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「任務だ、起きろ!」
まだ少し真夜中の時間帯に近い早朝4時。重い瞼を強制的に開くきっかけとなった鞘を打つ声に、私は「はい!」と叫びながら跳ね起きた。反射的にその場に起き上がって直ぐに視界に入ってきたその人は「君は朝が弱いな」と優しく微笑んで頭上から反転した角度で私を見つめていた。
「おはようございます、煉獄さん」
「あぁ、おはよう。ミョウジ、起きて早々申し訳ないが、今言った通り今朝俺の元に鎹鴉がやってきた!どうやらここから5里程離れた町で鬼が出るとの事だ!」
「そうなんですね。はい!分かりました!準備します!」
「うむ!頼む!」
「はい!!」
毎度の事ながら、煉獄さんの声のボリュームにつられて朝一早々ハキハキと返事を返すのは最早日課とも言えた。まだ半分布団の中に埋まっている下半身をようやく奮い立たせて布団を綺麗に畳み、そしていそいそと押し入れの中に納めて隊服に身を包んだ。
「お待たせしました!出発しましょう!」
炎柱である煉獄さんをこれ以上お待たせさせてはいけないと、適当に結った髪を風に揺らしながら煉獄さんの元へと走る。庭で腕組をしたまま穏やかな表情で青空を見上げていたその大きな瞳が真っ直ぐと私に向けられて不謹慎ながらもドキっと胸が高鳴った。
「良い天気だ。絶好の鬼狩り日和だな!」
「はい!」
今から任務に向かうというのに、一体私は何を邪な考えを張り巡らせているのだろうと自分で自分を叱咤した。はぁ、と小さな吐息が漏れる。焦って準備をしたせいか、額は少し汗ばんでいた。
「似合うな」
「え?」
「その髪」
ようやく太陽が全て顔を覗かせてきたその時、丁度逆光の位置に立っていた煉獄さんの背後に後光が被さる。その隙間から見えた煉獄さんの表情は影と重なってあまりよく見えなかったけれど、声の感じからしてきっと穏やかな表情を私に向けているのだろうなと、何となくそんな事を思った。
「あ、ありがとうございます…適当に結っただけですが素直に嬉しいです」
照れからくる反動なのか、モジモジとその場で指を絡ませている私の髪に煉獄さんの大きな指がスルリと滑り込むように触れた。予想外のその動作に思わず俯かせていた顔を上げれば、煉獄さんの大きくて真ん丸な瞳と視線と視線が交差し合う。
「行くぞ!鬼を討伐しに!」
「……はい!」
最後に口角を上げて微笑んだ煉獄さんの表情は、その言葉を皮切りに一気に炎柱の表情へと切り替わった。風をきる速さで目的地へと向かうその大きな背中を追いながら、継子として恥じない戦いをしようと1人胸の奥で誓った。
「霧が充満しているな」
「ですね。一体何処からきてるんでしょうか…」
「恐らくこの町に住む鬼の血鬼術だ」
「!」
炎柱邸から程良い近さにあった目的地付近から、目が霞む程の霧で周囲は充満していた。下手に単独行動をすれば命取りになりかねないと煉獄さんは独り言のように口にする。引き続き周囲に細心の注意を払いながらも辿り着いた町の中心街では、幼い少年少女が互いに抱き合う形で地面に蹲るようにして泣いていた。
「こんにちは。ごめんね、急に。君達はこの町の子?」
極力驚かせないように、ある程度の気配を出しつつも背後から2人に声を掛けた。私の声に反応を示した2人の泣き声がピタリと止まり、頬に沢山の涙を流しながらもゆっくりと私へと顔を引き上げる。……凄く辛そうだ。もしかして、鬼はもうすぐそこまで近付いているのかもしれない。
「お、鬼が…っ、」
「うん」
「俺達の…っ、と、父ちゃんを…っ!」
「……うん」
「た、助けて…!助けておねぇちゃんっ…!」
「ミョウジ!頭を低く下げろ!」
「!?」
少し離れた場所から煉獄さんの指示が頭上に飛び交い、少し緩めていた闘気を瞬時に取り戻しては頭を地面すれすれの位置まで下げた。同時に子供達2人を一気に両脇に抱えてそのまま横に転がり体制を立て直す。霧が、深い。けれどもその奥に潜む黒い影の正体が、私の嫌悪感を更に増長させた。
「おや、惜しいねぇ…あともう少しだったのに。あんた見た目よりずっとスピード感がある鬼狩りだねぇ…」
「!貴様ぁ!」
濃い霧の中からボロボロの草履を引き摺りながら登場したのは、髪も肌も何もかもがボロボロの状態の醜い鬼だった。鬼はボロ布とも呼べる着物の懐から小さな小瓶を取り出し、そうして意気揚々と大量の白い粉を周囲に撒き散らせた。
「!霧が深くなった…!」
「そうさね…私の血鬼術は全ての空間を深い深い霧へと変貌させる。陽が登る時間帯であってもそれは私には通用しない…この霧で全てを覆い尽くし、陽の光さえも閉じ込める特殊な空間を作り出す…」
