カチ、カチ、とまるで最終警告音かのように時計の秒針の音が響き渡る。出会った当初からあまりゴチャゴチャした物を好まない征ちゃんらしい、スッキリと配置された家具達に最後の別れを告げ、大きめのボストンバッグを手にしたまま一つ深い深い深呼吸をした。
あれだけの時を彼と過ごしてきたんだ。もう今更悔いなんてない。これから先の未来、彼にとって幸福な出来事だけが待ち侘びていますように。今はただ、そう祈るばかりだ。
「どうして最後にこの場所を選んだんだい」
少し遠くに見えるネオン街が今の私を鮮やかに、そして物悲しく頬を照らす。はぁ、と吐き出した息は上空に浮かぶ鳥達まで届いたのだろうか。ふとそんな事を夜空に向かって思い描いた。
「……ナマエ」
質問に答えない私に違和感を覚えたのか、征ちゃんらしい柔らかな口調で一歩一歩、確実に私との距離を詰める彼の靴の音が聞こえる。それに従うようにその場でゆっくりと踵を返し、いつものように彼に対して口角を上げ、そして微笑んだ。
「どうしてだと思う?」
「分からないから質問しているんだろう」
「……ここはねぇ、征ちゃんと私が付き合いだして初めて2人で来た場所だよ」
「…………」
因みに初キスの場所でもあります!そう付け加えてまた元の場所へと視線を戻した。
「征ちゃん優しいから。付き合い出してからもあんまり私に手を出そうとはしなかったよね。あれ結構寂しかったなぁ」
「…………」
「あの日だって、結局私から攻めてようやく自分の物にして貰えたもんだし。まぁそこで拒否されてたらもう一生立ち直れなかっただろうけどね」
そう冗談交じりに笑みを溢せば、いつの間にか私のすぐ側までやって来ていた征ちゃんの長い手が私の髪にそっと触れる。そしてまるで何か壊れ物を扱うように、風で乱されていた私のサイドの髪を優しく耳に掛けてくれた。
「優しいからじゃない。自信がなかったからだよ」
「え?」
「言っただろう、僕はもっとドロドロした人間だと。男なんて一度好きな子を抱いてしまったが最後、どんなに理性を保とうとした所で歯止めなんて効かないからね。お前を壊してしまいそうで無意識にセーブしてたんだ」
「………そう、だったんだ」
「幻滅したかい?」
「ううん全然…いや、ってか寧ろホっとした!」
そうか、そう言って征ちゃんはクスクスと笑った。まるでこの数日間の出来事なんて何もなかったかのようにゆったりとした時間が流れていく。「明日何処かに行こうか」そう提案した彼の言葉の意味なんて私には分からない。それでも最後に征ちゃんが自分を必要としてくれた事がただただ嬉しかった。駅で待ち合わせをして、久しぶりに手なんて繋いでみたりして、夜景がよく見えるレストランに二人で入店した。端から見れば普通の幸せなカップルに見えた事だろう。最後、なんて思うから悲しくなるんだ。これは征ちゃんと二人で過ごす、幸せなデート。そう考えれば良い。
「この場所、よく覚えているよ」
「え…?」
「今みたいにそうしてただぼんやりと海を眺めてたな。どうやってキスまで持ち込もうかと考えていた僕なんて知る由もないくらい」
「………え、だってさっき征ちゃん。分からないって」
「分からないとは言ったが、覚えていないとは言ってないだろう」
「…………」
「覚えてるよ、全部。二人でデートした場所も、ナマエが転校してきた日の事も全て」
「……嘘つき。この前転校初日の事は覚えてないって言ったじゃん」
「あぁ、そうだね。あれは嘘ついた」
「意地悪…」
やや不服気に頬を膨らます私を横目に、「すまない、僕の事でイジけるナマエが可愛くてね」と征ちゃんは笑う。すっかり人気もなくなって、気付けば周りは私達二人だけとなっていた。
「ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「なんだい」
「……征ちゃんはさ、私と一緒に居て幸せだった?」
「…………」
