「お先に失礼します」


紙コップに残ったコーヒーを一気に飲みほし、定時を告げるチャイムが鳴ったと同時にデスクから身を離す。「あれ、赤司さん。今日は珍しく早いですね」と、声を掛けてきた後輩に対して、「あぁ、今日は大事な予定があってね」と軽く返事を返した。専用の機械にカードを通し、同フロアのドアが開いて歩を進める。エレベーターを降り、ビル外の空気に触れれば、冬の冷たい風に思わず目を伏せた。

ナマエとの待ち合わせ場所はここから地下鉄で2駅程挟んだ場所にある。彼女の勤務先と僕の勤務先との丁度中間地点にしようと、今朝家を出る時にお互いに決めあった事は記憶に新しい。ICカードをかざし、駅のホームについて早々到着した電車に乗り込むと、幸い帰宅ラッシュにしてはそれほど人数は少なかった為、他人と肩を寄せ合う行為は免れる事が出来たようだ。

車内の吊革を片手で掴み、もう片方の手でポケットに忍ばせていたイヤフォンを耳に差し込んで再生ボタンを押す。すると、喧騒を掻き消すように流れてきた音楽と、ゆらゆらと左右に揺れる自分の身体だけがその場に残った。目を閉じて音に意識を集中させ、次曲へ移行したメロディが鼓膜まで響いてくる。…懐かしい、これはあの頃よく聴いていた曲だ。ふとそんな事を思いだしながら、僕の記憶は約10年前の過去へと遡っていった。




「また退部したらしいね」

中学2年の秋。一体何が僕を変えたのかは分からない。…いや、本当は全て分かっていたのかも知れない。今となってはその記憶さえもあやふやで、良い意味悪い意味断片的な日々だった、としか言いようがないからだ。人間の記憶とは都合よく出来ているもので、忘れたくない過去の記憶をいとも簡単に掻き消す事くらい容易な事だと気付いたの何時の頃だったか。

ただあの頃の自分を薄っすらと存在している脳裏の引出しから連れ出してみると、自分でも思わず苦笑いを溢してしまう程の滑稽な人間だったと断言出来る。その甲斐あってか、強豪と言われた当時の帝光バスケットボール部の現状は、蓋を開けてみれば何て事はない、ただの軍隊のようなチームに成り下がっていた。

「別に何の支障はないさ。辞めたければ辞めればいい。勝利に貪欲ではない選手なんてこの帝光バスケ部には必要のない人材だ」

「そう、なのかな。…うん、征ちゃんがそう思うんならそうかもしれないね…」

「違う、とでも言いたげな顔だね。良いだろう、丁度ミーティングも終えた所だ。暇つぶしがてら、お前の意見でも聞いてみようか」

「い、意見だなんてそんな…!別に私は征ちゃんの意見を否定するつもりなんてさらさらないよ」

そう言ってその場に縮こまったナマエは、何時ものように練習と監督とのミーティングを終え、誰も居なくなった体育館にて一人佇む僕に対し、そう弱弱しく言葉を繋げた。何も意見を発する気がないのなら何故この場所に居るのか。なんて、わざわざ彼女に問いたださなくても答えは容易く想像出来た。

「…帰ろうか」

当時、転校して来て間もなく環境の変化に慣れなかったせいもあるのか、当初は様々な部に足を運んだという彼女は結局どの部活にも属する事はせず、何を思ったのか練習を終えた僕を待つ、という行為が習慣になっていた。別に自ら頼んだ記憶もなければ、その行為自体を否定した覚えもない。ただ何故かその当時、二人一緒に帰るというその行為は僕にとってもどこか必然のように感じていた。

「寒くなったねぇ…あ。良かったら私、征ちゃんにお手製のマフラーでも編んであげ」

「遠慮する」

「ですよね。うん、そう言うと思った。いいの、ただ言ってみたかっただけだから」

ちぇっ、と頬を膨らませていじけた彼女は、何とも言えない複雑そうな表情をしている。その飼い主に捨てられた子犬のように耳まで垂れ下がった彼女に対して、はぁ、と小さな溜息を吐いた。そして鞄の中に入れたままだった赤いマフラーを彼女の首にグルグルと巻きつけて頭を撫でる。

「シンプルなデザインでお願いするよ」

そう言って、降参だ、と言わんばかりの自分でも呆れた表情で、彼女が待ち望んでいた答えを返した。不思議と当時から、彼女にはそんな人の気持ちを操れる力があった。…いや、もしかするとその力を発揮出来る相手は僕しか居なかったのかもしれない。変化していく自分と周りとの温度差を埋めるかのように、ただナマエだけしか与えられなかった能力、とでも例えようか。ともかく彼女には、まだ辛うじて存在していた僕の素の部分を引き出す力があった。

