だ。時間に厳しい彼はきっともうすぐやって来る。そう思いふと目の前の反対車線に目を向けた。

「ビンゴ」

彼は予想通り直ぐ目の前の反対車線に立っていた。おーい早くー!なんて、早く彼に触れたくて仕方なかった私は、こともあろうに彼自身を急かした。今行くー!と、恥ずかしげもなく大声でやりとりを交わす私達はきっと端から見ればバカップルだ。でもそんな自分達も悪くない。そんな事を思いつつ彼に勢いよく手を振り続けた。彼もキョロキョロと辺りを見渡して前後左右を確認した後、一歩前に足を踏み出した、その時だった。

「…………え?」

キキィ!とブレーキを踏む車の音とガシャン!と重なった二つの音。そして僅か数秒後に響き渡った周囲の叫び声。「救急車だ!救急車を呼べ!!」そう言って狼狽える通行人の声が、まるでドラマの台詞みたいに遠く感じた。

そこから先の事は正直、断片的にしか記憶がない。どうやって病院まで行ったのか。どうやって病院から抜け出してきたのか。説明しようの無い自分がそこに居たからだ。覚えているのは次から次へと溢れ出てくる涙、ただそれだけだった。


『大丈夫だよ、ナマエを独りになんてしないから』


その日、久々に天気予報は外れた。日差しのきつかった昼間とは真逆の天気に少し失笑しかけた程だ。ポツポツと小さな雨粒が次第にどんどんと大きくなり、コンクリートの地面を濡らしていく。通り過ぎていく人々が手持ちの傘を広げ始めた頃、私はその場所でただ一人、絶望を味わい続けていた。






「……私が彼を死なせたの」

「…………」

「あの時私が彼を急かしたりしなかったらきっと、こんな結末にはならなかった」

ザザァ…と波の引き返す音が二人だけの浜辺に響き渡る。それと重なるように、夜空に向かって大きく息を吐き出したローの紫煙がゆらゆらと立ち消えて行くその様は、ナマエにとって何だか自分を見ているような不思議な気持ちに陥った。

「……別にお前のせいじゃねぇだろ」

「ううん、私のせいなの。あの時彼の左側から凄いスピードで曲がってくるトラックに気付いてたの」

「…………」

「……気付いてて私は知らせなかった。あの時何でか予感がしたの」

「予感?」

そう、予感。そう一言言い残してナマエはその場にしゃがみ込む。膝の上で両手をこすり合わせ、小さな息を吐きながら。

「彼にもう二度と会えない…そんな予感」

「…………」

「馬鹿だよね。何でそんな予感が当たっちゃうんだろう」

「…………」

「運命に逆らう事だって……絶対出来た筈なのに」

最後の言葉は、涙で滲んで余りちゃんと聞こえなかった。しゃがみ込んだまま顔を俯かせたナマエの姿を前に、ドクンと再びローの胸がざわつく。

「……私さえ声を掛けてれば」

「もう喋るな」

「………え?」

力強く言葉を遮ったローとナマエとの距離が一気に縮まる。驚きを隠せないナマエの腕を勢いよく抱き寄せ、互いの心音さえ聞こえてしまう程ローは力強くナマエを抱きしめた。

「黙って俺の胸の中にいろ」

少し掠れた声で、それでいて穏やかなローの声があの日の自分を覆い尽くす。決して許される事はない後悔と懺悔の気持ちが右に左に大きく揺れ動きながら、振り幅の広い闇の中で、唯一ある一箇所だけ微かな光が見えた気がした。

「ごめん…っ……ありがとう」

夜の海が二人だけのこの世界に隔離するように、押しては引いてこの場の空気を繋ぐ。救いようのないナマエの孤独を宥めるように、波は暫く、そんな二人を静かに見守り続けていた。

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