「私とサヨナラしても、これからもずっと幸せ?」
その瞬間、時が止まったかと思った。だってそのくらい征ちゃんは驚いた顔をしていたから。あぁ、この顔久しぶりに見たなぁ。なんて、そんな呑気な事をぼんやりと考える。
「今更何でそんな事聞くんだって顔してるね」
「…………」
「いいの、別に答えてくれなくても。ただ聞いてみたかっただけだから」
そろそろ帰る?そう言って踵を返した時だった。
「幸せだよ」
その言葉と同時に背中に感じた人肌。大きすぎる訳でもない、小さすぎる訳でもない丁度良いその体格にスッポリと埋まった私の身体が、細胞の奥底から喜びを感じているのが分かった。少し掠れた声で幸せだと答えてくれた彼の頭部は、綺麗に私の首筋に顔を埋めていて、正直どんな表情で言ったのかは分からなかったけれど。
「お前と一緒に居たこの10年間、僕にとっても貴重な時間だった」
「………征、ちゃん?」
「僕にとってナマエは唯一汚してはならない聖域だった。今までも、これからもずっと」
「……征ちゃん、何言ってるかちょっとよく分かんないよ」
「分からなくていい。……分からなくて当然だ」
「…………」
「好きだよ、ナマエ」
その言葉に息が詰まるかと思った。驚いて直ぐに後ろに顔を振り向かせる。と同時に顎を持ち上げられ、征ちゃんの暖かくて柔らかな唇が重なった。その突然の行為に目を瞑るのも忘れ、軽く放心状態の私をあやすようにギュっと後頭部に征ちゃんの腕が回る。
「………今まで有難う」
ようやくお互いの視線が重なりあったというのに、神様はなんて残酷な仕打ちをするんだろう。彼がその言葉にどんな意味をつけて発したのか気になって見上げたというのに、目の前に存在する征ちゃん表情は心なしか複雑そうに、だけど何処かしら納得したような顔をしていた。まるで私に文句を言う隙なんて一つも与えないように。
「……っ…あたしなんて、世界一征ちゃんの事愛してるよ…」
もう涙は流すまい。そう固く決意していた想いは見事に崩れ去っていく。好きなら何で一緒には居てくれないの。どうして一人そんなに生き急いでるの。言葉にならない、行き場のない想いだけが、私の心の中でグルグルと彷徨い続ける。だけどそんな事よりも更に泣けてきたのは、泣きじゃくる私の頬に手を添え、優しく頭を撫でた征ちゃんからの一言だった。
「……知ってるよ」
キスをして、抱きしめられては抱きしめ返し、涙を溢しては優しく拭ってくれる、そんな征ちゃんが昔から大好きだった。好きな音楽も好きな芸能人も好きな趣味もまるで違って、共通点なんか一つも無かった私達なのに、一体何の引力で惹かれあったんだろう。
『私がずっと側にいるよ。だから間違っても独りだなんて思わないでね』
ーー願う事はいつだって同じだ。どうか神様。彼を守ってあげて下さい。そしてもし彼が何かに躓いた時はそっと手を差しのばしてあげてね。
ずっと側にいると、あの日誓った私の代わりに。
最後の夜、帰宅して直ぐに二人でベッドに倒れ込んだ。息継ぎもままならない程の激しいキスと、征ちゃんからの温もりが嬉しくて、でもやっぱり寂しくて涙は止まらなかった。
行為を終え、久しぶりに征ちゃんの腕の中で夢を見る。中学時代のあの頃の幼い私達が、幸せそうにこちらに手を振っていた。無邪気に笑い合う二人の表情は、まだ何も汚れを知らないようだ。それをどうしてももう一度だけ手に入れたくて、両手を真っ直ぐと付き伸ばした。でもそこでようやく夢だと目が覚めた。
「………バイバイ、征ちゃん」
次の日、大きめのボストンバックを片手に、彼が既に出勤して誰も居なくなったこの部屋に向かって、そうポツリと小さく呟いた。行き先なんて知らない。これから向かう先がどんな場所だろうと嫌でもしっかりしなきゃ。
何故なら、ずっと一緒にいる筈の彼の姿はもう、ないのだから。
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