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華の蜜を求めて、蝶がヒラヒラと舞う。やがて辿り着いたその先で羽を休めた蝶々をぼんやりと見つめていた。私の視線に気付いたのか、居心地が悪そうに再び蝶は羽を広げ、私の目の前を横切り背後に立っていた1人の女性の元へと飛んで行った。
「そんなに心配をしなくても、煉獄さんは大丈夫ですよ」
「し、しのぶさん…!」
そんな所で何をしているんですか?そうニコニコと微笑みながら、しのぶさんは私に質問を問いかけた。蟲柱、胡蝶しのぶさんの邸宅でもある蝶屋敷に足を運んだのは、あの霧の鬼との戦いから一夜開けた今朝の事だった。
『任務は無事に終えました!だから早く戻って蝶屋敷に居るしのぶさんに傷の状態を診てもらいましょう!』
戦いを終えて、次に訪れた感情は師範である煉獄さんの怪我の状態が心配で仕方がなかった。直ぐにでも蝶屋敷に向かおうと煉獄さんを諭してみたけれど、怪我の張本人である煉獄さん自身は「この程度の怪我、大した事はない」と困ったように笑って私を宥めた。そうは言っても気が気がじゃなかった私は、無理矢理にでも煉獄さんを蝶屋敷へ連れて行こうと目論んだが、その願望はあっさりと拒否をされ、予定より一日遅く此処、蝶屋敷へと2人で訪れたのだった。
「しのぶさん、煉獄さんの怪我って…」
「何ら問題はありませんよ。少し擦り傷程度の出血をしたぐらいです」
「か、擦り傷程度の血が普通あれだけ出ますか…!?」
「えぇ、運が悪ければ出る時は出ますよ」
「そ、そうなんですね…知らなかった…」
虫も殺さないような優しい笑顔で、極論を言ってのけたしのぶさんの発言にどっと肩の力が抜け落ちた。「随分と心配をしているんですね。なら早く煉獄さんの元に行けばいいのに」としのぶさんは私の背中を押してくる。確かにその通りなのだが、煉獄さんに怪我を負わせてしまった原因の自分が、呑気に見舞いに行くなんてそれこそおこがましく勘違いもいい所じゃないだろうか。
「あなたの事を待っていますよ、煉獄さん」
ヒラヒラとしのぶさんの周辺を飛び回っていた蝶々が、まるで自分の拠り所を見つけたかのように彼女の指先にそっと留まった。その姿が良い子にして羽を休めているようにも見えて、何だかそれがより一層微笑ましい空間を演出しているようにも見える。
「柱である以上、下の隊士達を守るのは当然の事です。だからそんなに気に病まずに、素直に煉獄さんのお見舞いに行ってあげたらどうでしょうか」
そう言って、しのぶさんは穏やかに笑った。指先に留まっている蝶々に対しても優しい眼差しを送るしのぶさん。淡々と、けれども何処か優しさを含んだ口調で話すしのぶさんの言葉には、人を和ませる力があると私は思う。
「……はい!」
しのぶさんの意見がストンと腑に落ちた私は、元気な声で返事を返した。次に踵を返し、煉獄さんが休養しているであろう病室へと向かう。そんな私の背後で、笑顔で見送ってくれたしのぶさんが「もどかしい2人ですね。いい加減さっさとくっつけば良いのに」と口にしていたと聞くのは、まだもう少し先の話である。
「煉獄さん!怪我は大丈夫ですか!………って、えっ!?」
足早に辿り着いたその先で、視界に入ってきた光景に私の動きは一時停止となった。原因は、病室内に並んでいるベッドの一つに、大勢の笑い声とやんややんやと囃し立てるエールの声で溢れていたからに過ぎない。その中心核を取り囲むかのように、お見舞いに来ている大勢の隊士達が群がっていて、その群れを何とか押し退けて目的である人物に視線をやった。
「煉獄の兄貴ぃ!このリア充男をやっちまってくだせぇ!」
「おいこの弱味噌!良いから次俺に代われっ!」
わざわざベッドの上に木の板を敷いて、向かい合わせに互いの手を握っている煉獄さんと炭治郎の2人。どうやら腕相撲をしているようだ。対決の真っ只中、2人の行末を見守るかのように大勢の隊士達で溢れているそこには、何故か鼠小僧のような表情で煉獄さんを応援している善逸と、今にも負けそうな炭治郎に間違ったエールを送る伊之助が居た。何がどうなってこんな流れになったのかは不明だが、とりあえず煉獄さんの表情はいつもながら余裕綽々のようだ。対して炭治郎は必死さが此方まで伝わってきそうな苦しそうな顔をしている。私の大好きな2人なので、正直どちらを応援すれば良いのか分からず地味に悩んだ。
「あー!負けたぁあー…!」
「ははは!竈門少年、俺に勝負を挑むのはまだ早すぎたようだな!」
「煉獄の兄貴ぃ!流石っすぅう!」
「退け!次は俺と勝負だおっさん!」
どうやら勝負はついたらしい。勿論というべきか何というべきか、勝利を得たのはやはり煉獄さんだった。心の底から悔しそうに頭を俯かせている炭治郎を横目に、「煉獄さん!」と声を張り上げれば、大勢の視線が一気に私へと向く。
「ミョウジ!来ていたのか!」
「何言ってるんですか!今朝一緒に蝶屋敷に来たのをもうお忘れですか!」
「うむ!そう言われてみればそうだったな!すまない、すっかり忘れていた!」
忘れてたのかよ!そう心の中で激しくツッコむ私。しのぶさん、誰が私を待ってるって…?多分嘘でしたよね?あの情報。
「ナマエ、どうしたんだその顔。全く感情が見えない顔をしているぞ。匂いも暗い!」
「炭治郎ぉおお!ちょっと黙ってぇえ!」
「あれ、ナマエちゃん。どしたの、こんな所で」
「それはこっちの台詞だよ!善逸達こそ何で此処にいるの?」
「ガーハハハハハハっ!俺に恐れを成したようだなおっさん!勝負から目を背けるとは良い度胸だぜ!」
「いや今その勝負本当に必要!?」
次から次へとトンチンカンな発言の嵐で最早ツッコむのも疲れてくる程だ。取り敢えずもう一度炭治郎達に「何で此処にいるの?」と質問をすれば「煉獄さんが怪我をしたって聞いたから今から任務に行く前に一度俺達3人でお見舞いに来たんだ!」と返された。なるほど。それはとても微笑ましい事だが、でも何故そこで熱苦しい腕相撲大会になるんだと冷静に思った。けど、それは口にはしなかった。きっと男同士にしか分からない何かがそこにはあるんだろう。
「霧の鬼と戦ったと聞いた。ナマエ、大丈夫か?」
しのぶさんから情報を得たのか、炭治郎は心配そうに眉を下げて、私の頬にそっと指先で触れた。下から覗き込む形で私の顔を見上げる炭治郎の瞳が「無理はするなよ」と語っている。相変わらず心が綺麗で優しい人だ…だから私はいつも炭治郎に甘えてしまうのだろうか。
「竈門少年、そろそろ任務に向かわなくて良いのか?」
「うぇっ!?あ、本当だ!善逸、伊之助!行こう!」
お邪魔しました!煉獄さん、また戻ってきたらお見舞いに来ます!そう言い残して、炭治郎は深く頭を下げては直ぐに病室を後にして行った。炭治郎の後を追う様に善逸と伊之助も部屋を後にしたが、それから暫くの間遠くから「嫌だ!俺は行きたくない!禰豆子ちゃぁぁああん!」と叫ぶ善逸の悲鳴が廊下に響き渡っていた。
「では、柱!俺達も失礼します!」
「うむ!大した怪我でもないのにわざわざ見舞いに来てくれてありがとな!」
炭治郎達に続く様に、残りの隊士達もその場に深々と頭を下げて病室から去って行った。ようやくいつもの蝶屋敷の穏やかな空間が戻ってきて、1人安堵から来る小さな息を吐く。窓の隙間からそよそよと優しい風が吹き抜け、その心地の良い風に身を寄せていると目の前に一つの影がさして伏せていた目を勢いよく見開いた。
