鳥が、低空飛行をしている。

昔近所に住んでいた可愛らしいお婆ちゃんに、「鳥が低空飛行をしている時は、雨が降るっていう合図なんだよ」と教えられた。幼かった私はその言葉の意味を多分半分も理解してはいなかっただろうけど、でも何となく今でも鳥が低空飛行をしていると、「あぁ、後で雨が降るんだな」とぼんやりと考えてしまう。それにプラスして、ある時期から私はその鳥達を見ると何故かいつも征ちゃんに見えて仕方がなかった。行き場所を求め、頭上から襲ってくる雨雲の大群から逃れられる場所、より安全な場所でより健全な場所を探し求めて飛び立っていくその感じが。だけどそれは決して足止めをくらってる訳じゃなくて。彼らしい生き様だなとも考えたりした。私はそんな彼のその逞しい道のりが頼もしく、そして誇らしく思えて仕方がなかったんだ。




「では僕は外回りに行ってきます」

「あぁ、宜しく頼むな。…あ、ついでに赤司。こいつも一緒に先方の所に連れて行ってやってくれないか」

「えぇ、構いませんが」

「助かるよ。もうそろそろこいつにも一人前に育って貰わないとって考えてた所だから」

じゃ、宜しくな。そう言って同僚の肩に軽く触れた上司は自分のデスクへと戻って行った。「赤司さん!よ、宜しくお願いしますっ…!」と深々とその場に頭を下げた後輩の背中に手を添えて、「じゃあ、行こうか」と口にする。部署から出る前にもう一度自分が手にしている書類の内容を確認してエレベーターの行き先ボタンをカチ、と押した。

「いや〜それにしても俺、こっちでの外回りが赤司さんと一緒に出来て光栄っす!だってほら、赤司さんってまだこっちに来てそんなに日が経ってないのに、もう既にうちの部署のエース候補じゃないっすか!」

「そんな事ないさ。たまたまだよ」

「いやいやいや!だって皆さん口々に言ってますよー?うちの部署は赤司さんが来てくれたから安泰だ!さすがはあの名家の赤司家の跡取りだー!って」

「大げさだなそれは。ま、悪い気はしないが」

「はいっ!だから俺、今日は本当に頑張ります!憧れの先輩の仕事ぶりを拝見させて貰って、んでゆくゆくは俺もこの会社のエースになれるように!」

「あぁ、そうなる事を僕も期待しているよ」

ポーン、と鳴ったエレベーター到着音に導かれるようにカツカツと革靴を鳴らし、二人して乗り込む。1Fのフロアを選択してゆっくりと下降していく絶景を眺めながら、ただぼんやりとある一人の女を思い浮かべていた。


『私がずっと側にいるよ。だから間違っても独りだなんて思わないでね』


「…………ずっと側にいる、か」

「え?今何か言いました?」

「いや…別に」

行こうか、そう言い残して午後からの商談相手の元へと足早に車に乗り込む。シートベルトをして、ゆっくりと前に進みだしたアクセル音を耳に聞き入れながら、助手席に座る僕の隣でハンドルを手にした後輩が「うっしゃー!頑張るぞー!」と気合を入れ直している。その若さ特有の元気さが微笑ましく、口角をあげつつもそっと目を閉じた。空気の入れ替えがてら開けた窓の隙間からは心地の良い風が流れ、そっと僕の頬を撫でていく。その温度が、温もりが、まるで何だか懐かしく思えてそのまま目的地に辿り着くまでの間珍しく居眠りをしてしまった。



「お疲れ様。少しここで休憩でもしていこうか」

無事に取引先との商談を終え、その帰り道がてら最近よく行くお気に入りのカフェへと後輩を連れて行き、そしていつものようにブラック珈琲を注文して吹き抜けのテラスへと二人して腰を降ろした。テラスの目の前には大きくて広い公園が見える。こんな天気の良い日は親子連れが多く、一定時間に何度か吹き上がる噴水前にはよく多くの子供達が楽しそうに遊んでいる。それをこの場所から眺めるのが好きだった。そんな中、まだ少し寒さが残るこの季節に丁度良い薄手のコートに身を潜め、珈琲を啜る僕の隣で、はぁ、と溜息を吐く後輩が項垂れている。触れようか触れまいか一瞬考えたが、このまま放置しとくのも何だと思い、「どうした?」と声を掛けた。

「赤司さん…俺やっぱ無理かも。ビジネス英語難しすぎ…てか逆に自信失くしちゃいました…」

「始めはそんなものだろう。誰だって最初は戸惑うさ」

「いやでも赤司さんは始めから英語完璧だったじゃないっすかぁー…はぁーあ、俺今まで大学で何勉強してきたんだろう…こんなんじゃ日本に残してきた自分の女を到底幸せになんか出来ないぜ…っていう」

「へぇ、君は遠距離をしているのかい」

「えぇ、まぁ…」

大学時代に知り合った女なんすけどね。そう言ってテーブルに乗せたままの頭を掻きながら彼はその場に頬杖をついた。

「本当はこっちに来る前にすっげぇ大揉めしたんすよ。…って、そりゃそうですよね。誰が考えてもこの歳で国際遠距離なんて無理だって考えると思うし」

「あぁ…」

「でも俺どーしてもそいつを手放したくなくって。んで何度考えてもここで別れといた方があいつの為だ!って分かってる癖に現実は全っ然別れる気とかなくて。笑えますよね。土下座してまでも俺あいつに頼み込んだんすよ。絶対早く結果出して日本に戻って来るから、その時は結婚しよう!って」

「…………」

「なのに何なんだ俺…全然駄目じゃん。はぁー…一体どうすれば…」

そのまま気怠げに顔を伏せた後輩は、「あー…あいつに会いてぇ」とポツリと弱音を吐いた。その姿は一見情けない姿にも見えるが、隣に座る自分からしてみればとてもそんな風には思えなかった。何故なら、その悩みはかつて自分が何度も何度も試行錯誤しながら出した大きな決断によく似ていたからだ。


『私は、どんな征ちゃんでも大好きだよ』


どんな自分でも好き。そう何度も繰り返し伝えてくれたナマエの手を離したのは紛れもなく自分の方からだ。なのに何故だろう。それでもふとした時に思い出す。屈託のない笑顔で僕の名前を呼ぶ彼女の表情や、最後に見せたあの切なそうな横顔を。もしかしてまだやり残した事でもあるというのか、なんて。今更考えた所で手遅れだ。僕にはもう、帰る場所なんて何処にもないのだから。

「彼女はきっと幸せだろうな」

「…………え?」

「そんなにも自分を思ってくれる相手が居てくれて。きっと向こうも今頃君と同じ事を考えているんじゃないかな」

「赤司さん…」

「素直にその気持ちを伝えてみれば良いんじゃないかい?彼女も君からの連絡を心待ちにしていると思うよ」

「………はいっ!ありがとうございます!じゃあー俺、今日の夜久々に電話してみます!」

「あぁ、それが一番良いと思う」

なんて、そんなアドバイスを偉そうに言えた立場じゃないくせに見栄を張る自分は何て愚かなのだろう。それでも彼には自分のように悔いだけは残して欲しくない、ただそう考えていたら口が勝手にそんな事を喋っていた。

「ところで赤司さんにもそういう女っているんですか?」

「………なんだい、急に」

「いや何か社内の噂で婚約者がいるって聞いた事があるんで」

「あぁ…そうだね。居ることには居るよ。ただまだ一回も会った事はないけどね」

「えっ…!そうなんすか!?俺てっきり赤司さんの事だから自分で選んだ大事な女なんだろうなって勝手に思ってたんですけど…」

「はは、大事な女か…」

どうかな、なんて誤魔化しつつも珈琲を啜る。公園内には未だ幼い子供達が嬉しそうにはしゃぎながら自分の親に駆け寄っていく姿が目に映った。その姿を眺めながらふと腕時計に目をやる。結構な良い時間となっていたので、「戻ろうか」と後輩に声を掛け、その場にゆっくりと立ち上がった。

「………あれ?」

「?どうした」

「赤司さん…あの人知り合いっすか?」

ほら、あれ。そう言って少し遠くに見える場所を指差して僕に質問を投げかけた後輩の声に踵を返す。そしてその瞬間、僕の思考回路は一気に遮断した。


「征ちゃーーーーーーん!!おーーーーーい!!」


此方にブンブンと風を切るように、そしてその場でピョンピョンと飛び跳ねながら笑顔で手を振る女。…………嘘だろう?どうしてお前がここに…


「…………ナマエ?」


もう二度と会う事はないだろう思っていた人物に目が点になる。………幻か?いやでもあれは紛れもなくナマエだ。あの声、あの大袈裟な動作、そしてあの屈託のない笑顔。

…………そして、


「征ちゃーーーーん!!…あれ?聞こえてないのかな?おーーーーい!!私ーーー!ナマエだよーーー!!」


僕の名前を呼ぶ、あの優しい声。


「……………何してるんだ、あの馬鹿は」

思わずこぼれた呟きは、心からの本音だった。でも本当はそれ以上に、彼女に会えた嬉しさの方が遥か何倍も勝っていた。思いがけないその現実に、無意識に手で顔を覆う。そんな僕の姿に勘が働いたのか、後輩は「俺、先に車に戻ってますね。部長には上手い事言っておきます」と言ってその場から去って行った。





「久しぶりだねー征ちゃん!思ってたより元気そうで良かったよ」

「……………」

そう言って、「こっちはまだ日本よりちょっと寒いねー」と両手を擦り合わせながら彼女は僕の前に小走りで近付いて来る。そしてピタリとその場に足を止めた。そんな中、未だ柄にもなくフリーズしたままの僕に向かってナマエは不思議そうに横に首を傾げ、聞こえてないと勘違いしたのか、もう一度確認するように僕の名前を呼んだ。……いや、首を傾げたいのはこっちだ。何故お前がここに居る。

「…あ、もしかして何でここに居るのかー!とか思ってる?えへへ、実はねぇ。この間久々にミドりんに再会したんだ」

「………真太郎に?」

「そ!んで征ちゃんは今此処にいるって教えてくれたの」

「あいつ…」

ナマエには教えるなと言った筈だ、とそこまで心の中で呟いたと同時に気付いた。そういえば明確な事は口にしてなかったな、と。…いや、それでも普通は空気を読む筈だが。

「それにしても良い所だねー此処。たまたま征ちゃんの会社に行くついでに通っただけなんだけど、余りにも綺麗だからついつい足が止まっちゃって。…あ、でもそのおかげで無事に征ちゃんにも会えた訳なんだけど」

「……………」

「征ちゃん、今仕事中だよね?ごめんね、呼び止めたりして。つい会えたのが嬉しくなっちゃって大声で叫んじゃった。許してね」

「……………」

「それに仕事の人待たせてるんだよね?途中までで良いから、私も一緒に歩いていいかな」

「………あぁ」

良かった!そう嬉しそうに笑った彼女は最後に会ったあの日以来何も変わっていなかった。だがそれもその筈。ナマエと離れた時間をざっと計算してみると、一年は愚か、半年さえ経っていないのだと気付く。それなのに既に懐かしいと感じている自分はどれだけナマエを心の中で欲していたのだろうか。あの日彼女と離れると決めたのは自分のくせに、その身勝手な想いに自分で自分に嫌気がさした。

「私ね?一人旅って初めてだったんだー。しかも一番最初が外国って超緊張…羽田で搭乗ゲートを探すのに間違いまくっちゃった」

「………ナマエ、」

「あ!でもね、離陸して直ぐにたまたま鳥の大群が居たの。でも多分だけど結構低空飛行してたから、もしかしたら今頃雨が降ってるかもだなぁ」

「おい、話を」

「ねぇ、征ちゃんは鳥の低空飛行してるの見たことある?あれって実はね、」

「ナマエ!」

自分でも珍しい程の大声に、少し前を歩いていたナマエの肩が大きく飛び跳ねる。そして口を閉じ、その場にピタリと足を止めた。

「………今日、何でここに来たんだい」

「…………」

「言った筈だろう、僕達は別れたんだ。だから本来ならば今ここに君が存在している事は可笑しい」

「…………」

「どうした?もしかしてあれから何かあったか」

そこまで口にして、彼女の細い肩が震えている事に気が付いた。顔を地面に俯かせて、何度も何度も横に首を振り続ける彼女の側までゆっくりゆっくりと距離を縮め、そしてその震える彼女の肩にそっと手を伸ばした。

「とりあえずこっちを向い」

「………っ、違う、…違うの征ちゃん…っ」

「え…?」

その言葉に、伸ばし掛けていた自分の腕が止まる。

「……………たかったの」

「…………」

「………私っ…ただ征ちゃんに、会いたかっただけなの…っ…!」



……………息が、詰まったかと本気で思った。「ごめんなさい」と、何度も呟きながらようやく此方に振り向いた彼女の頬には沢山の涙が流れていて、その場に呆然と立ち尽くす自分の胸が痛い程激しく軋んだのが分かった。ナマエが自分の目の前で泣いている、それは十分理解しているくせに、まるで誰かに氷付けにでもされたかのように僕の手はその位置から全くと言って良い程動かなかった。


「……ほ、本当は、ここに来ちゃ駄目だ…って事も分かってたんだけど…っ」

「……………」

「…………でもっ…、会いたかったから…」

「……………」

「…あ、会いたくて、会いたくて…っ、ただ、仕方なかったから…っ!」


『征ちゃんに』、そう付け足して大粒の涙を溢したナマエの顔をぼんやりと見つめた。


…………あぁ、少し痩せたな。ちゃんとご飯は食べているんだろうか。肩だってこんなに小さかったか?ナマエは人より少し冷え性だから、そう言えばよく夜一緒に寝る時には強く抱きしめてあげたな。ふとそんな事を思い返しながら、彼女と過ごしてきた日々の記憶を一つ一つ振り返る。


『何か一日一日過ぎていく時間が早すぎてビックリしちゃうよ』

『それとも征ちゃんと一緒にいるからこんなに早いのかなぁ?』


甘えん坊で、寂しがり屋で、でも意外にしっかりしてる所もあって。



『征ちゃん、大丈夫だからね…』

『大丈夫だから。私は、どんな征ちゃんでも大好きだよ』


心配性で、お節介で、でも最後にはいつも優しくて。


そんな彼女に、僕はいつも惹かれてばかりの10年間だったなと、ふと一人そんな事を思う。


「…………私、もう我儘言わないっ…征ちゃんに…もう二度と、こうやって会いに来たりもしないっ…」

「……………」

「だ、だから…っ、お願いっ…征ちゃん、」

「……………」

「せめて…っ、征ちゃんの事は…っ、征ちゃんの事だけは…っ、まだ好きでいさせてっ…!!」

その瞬間、理性もプライドも何もかも一気に投げ捨てて、目の前に居る彼女を勢いよく抱き寄せた。そして彼女のその細い首筋に顔を埋めながら、あの日最後に交わしたナマエとの言葉を何度も何度も繰り返し思い出す。まるで蓄積された懺悔を打ち消すかのように、「辛い想いをさせてすまなかった」と、耳元で囁いては頭を撫でた。そのまま暫く彼女がいつものように泣き止むまで、その細い身体を僕は何度も何度も会えなかった時間を埋めるかのように、強く抱き締め続けた。






『辛い想いをさせてすまなかった』

そうやって、何度も何度も私に謝り続ける征ちゃんの声は少し掠れていた。あの日、緑間君から征ちゃんは今外国に居ると教えられた時、正直一瞬心の何処かでホっとした。あぁ、これで道端でバッタリ会う事もないから、きっとこのまま順調に彼を忘れる事が出来るかな、って。そんな馬鹿な事も考えたりした。でもそれでも改めて、もう二度と征ちゃんには会えないんだ、もう二度と一緒に眠る事も、一緒にご飯を食べる事も何もかも出来ないんだ、って現実に気付いた瞬間一気に怖くなった。


『本当に赤司の事が好きなら行くのだよ』

『お前のこの10年間はそんなに一気に整理出来るほど軽いものだったのか?』


本当は最初から、この気持ちに踏ん切りをつける自信なんてなかった。ましてや征ちゃん自身を忘れる事なんて、もっと困難な事なんだと自分が一番分かっていた。それでもまだ見て見ぬフリをして、自分の気持ちに気付いてない演技とかまでして。どうにかして前に進もう、進むしかないんだ、そう何度も自分に言い聞かせてはこの3ヶ月を過ごしてきた。

……………でも、

「征ちゃん、私ね?やっと分かったんだ…」

「………ん?」

「征ちゃんのこと、忘れよう、忘れようって考えるのは、本当はそれだけ忘れたくないんだって事に」

「……………」

「本当はそれだけ、征ちゃんの事がまだ好きで好きで仕方ないんだ、って事も」

だって征ちゃんは、まるで幼い子供をあやすように、いつもこうして私を優しく抱き締めてくれたよね。その度に「大丈夫だよ、そんな事もあるさ」そう言って、何度も何度も頭を撫でては私を安心させてくれたよね。

「私…もう逃げない。これからは征ちゃんと過ごした想い出を大事にしながら生きてく」

「………………」

「今まで、本当にありがとう征ちゃん。………元気でね!くれぐれも身体には気を付けてね!」

最後に会いに来て良かった。そう言って、強く私の身体を抱き締めてくれていた彼の腕からするりと抜ける。そのままゆっくりと後ろに後ずさりしながら、両手で大きく手を振りつつも精一杯の笑顔でこう告げた。


「大好きだよ征ちゃん!!ほんとにほんとにほんっとーーーーに大好き!!……ばいばい!!」


その言葉を背に勢いよく踵を返す。……そうだ、これで良いんだ。最後に征ちゃんの顔をもう一度見れて良かったじゃないか。会いに来たかいがあるってやつだ。だからもう泣き止まなきゃ。じゃないとまた優しい彼を困らせてしまう。誰よりも勘が鋭い征ちゃんの事だ。きっと絶対このままだと自分の事を責めて辛い想い出にさせてしまう。


…………だから、笑え。笑うんだ私。



「ナマエ!!」

「…………え?」

そうやって、何度も何度も自分に言い聞かせていた時だった。ぐずぐずと、堪えきれない程の涙を拭いながらその場に名前を叫ばれてピタリと足を止める。ゆっくりとそのまま踵を返して振り返ると、そこにはさっきと変わらない場所で立つ征ちゃんが、少し息切れをしながら此方を見ていた。

「お前は…どうしたい?」

「…………え、」

「だから、お前は僕とどうなりたいのかを聞いている」

「……ど、どうなりたいって、」

「さっきの話が嘘じゃなくて本心ならば、今お前は僕とどうなりたいんだい」

「………………」

「昔、何度も言ってくれたね。どんな僕でも大好きだ、と。あれはただの口先だけかい?」

「………なに、言ってるの。…っ、そ、そんな事ある訳ないじゃんっ…!!だから好きだよ…っ!!大好きだって言ったじゃんっ…さっきも!!」

「じゃあ僕の側から離れるな!!」

「……………征ちゃ、」

「…自分が、今物凄く勝手な事を言ってるのは分かってる。お互い離れようと話を切り出したのも僕の方からだ。………それでも、」

そこまで言って、征ちゃんは地面に向かって頭を俯かせた。そして罰が悪そうに首に手を当てたまま、ゆっくりと切なそうな表情で私の眼を捉える。

「………………何をしていても、頭にお前の顔が浮かぶんだ」

「…………征ちゃん」

「朝起きて珈琲を沸かしてる時も、昼間仕事をしていても、夜家に帰ってきてテレビを観ていてもずっと、ずっとだ」

「………………」

「その度にいつも考えてた。あぁ、離れたのは間違ってたんじゃないか、僕は一体何をしているんだ、って」

「……………っ、」

「ずっと、後悔していた。ナマエを手放した事を」


…………あぁ、もしかして私は今自分に都合の良い夢でも見てるのかな。


「だから、もう一度だけチャンスをくれないか。絶対幸せにする、…なんてそんな無責任な事は言えないが、でも…それでも僕はナマエの事を世界中で誰よりも想ってると断言出来るんだ」


………………それとも、こんなどうしようもない私に同情して、神様が最後にもう一度だけ背中を押してくれているのかな。


「だからお願いします。もう一度僕の側に居てください」


…………でも、もうそんな事どうだっていいや。神様、どうか夢なら覚めないで。



「………ほ、本当に私でいいのっ…?」

「あぁ」

「で、でもっ…、私甘ったれだし、わ、我儘だし一緒に居ても征ちゃんを困らせてばっかりだよ…っ、」

「それで構わない」

カツ、カツ、と征ちゃんの革靴の擦れる音がどんどん近くなってくる。そしてそれに比例するように、どんどん私の目からは大量の涙が溢れていく。

「で、でもでもっ…、征ちゃん、確か今こっちに婚約者がいるってっ…!」

「あんなもの、元々断るつもりだったよ。情けない事に、ただずっと自分の気持ちに言い訳を重ねてただけだったんだ」

「う、嘘…っ!ぜ、絶対嘘に決まってるじゃんっ…、そんなの…」

「嘘じゃない」

「…………っ、」

「嘘じゃないよ」

そしてその言葉を最後に、目の前の視界が一気に暗くなった。生真面目な彼がいつも使うお気に入りの柔軟剤の匂いと、もう何度も何度も恋い焦がれたその温もり。大きすぎず小さすぎない丁度良い彼の体格に、変わらない優しい声、腕、視線。そのどれもこれもが、今再び私の目の前にある。


「……………好きだよ、ナマエ」


そう言って、慣れた手付きで私の後頭部と腰に腕を廻した彼の唇がゆっくりゆっくりと近付いてくる。


「……っ…あたしなんて、世界一征ちゃんの事愛してるよ…」


それは、あの日最後に二人で海を見に行った夜に確かめ合った、お互いの台詞。

今振り返っても痛い、二人だけの想い出。


「…………知ってるよ」


そんなやりとりを耳に聞き入れながら、そっと顔が近付いてきた征ちゃんの首に腕を廻し、目を瞑る。


『初めまして!今日からこのクラスの一員なる事になりました、ミョウジナマエと言います!皆さん、どうぞ宜しくお願いします!』

『ミョウジさん、次の移動教室はあっちの第二校舎だよ』


『別にかまわないよ、君と交際してあげても』


『じゃあ僕の側から離れるな!!』

『ずっと、後悔していた。ナマエを手放した事を』


今までの事を走馬灯のように思い返しながら受け入れたキスは、暖かくて、そして優しくて、でもどこか切ない感じがした。でも多分それはきっと、お互いがお互いに遠回りした分手に入れた大切さや、後悔が身に染みた結果からだと思う。


「征ちゃんっ…好きっ…愛してる…っ」

「…あぁ、僕も愛してるよ、ナマエ」


その言葉を皮きりに、更にもっともっと深く絡みあう舌。自分より少し背の高い征ちゃんにヒールを履いたまま背伸びをして、行儀悪く何度も何度もキスを強請る。そんな離れていた時間を取り戻すかのように、人目も気にせずキスを繰り返す最中、語尾が特徴的な彼から預けられて鞄の中に忍ばせておいた、ラッキーアイテムに目線を下げ、ウインクをする。チャックの隙間から覗いていたカエルの表情は、少しだけ誇らしげに、そして少しだけ嬉しそうな顔をして、此方を祝福してくれているように見えた。

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