「本当に行くんだな、赤司」


家具も何もない殺風景なこの部屋を背景に、カラン、と二つのグラスの重なり合う音が鳴り響く。引っ越し前日。何時ものように仕事を終え、何時ものように帰宅した自分を、マンションのエントランスにて待ち構えていた真太郎に対して笑みを溢した。何故なら頭の中でこうなるシチュエーションを何度も繰り返し予想していたからだ。彼は昔から律儀でマメな男だった。きっと少しだけ不服そうに、だが反面心から祝福するように僕を送り出してくれるだろう、と。不思議だが、昔からそういった類の予想を自分自身外した試しがない。正にこれは、青春時代を共に謳歌した戦友の証、とでも例えるべきなのだろうか。

「あぁ、当初の予定を崩すつもりはない」

「……そうか。全くお前には毎度驚かされてばかりなのだよ。試合中でもプライベートでも」

「それは僕も同じ思いだよ、真太郎」

床に腰を下ろして、真太郎と真向かいに座り込んだままクスクスと会話が弾む。出だしはやはり中学時代の話から。それから高校のウィンターカップに、卒業してからのそれぞれの身の上話。今思えば、お互い一番充実していのは日夜バスケに打ち込んでいた中高だったね、なんて言い合いながらアルコールのピッチはどんどんと上がっていく。そして2本目のワインのコルクを開け始めたと同時に、恐らくずっと彼が口にしたかったであろう本題に辿り着いた。

「結局ミョウジには何にも詳細を話さなかったのか」

「………あぁ」

「何故なのだよ。やはり俺はお前の思考回路が理解出来ん」

「…………」

はぁ、と少し呆れ気味に溜息を吐く真太郎を前に、コルクを開ける手の動作をピタリと止めその場から静かに立ち上がる。そのままリビング奥に置いてあるアタッシュケースの中から、いびつな形をした赤いマフラーを取り出し、ゆっくりと踵を返しつつも口を開いた。

「これ、昔ナマエが僕にくれた物なんだ」

「……手編みか。ふん、よくあるパターンなのだよ」

「そうだね、今思い返せばありがちな事かもしれない。…だけどあの時ただ単純に嬉しかった。市販の赤いマフラーよりもこれは何倍…いや何十倍も価値があるものだ、ってね」

「……………」

「何故市販の赤いマフラーと同じなんだい、そう言って疑問符を突き付ける僕に彼女はこう言ったんだ」

その言葉を皮切りに、まるで何かを祈るようにそっと瞼を伏せる。そして頭の片隅に残る淡い記憶を頼りに、その言葉の続きを追った。


『だって赤は征ちゃんの色でしょう?過去、現在、未来永劫変わらない征ちゃんの証だから』


閉じたままだった瞼をゆっくりと開き、幼く若かったあの頃のナマエの面影を探す。嬉しそうに笑い、大きく両手を広げたままこちらに暖かい言葉を投げかけたあの時の彼女の表情は、一緒に過ごした最後の夜の笑顔と全く変わらなかった。

「……正直驚いたんだ。まさかそんな意味を込めてこのマフラーを編んでくれていたなんて」

「………あいつらしいな」

「…あぁ、そうだね。ナマエらしい」

「だがあいつだからこそ成せる技なのだよ。それを他の奴が同じ事をした所で、あの頃のお前は拒否していたに決まっている」

「……………」

「…本当にこれでいいのか、赤司」

後悔するぞ。そう言いたげに言葉を濁した真太郎を見透かすように、「あぁ、これで良いんだ」と返事を返した。手にしたままの赤いマフラーを綺麗に折り畳み、元の場所へと戻す。そのまま再び真太郎の真向かいに腰を下ろし、中途半端に開けたままのコルクに意識を集中させ、ポン、と軽快な音を部屋中に響かせた。

「白状するよ。この前…ナマエと最後に過ごした夜に言ったんだ。好きだ、って」

「…………」

「正直自分でも驚いた。何を言ってるんだろう、彼女を手放したのは僕自身じゃないか、ってね」

「………赤司」

「後悔からとは違う、僕の中に存在する彼女に対しての本音だったのかもしれない」

「……………」

「でもどんなにシュミレーションしてみても駄目なんだ。どう想像を巡らせてみても僕と彼女の未来は繋がらない」

「……何故なのだよ」

沈黙を拒むように、静かにそう口にした真太郎にボトルから注いだグラスを手渡し、小さく息をつく。同じように自分の取り分のグラスにそっと口付け、まるで罪悪感を飲み込むように喉を潤せば、記憶の中に存在するナマエの笑顔が霞んでいく気がした。

「……結婚、させられるかもしれないんだ」

「…………なに?」

「と言っても直ぐにじゃない。向こうに行って、暫くして落ち着いたらの話だよ」

「……………」

「赤司家に相応しい、それ相応の名家のお嬢さんだとは昔から聞かされていてね。どの道ナマエとの関係にはリミットがあったんだ。あいにく、縁談を拒絶する手段も理由も思い浮かばなくてね。やっぱり育ちって出るものだな」

「……納得いかないのだよ。お前はそれで良いのか」

「良いも何も、これが僕の選んだ道だ」

「……………」

「……ナマエには、良い夢を見させて貰ったと思っているよ」


――昔から決まって口癖は『絶対は僕』だった。温厚な母を亡くし、唯一の救いだったバスケさえも一時失いかけ、それでも自分は大丈夫だと無理矢理言い聞かせてきた。何をやっても世界は霞んで見え、毎日ただ淡々と過ぎていく日々に退屈さえ覚えた。あぁ、このまま自分は腐っていくのか、そう瞬時に判断を下した程だ。だがそんな刺激の少ない日々の中で、僕はある光と出会った。


『ありがとう、赤司君』

『私は、どんな征ちゃんでも大好きだよ』

『……っ…あたしなんて、世界一征ちゃんの事愛してるよ…』


いつだって素直で、時に自分さえも犠牲にし、それでも人をただ純粋に思いやる事の出来る、光り輝く彼女に。


「真太郎、僕は幸せ者だ。心から気の許せる五人の親友と、心から安らげる一人の女性に出会えたのだから」

「…………」

「それだけでも十分だよ。……これ以上望む物なんて何もない」

「………嘘が下手だな、お前は」


困ったように眉を下げて、そう小さく呟いた真太郎の言葉に不思議と涙が零れ落ちそうになった。嬉しそうに赤いマフラーを手渡してくれたナマエも、此処で一緒に過ごした想い出も何もかも捨てて、今僕は無惨にもこの場所から逃亡しようとしている。本当は父を拒む事だって出来たかもしれない。もしかしたらナマエと一緒になる未来も描けたかもしれない。だがそれを実行してしまえばきっと優しすぎる彼女を板挟みにしてしまい、どの道苦労をさせる事になるだろう。そう考えれば考える程この決断しか思い浮かばなかった。


『征ちゃん…大好き。大大大だーいすき…』


せめて、こんなどうしようもない僕を好きだと言ってくれた彼女の記憶を鮮明に焼き付け、いつまでも色褪せる事のない脳内フォルダに保存出来たらどんなに楽な事だろうか。人間の記憶とはいつだって曖昧で、いつだって不安定な存在だ。いつかきっと完璧に忘れる事はなくとも、少しずつ彼女との想い出は風化していくだろう。僕はそのいずれ実感する想いを恐れ、本当は今すぐにでもナマエを攫っていきたい衝動に駆られ続けている。…痛いほど純粋に。


「……そろそろ失礼するのだよ。向こうに行っても元気でやれよ。たまには連絡してくれ」

「……あぁ、ほとぼりが冷めたら必ず連絡するよ」


パタン、と玄関の扉が閉まったと同時に、膝を立てたまま座るその場所に勢いよく顔を伏せた。溢れ出てきたのは、この数週間ずっと我慢していたナマエへの想いと涙、ただそれだけだった。どんな別れを告げれば彼女を傷つけずに済んだのだろう。どんな理由をつけて彼女自身を腕に抱けば良かったのだろう。もう今となっては分からない。ただ一つだけハッキリとしているのは、どれだけ涙を流そうと、どれだけ想い出に縋ろうと、「大丈夫だよ」と優しく包み込んでくれる彼女はもう居ない。


『征ちゃん』


記憶の中の幼い彼女が満面の笑みで僕に手を振る。不思議そうに首を傾げて、僕の顔を覗き込むあのあどけない表情も、ふとした瞬間に急に大人びた表情を見せるあの顔も全て、全部が全部愛しく想えて仕方ない10年間だった。


「………さようなら、ナマエ」


長い沈黙を経てようやく口にした言葉は、覚悟を決めた想いと愛しい彼女の名前だった。そしてそれと同時に終わったと思った。例えるなら、辛うじて繋がっていた細い糸がプツンと切れた感覚に近い。恐らく助けを求める最後の頼みの綱が切れた。完璧だ、天才だと周りからどれだけもてはやされようがそんな物は何一つ意味がない。僕にとってのこの10年間は、ただ一人、ナマエだけが自分の側に居てくれる事を願い続けた、そんな日々の繰り返しだったのだから。

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