「…っ!」
「今日は幸運だ。…こんなにも若くて栄養たっぷりの女の食事にありつけれるなんて…」
その発言後、不気味な笑みを浮かべた鬼の指がパチン!と軽快な音をたてた。先程撒き散らした粉の成分が更に分裂されたのか、周囲の霧はより一層深くなる。最早前も後ろも左右何処にも逃げ場はないと言わんばかりのその状態に、唇を強く噛み締めて辛うじて見える鬼へと鋭い視線を向けた。
「ごめんね、2人とも。直ぐに片をつけるから。ここで大人しく待っててね」
「お、おねぇちゃん…っ!」
「危ないよぉ…!」
大丈夫、私は死なない。そう言い残して2人をその場に留まらせては鬼との距離を一気に縮めた。霧で、前がよく見えない。ならその分鬼の気配が何処から来ているのかを読み取れば良い。体制を低くしたまま全速力で前に進むと、黒い一つの影が見えてきた。鞘に納めていた日輪刀を引き抜き、全集中で呼吸の体制に入る。
「炎の呼吸・壱ノ型 不知火!」
まるで映像が早送りされているかのような素早いスピード感で鬼の元に辿り着き、大きく日輪刀を振り翳した。鬼の頸を切るには、相手の隙をついたと同時に切りかからなければ逆に此方が殺られてしまう。これまで得て来た経験値を元に大いに勘を働かせながらも鬼の頸を一気に切り落とした。
「はぁっ…はぁっ…」
だが何故か全く手応えを感じない。ゴトン!と転がり落ちた筈の鬼の頸は再び濃い霧に包まれ、そうして跡形もなく薄暗い霧の中へと消えた。
「おぉ…素晴らしいねぇ…!見事だ、お嬢ちゃん」
「!?」
背後から悍ましい気配と快活な声を出して私に対して大きく拍手を贈る一つの存在。即座に背後の影へと日輪刀を振り翳して地獄に葬ろうとしたその行動は空を彷徨った。次に気付いた時には私の頸元にはドロドロの汚い腕が巻き付き、耳元で「ただの鬼狩りにしておく分にはとても惜しい存在だ」と呟かれた。
「残念だったなぁ…お嬢ちゃんがさっき切ったのは5秒前の私の残像だ。濃い霧の中では全てが無となり、その実体を決して捉える事は出来ない」
「!離せっ!この屑がっ…!」
「さぁさ、どの部位から味わおうかねぇ…」
「!」
何とかこの場をやり過ごそうと右往左往と身体を捩らせてみるものの鬼には全く通用しない。まだ、死ねない。死ぬ訳にはいかない。こんな間抜けな最期を迎えるのはだけは死んでもごめんだ。けれども現実はいつだって重くのし掛かる。頭では諦めてなるものかと必死で自分を奮い立たせてみるものの、かと言ってこの状態をどう打破出来るのかは全くもって不透明すぎて額に冷や汗ならぬ大きな焦りが走る。
「その汚い手を離せ」
「あぁ…?!ギャアァアっ…!」
最早自分の身体に刃を突きつけて、そのまま一気に背後にいる鬼の急所を突こうかと考えていたその時。目にも止まらぬずば抜けた速さで熱く燃える炎に包まれたような感覚がした。そのまま一気に腰に腕を廻されて、鬼との距離が遠ざかる。いちいち腕の温もりの正体を追わなくても、私にはそれが誰なのかが分かっていた。
「れ、煉獄さん…!」
「俺の継子のくせに、師範の指示を待たずに勝手に行動に起こすとは…よもやよもやだ」
どうやらまた一から俺に指導をして欲しいみたいだな!そう大声で愉快な笑い声を上げた煉獄さんは、地上に降り立ったと同時に地面に私をゆっくりと座らせた。
「よくやった!勝手な行動を犯したのは頂けないが、ミョウジが相手の鬼を揺さぶってくれたお陰で俺の存在が薄くなり、鬼の腕を切り落としやすかった」
「れ、煉獄さん…」
「うむ!後は俺に任せろ!」
「!は、はいっ…!」
幼い子供を落ち着かせるかのように、そっと優しく私の頭を撫でてくれた煉獄さん。私と一緒の目線で地面に跪いていた腰を上げ、後ろに振り返った瞬間激しい音を立てて鬼へと猛進していった。柱にしか成し得ない瞬発力と冷静な判断。既に遠くにいるであろう煉獄さんと鬼の凄まじい戦いは濃い霧のせいで詳しい状況は分からなかったけれど、常時見える業火の光が煉獄さんを勝利へと導いているのだと、それだけはハッキリと分かった。
「き、聞いてない…!聞いてないぞ!柱が来るなんて…私はそんな事一つも聞いていない…!」
「聞いていないかどうかなんてお前の事情は知らん!だが、今ここではっきりとこれだけは言っておく」
「!ひ、ヒィイイっ…!」
煉獄さんの鋭い刃の振う音がする。相変わらず霧が深くて前方はよく見えないけれど、通常ならば誰もがパニックに陥るこの状態の中でも、炎柱である煉獄さんにはきっとそんな物は何一つ通用しないんだろう。
「罪なき人々と俺の命よりも大切なミョウジをここまで無下に扱ったお前を俺は死んでも許さない。この炎柱、煉獄杏寿郎の赫き炎刀でお前を地獄へと突き落とす!」
「!ちょっと待て…っ!そ、そうだ!取引をしよう…!今ここで私を見逃してくれたら、…!」
「問答無用!言い訳は地獄で好きなだけ吐け!」
「ヒッ!ヒィイイっ…!」
遠くで鬼の恐怖に塗れた絶叫が聞こえた。ドォォオン!と大きな衝撃波が周囲を覆い、深い霧と共に大量の煙が空高く立ち登る。徐々にそれは経ち消えて行き、鬼が消滅したと同時に解けた血鬼術の霧が一気に晴れたと同時に、額から血を流して立っている煉獄さんの姿が遠くに見えた。
「煉獄さん…!」
直ぐ様そこに立ち上がり、一直線に煉獄さんの元へと駆け寄った。戦いを終えた煉獄さんの息が少し上がっている。額から流れている血は見た目よりも深くはない傷だったのか、煉獄さんは既に自らの呼吸で止血をしているようだった。
「すみません…!私のせいで鬼の討伐が二度手間になってしまって…!身体は大丈夫ですか!?傷は…!?額以外にも他にも何処かあ、…!」
身振り手振りで煉獄さんの負傷具合を確かめていた腕を前方から勢いよく引き寄せられて、次の瞬間大きくて暖かな煉獄さんの腕の温もりが背中に伝った。予想打にしていなかったその衝撃に、思わず目が泳いではゆらりと意識が揺れ動く。
「れ、煉獄さん…?」
「………った」
「え…?」
いつもの煉獄さんからはとても考えられない程の小さな声量で、彼は何かを呟いていた。聞き取れないもどかしさに心をざわつかせていると、背中から後頭部へと移動した煉獄さんの大きな手の力が強まり、私達2人の距離は更に近いものとなった。
「良かった。君が無事で」
戦闘中は冷静な判断で私の行動に師範の立場からの発言をしていたけれど、いざ無事に事を終えた今、目の前に居る煉獄さんは年相応の1人の男の発言を口にしたような気がした。流石柱と呼ぶべきか、力が強い煉獄さんの大きな腕は振り解こうにも振り解けない。ましてや勝手な行動は許さない、とでもいうようにすっぽりと自分の腕の中に納めている私の頸元に煉獄さんは顔を埋めて「君のこの頸筋にあの鬼が触れたかと思うとはらわたが煮え繰り返りそうだ」と囁くように呟いた。相変わらずそれがどういう意味を示した発言なのかは不明だったけれど、少なくとも煉獄さんに恋をしている自分にとっては充分すぎる程の甘い発言だったのは事実で。
「あー!!おねぇちゃんとおにぃちゃん!ラブラブぅうー!」
「きゃー!見ちゃった見ちゃった!ほんとうにおねぇちゃん達お似合いだねぇっ!」
「なっ…!いやこれは違っ…!」
「違うのか?」
「…………えっ!?」
少しだけ腕の力を緩められてようやく煉獄さんと私の間に拳一つ分の距離が出来た。と同時に下から煉獄さんの顔を見上げてみる。最早冷静な判断が出来ない私を少し揶揄うかの様に、眉を下げて屈託なく笑う煉獄さんに見惚れてしまった。大きくて丸い煉獄さんの瞳の奥には、先日と同様頬を真っ赤に染めた私の姿がそこに映っている。それを悟られまいと思わず地面に顔を俯かせた所で、私の顔を下から覗き込むあの幼い子供達2人と目が合った。
「おにいちゃん、おねぇちゃん、僕達を助けてくれて本当にありがとう!」
白い歯を出して、嬉しそうに笑った子供達につられるように私も自然と頬が緩んだ。きっと、煉獄さんも同じ様に穏やかな笑顔を子供達に見せていたと思う。鬼に大切な家族の命を奪われ、一生消える事はない深い傷を負わされた幼い2人の未来は、今後沢山の幸福で満ち溢れていきます様にと、そう願わずにはいられなかった。
「うむ!2人とも元気でな!」
最期に手を繋いで、華やかな町の中へと溶け込んで行った幼い兄弟は、煉獄さんと私の姿が見えなくなるまで何度も何度も振り返っては手を振り続けてくれた。その姿がとても愛らしくて、けれども何処か胸が締め付けられそうな程切なくて。徐々に小さくなっていく2人の背中を見つめながら、私の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。
「煉獄さん…」
「なんだ?」
「私、また一から自分を鍛え直します。……もう二度と、鬼には負けない」
「うむ、良い心がけだ!流石俺の自慢の継子だ!」
遂に完全に姿が見えなくなった子供達の面影を探しながら、1人その場で力強く拳を握り絞めた。前を見据えて、未来だけを見て、鬼の居ない、平和な世界を作る。改めて胸の奥底から固い決意を誓ったと同時に、左手に触れた煉獄さんの指が私の指を絡み取り、暫くの間、肩を並べて2人で真っ直ぐと続く一本道を見つめ続けていた。