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「赤点取れば良かったです…」

ゆらゆらと湯気が立ち込んでいるマグカップを手にして、喉に珈琲を流し込んだ瞬間隣から深い溜息が聞こえた。今朝の職員会議で配布された書類に目を通す俺の真横には、まるでこの世の不幸を全て背負ったかのような暗い表情を浮かべるミョウジが職員室の椅子に腰掛けている。やけに蒼白い顔をして、これ見よがしに重い溜息を吐く彼女に自然と頬が緩んだ。突然やって来て、突然突拍子もない発言を口にする彼女と一番最初に出逢ったのは、今から約1年半前の事だ。



「風邪ひくぞ」

あの日は桜の花が満開に咲き誇る夕暮れの事だった。もう春だというのにも関わらず少し肌寒い日で生徒も教師も揃いも揃って寒いと口にする程だった。今になって思い返してみると、天気があまり良くない日だったと記憶している。その日は職員会議が普段より長引いて少し帰宅時間が遅くなった。いつものように職員室を後にして、いつものように教員用の駐車場までの道のりを一人歩く。ただ唯一いつもと違っていたのは、何故か俺の車の真横に腰掛けて肩を落としたままそこに頭を伏せている、ある1人の女子生徒の姿があった。

「あ…ごめんなさい。ここ教員用の駐車場ですか?」

「あぁ、そうだが…君は一体そこで何をしているんだ」

「………です」

「ん?」

疑問を問いかけたのは良いものの、その声はか細く余りよく聞こえなかった。コンクリートの製車止めに腰を降ろして肩を落としている女子生徒とそこでようやく目が合う。そうして彼女は物凄く青褪めた顔で「家の鍵を忘れたんです…!」と叫んだ。

「ご両親は何時頃に戻ってくるんだ?」

「それが…今朝から2人で旅行に行ってて丁度今家に誰も居ないんです」

「兄弟はいないのか」

「いません。私1人です!」

何故か何処か誇らしげに強く叫んだ彼女こそがミョウジだった。彼女は自分の胸に手を当ててそこに勢いよく立ち上がり、そうして真っ直ぐと「どうすれば良いと思いますか!」と泣きそうな顔で俺に助けを求めてきた。

「むぅ…そうだな。それは中々難しい問題だ」

「ですよね!私もそう思います!」

「友人の家に一晩だけ泊まらせて貰うのはどうだろうか」

「いえ、それは無理です!大事な友達にそんな面倒は掛けられません!」

「うむ、君は偉いな!だがやむを得ん。そこは素直に甘えた方がいいと思うぞ」

そこまで口にして、目の前に佇む彼女の肩に手を掛ける。ポンポンと二度肩を撫でて今にも泣き出しそうな表情を浮かべている彼女を必死に宥めた。それに幾らか落ち着いたのか、力なくそこに腰を降ろして「そうしようかなぁ…え、でもなぁ…」と小声で何かと葛藤をしているようだった。

「うーん…でももうちょっとだけどうするか悩む事にします」

「そうか、ならば俺も共に悩もう!」

「え?」

製車止めに2人して腰を降ろし、そのまま春の穏やかな風に身を寄せた。右から左にと流れるそれはやはり少し肌寒くて、隣にいる彼女が体調を崩さないかと途端に心配になる。今朝たまたま持ってきていた薄手の冬用のマフラーがある事を思い出し、それを鞄から取り出しては隣に腰掛けている彼女の首元へと巻きつけた。

「寒くはないか?平気か」

「…………はいっ、暖かいです!ありがとうございます!」

花が咲くように、パっと明るい笑顔でそう口にした彼女に一瞬目を奪われた。あどけない笑顔でニコニコと笑う彼女はとても優しい心と人に素直な想いを伝える事が出来る真っ直ぐな子なんだと認識した。それからそこに2人して腕を組み、どうしたものかと必死に頭を悩ませる。やはり友人に頼むか、あるいは今すぐにでもご両親に連絡をして戻ってきて貰うしか手段はないのでは…と考える俺に「そういえば…」と突然彼女は話題を変えた。

「先生って、煉獄先生っていう人ですよね?」

「ん?そうだが…どうした、突然」

「今朝ね、クラスの皆んなが言ってたんですよ!歴史教師の煉獄先生って凄く生徒想いで人望がある人だよって」

「そうか?俺はそんなに大した人間ではないぞ」

「またぁ〜!謙遜しちゃって〜!」

口元に手を当てて、楽しそうに笑う彼女の表情はぐるぐると目まぐるしく回るなという印象だった。つい何分か前までは泣きそうな顔をしていたのに、今はもうその面影は何処にもない。寧ろ本当に悩んでいるのか?と問いかけたくなる程だった。

「私ね、この春に他の地区からこの学校に来たんですよ!だから皆んなみたいにあんまりまだ先生達の事をよく知らないんですけど…でも煉獄先生は話して直ぐに分かりました!」

「……………」

「生徒想いでー、優しくってー、えーっと後は…」

「後は?」

夕暮れの空に顔を傾けて、俺の特徴を指折り数える彼女の横顔にオレンジ色の光が被さる。首元に巻きつけてやった俺のマフラーに少しだけ顔を埋めて楽しそうに会話を続ける彼女に心が癒されていく感覚がした。その姿を横目に彼女の発言を待っていると「あっ!」と突然彼女が強く声を挙げた。そうして頭上に向けていた視線を勢いよく俺の方へと向けて満面の笑みでこう口にした。

「ものすごーく、カッコいい所です!」

何の曇りもない、清らかな笑顔で微笑んだ彼女に胸の奥底で何かが叫んだような気がした。一瞬ではあったが、それは確かに俺の中の何かに響いて弾けていったような感覚に近い。嬉しそうに横に首を傾げて「ね?私見る目あるでしょう?」と笑う彼女に頬が綻んだ。まだ少し幼さが残るその笑顔は、汚れを知らない純粋無垢な顔そのものだと思ったからだ。

「君は口が上手いな」

「えー!本気で思ってますよ!」

「大人を揶揄うんじゃない」

「もー、信じて下さいよー。先生」

少し機嫌を損ねたのか、プクと頬を膨らませて俺から視線を逸らした彼女に笑みが溢れた。それはただ単純に可愛いなと思ったからだ。教師という職について約数年。これまで色々な生徒達と会話を重ねてきたが、ここまで真っ直ぐと面と向かって想いを口にされたのは初めての経験だった。

「………あ、まじか。ら、ラッキー!」

「?どうした」

「朗報です先生!どうやら今から親が急遽家に戻ってくるみたいです!」

「そうか、それは良かったな!」

「はい!」

制服のポケットから自分の携帯を取り出した彼女の表情はとても柔らかく、そしてまた心の底から嬉しそうだった。気付けば本格的に陽も暮れてきて、彼女の顔を下から照らす携帯の画面が少し眩しく感じ目を細める。キラキラと光るそれはただ単純に液晶画面が眩しいのか、はたまた彼女自体が眩しいのかは不明だったが、取り敢えずの所は無事に問題が解決をして良かったなとほっと胸を撫で下ろした。

「よし、では帰ります!煉獄先生、最後まで付き合ってくれて本当にありがとうございました!」

「いや、俺は何もしていないぞ。それより夜道は危ない。送ろう!」

「いえ、大丈夫です!もう少ししたら、たまたまこの辺に用がある母親が近くまで迎えに来てくれるそうなので!」

「そうか、なら心配は無用だな!」

「はい!」

そこまで口にして、彼女はそこにすっと立ち上がった。最後に俺が巻きつけたマフラーを剥いでニコニコと嬉しそうに手渡してくる。鼻が、少し赤い。春とはいえついこの前まで雪が積もる程の寒さだったのだ。制服の上に軽く羽織っているセーターから見える手が心なしか悴んでいるようにも見える。その異変に気付いた俺は差し出された手を軽く掴み、そうして再び彼女の首元にそれを巻きつけてあげた。俺のその動作を不思議に思った彼女が、目を丸くして横に首を傾げている。そのあどけない表情に自然と頬が緩み「返すのはいつでも良い」とだけ返事を返した。

「えっ…!でも…先生は?寒くないんですか?」

「あぁ、俺は車で帰るし寒くはない」

「そっかぁ…うん。じゃあお言葉に甘えて、ちょっとの間だけ借りますね。先生ありがとう!」

マフラーに再び顔を埋めて、太陽のような眩しい笑顔で俺に笑い掛ける彼女に少し戸惑った。それは決して悪い意味での戸惑いではなく、寧ろ良い意味での戸惑いだったからだ。屈託のない笑顔で俺に何度も何度もお礼を伝えてくる1人の生徒に、俺は教師としてではなく、ただの1人の男として何か猛烈に惹かれたのだと確信した。だが敢えてそれには気付いていないフリをして「また明日学校でな!」と彼女の頭を撫でた。

「………あ。煉獄先生ー!」

「どうした!」

「言い忘れてましたけど、私の名前ミョウジナマエって言うのでー!ちゃんと覚えててくださいねー!」

「うむ、分かった!覚えておく!気をつけて帰るんだぞ!」

少し離れた場所から、最後に此方に振り返った彼女が自分の自己紹介をして「はーい!」と笑顔で手を振っていた。いよいよ完全に陽が落ちたせいでその表情は余り見えなかったが、恐らく彼女はとても穏やかな表情で笑っているのだろうなと、そう予測した途端に自然と笑みが溢れた。



「先生、夏の醍醐味って何か分かりますか」

何処か遠くに飛ばしていた意識を取り戻して我に戻ると、ミョウジは依然として俺の隣に腰掛けたまま何かを訴え掛けるかのように軽く睨んでいた。どうしたその顔は。と、思わず口に仕掛けたが「分からんな!」と素直な想いを返すと「じゃあ私が教えて差し上げます!」と彼女は得意げに椅子から立ち上がった。

「海!花火!祭り!以上です!」

「なるほどな!確かにそれは夏の醍醐味だな!」

「そうでしょうそうでしょう!なのに何故ですか!」

「ん?」

「何でそこに煉獄先生は一つも居ないのー!?」

立ち上がって早々、職員室内に響き渡るの程の大声で悲痛な想いを叫んだ彼女は目元に腕を当てて泣き喚いた。どうやら話を纏めると、彼女は俺とそのイベント毎を共に過ごしたかったらしい。梅雨が明け、季節は本格的な夏が訪れようとしている。夏休み前の期末テストも無事に終わり、昼間に返却をしたテストの結果に、彼女の表情はみるみる内に青褪めていた。よりにもよってクラス一位という、最高点を獲得したにも関わらずだ。

「せめて赤点でも取っていれば夏休みも煉獄先生に逢えたのに…!」

教師としては聞き捨てならない発言ではあるが、1人の男としては微笑ましい発言だった。個人的にはわざわざそんな事をしなくとも連絡さえしてくれれば幾らでも逢えるだろうと思ったが、彼女はまだ学生だ。大人の自分よりは遥か狭い世界に生きているのでその考えは直ぐには思い浮かんでこないのだろう。

「うるせぇな。おい煉獄、さっさとそこのバカを黙らせろォ」

「そーだぜー、せーんせっ!哀れな子羊に救いの手を差し伸べてやれ」

冒頭からの流れに痺れを切らしたのか、俺の斜め前の席に腰掛けている不死川と宇髄の2人が冷やかしも込めた発言を投げ掛けてきた。宇髄に至ってはわざわざ自分の席を立ち、俺の肩に腕を乗せたまま「お前バカみたいに真っ直ぐな奴だな!」とミョウジの頭を撫でている。それに少なからずとも良い気はしなかったが、それもそうだなと思い直し、目の前に立っているミョウジの顔を下から覗き込んで小声で此方に呼び寄せた。

「夏休みの間、暇な時にいつでも連絡をしてきて良い」

「…………えっ?」

人差し指を折り曲げて、自分の元に呼び寄せた彼女の耳元に唇を近付けては誰にも聞こえない声量で囁いた。俺の発言に驚いたのか目を丸くさせて反射的に離れようとしたその腕を前から掴み更に距離を詰める。そうして最後に口にした俺の言葉に、ミョウジは腰を抜かして顔を真っ赤に染めていた。彼女がどう捉えたのかは不明だが、少なくとも俺が今発言したそれは紛れもない事実であり、心からの本音であったのは間違いない。

「俺も夏休みの間、ミョウジに逢いたい」



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