「心配を掛けてしまってすまなかったな。暫くの間はミョウジも無理をせずにゆっくりとここで休養して行くと良い」
「い、いえっ…!特に私は何も負傷をしていないので大丈夫です!私の心配をするより、今はご自分の身体を労ってあげてくださ、」
「嘘を吐くんじゃない。鬼と対峙した時に足を捻っていただろう。俺の目は誤魔化せないぞ」
「煉獄さん…」
足頸の負傷は誰にもバレていないと思っていたのに、いつの間に煉獄さんに気付かれていたのだろうか。あの時尋常じゃない速さで私を助けに来てくれた煉獄さんだからこそ見破れた事なのかもしれない。ふとそんな考えが脳裏に過ぎる。
「てか、煉獄さん…」
「ん?」
「ち、近いです…距離が…!」
「……………」
それはそうと、いや本当に煉獄さんとの距離が近い。さっきの炭治郎より別格に近いのは何故なんだと一気にパニック状態に陥った。焦りまくっている私とは対照的に、煉獄さんは無言のまま此方を凝視していて、穴があったら入りたい!と叫びそうになってしまう。
「何故だと思う」
「………え?」
「何故だと思う。俺が君との距離をこんなにも縮めている訳は」
「すみません。わ、分かりません…」
「………………」
そんな事を問われても正解なんて何一つ導ける気がしない。取り敢えず煉獄さんが素敵すぎて、今にも鼻血が吹き出しそうになっているのだけは分かるけれど。そんな馬鹿な事を考えている間に、煉獄さんとの距離がまた更に縮まった。燃えるような意志の強い煉獄さんの瞳が私を捉えたと同時に、さっき炭治郎に触れられた頬の位置とほぼ同じ箇所に、煉獄さんの大きくて暖かな手の感触が広がった。
「案外妬けるものだな」
「え?」
「自分以外の他の誰かに、ミョウジが触れられるのは」
そう言って、困ったように眉を下げて笑う煉獄さんの表情に胸が高鳴った。誰も居ない、2人だけのこの空間内に煉獄さんの低い声が控えめに響き渡る。頬に添えられた煉獄さんの指の動きが気持ち良くて、思わずそっと瞼を伏せた。真っ暗な視界の中、より一層煉獄さんの気配を感じて耳を澄ませていると、そんな私の期待を含んだ想いが見破られてしまったのか、耳元に煉獄さんの形の良い唇が寄せられて、彼は小さくこう口にした。
「ナマエ」
初めて煉獄さんに名前を呼び捨てにされて、何故かその瞬間泣きそうになってしまった。閉じていた瞼をゆっくりと開き、改めて目の前に居る煉獄さんへと視線を引き上げる。下から見上げる形で煉獄さんの顔を見つめている私の瞳にはジワリと涙が浮かんでいて、瞬きをすれば今にも涙が溢れ落ちそうな程の量だった。
「ナマエ、」
「はい…」
「ナマエ…と、そう今日から俺も呼んでも構わないだろうか?」
頬に触れていた煉獄さんの指がゆっくりと上昇する。そうして私の後頭部へと辿り着いてすぐに優しく前に引き寄せられて、コツン、と互いの額と額がくっついた。煉獄さんからの問いに輪を掛けて嬉しくなり、笑顔で「勿論です」と返事を返した。
「暫くの間、このままで居たい」
そう目を閉じて、穏やかな表情で甘い言葉を口にした煉獄さんの事が心の底から愛おしく思えて、身の程知らずと理解しているくせに思わず抱き締めたい衝動に駆られた。実際に行動には起こさなかったけれど、その分じんわりと浸透していく熱い恋心が膨張して、もうどうしようもない所まで迫ってきているのだと確信する。煉獄さんとの距離が近くなる程に勢いを増す自分の感情と、頭の何処かに残っている僅かな理性に挟まれて、何とも例え難い複雑な想いは、大きな風に乗って、そのまま遠くに飛ばされてしまえばいいのに。そんな事を思った。