「うん…!任せて!次の試合までには絶対編み終えてみせるから!」

「期待していないから何時でもいいよ」

「えー!何その適当な感じー!全く愛を感じないよ征ちゃん」

「それは好都合だ。端から君に対して愛情なんて一つもない」

「ひどっ!それでもいいもーん、好きだからー」

少しだけ鼻を赤くして、まるで幼い子供のように無邪気に笑うナマエはただ単純に可愛いと思う。そして僕が巻きつけた赤いマフラーに半分だけ顔を埋めて、「征ちゃん、明日も明後日もずーっとずーっと一緒に帰ろうね!」と、嬉しそうに首を傾げた彼女の腕を掴んで引き寄せた。そんな予期しない僕の行動に驚いたのか、彼女は一瞬目を丸くさせて2度瞬きを繰り返したが、直ぐにいつもの穏やかな表情に戻り、「どうしたの?」と、僕に問いかける。

「……家、着いたぞ」

「え?…あ、ほんとだ」

いつものように二人で他愛もない話をしている間に、気付けば彼女の家の前まで辿りついていた事に気が付いた。会話に夢中になっていたせいなのか、少しだけ僕の前を歩いていた彼女の腕を反射的に掴んだのはこのせいだ。「また明日学校で」そう一言言い残して踵を返した瞬間、制服のブレザーを掴む感覚に動きを止め振り返ると、そこにはいつものように明るく笑う彼女の姿はなく、少しだけ気まずそうな表情で地面に俯くナマエの姿があった。

「どうした?」

「あ…、えっとあのね…その…」

「…今日はよく冷える。早く中に入った方が良い」

「………」

彼女が僕に対して何かを伝えようとしている事は、正直分かっていた。だがそれは、どうせいつもの冗談なのか本気なのか分からない告白だろう、と想定した。だからそれはいつでも耳に聞き入れる事が出来る。そう瞬時に判断して、秋の空が冬に移行しかけているこの曖昧な季節に負けぬよう彼女の体調に気を配ったつもり、だったのだが…

「……何のつもりだい」

「…えへ、マーキング?みたいな」

「離れろ」

「まだ駄目なのー、離れてあげないー」

「ナマエ」

何を思い立ったのか、彼女は俯かせていた顔をこちらに向けた瞬間僕の胸に飛び込んできた。まぁいつものパターンではあるが、今回は何故か指示を出しても彼女は一向に離れようとはしない。力の差で無理矢理引き離す事は可能だが、かと言ってここでジタバタするのも何か違うと思い直し、もう一度「ナマエ」と彼女の名前を呼んだ。

「征ちゃん、大丈夫だからね…」

「………」

「大丈夫だから。私は、どんな征ちゃんでも大好きだよ」

そう言って、更に力強く抱き着いた彼女の言葉に思わず声を失う。ただ抱き着いているのとは違うその腕の温もりは、まるで赤子をあやす母親のような温かさだと思った。それは恐らく僕の胸の奥で蠢いている、ドロドロした黒い感情が浄化されていく感覚にも近かったと思う。気付けば腕を伸ばして、目の前にいる彼女を強く抱き締め返していた。

「……お節介な奴だ」

「うん、ごめんね…」

恐らく彼女は気付いていたんだろう。ある日を境に突如急変した僕の心の闇に。自分自身でさえどう制御をすれば分からなくなっていた、もう一人の僕の存在を。

「私がずっと側にいるよ。だから間違っても独りだなんて思わないでね」

そう言って僕の頬に優しくキスを落としたナマエは、普段のように無邪気に笑いながら家の中へと姿を消した。残されたその場所でただ一人、まだ微かに残る右頬の温もりを指で伝って彼女の面影を探す。まだもう少し、あとほんの少しだけで良い。もう暫くこの温もりを感じていたい。

…そんな浅はかな僕の願いは秋の冷たい風に攫われ、ただの現実味を帯びない何かが再び僕の心を包んでいった。そして何か諦めを覚えた自分に対して蓋をするように、その場にてそっと静かに瞼を伏せる。



その瞬間、ガタン、と揺れ幅が大きい車内の動作に、過去へ遡っていた自分の意識を現実へと取り戻した。閉じていた目を見開き辺りを見渡してみると、どうやら目的地に着いたようだ。まるでその一連の動作を見計らっていたように、イヤフォンから流れてくる音楽は想い出の曲から最新の曲へと移り変わっていて、一人思わず苦笑いを溢した。

過去を振り返るのはもう終わりにしよう。誰かにそう助言された気がして背筋を伸ばし、前を向く。駅構内に広がるアナウンスに一押しされるように右足を踏み出して、ゆっくりとエスカレーターへと続いた。腕時計を確認し、まだ余裕な時間だな、なんて思いながら手摺りに手を付ければ、脳裏に浮かぶナマエの笑顔を思い出して、僕の口角はいつも以上に上がっていった。

prev next
TOP

×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -