『ありがとう、ロー』

屈託なく笑うあの天真爛漫な女に、この俺が二度も引っ掻き回されるなんざそもそも腑に落ちない出来事だった。そうは思いつつもあの日自分が真っ先に向かった場所はナマエが勤める会社で。別に親切心で事を済ませてやるつもりなんざさらさら無かった。ただの気紛れ、そうとしか例えようがない。

『ローは、いつも私が困っている時に助けてくれるのね』

………もしかすると、ナマエはあいつと少し似ているのかもしれない。口調や見た目はそれこそ何もかも違うが、何というか醸し出している雰囲気がよく似ている…ような気もする。確信はねぇが、俺の記憶に眠っているあいつの姿はいつもそんな感じだった。

「………久々に見たな、あの女の夢なんざ」

悪夢でも見たのかって程、Tシャツにはべっとりと汗が染み付いていた。その不快感に眉を顰める。速攻でシャツを脱ぎ捨て、洗濯機の中へと放り投げた。下にスウェットだけを履いた状態で荒々しく煙草に火をつける。ふぅ、と吐き出した白い煙を見据えながら、暫くそのまま遠い記憶に想いを馳せた。




「珍しくご機嫌ななめですか?…って、あぁいつもかあなたは」

「……………」

すいません、これもう一つ追加で。そうやって軽快に店の店員へと注文を言づけたペンギンに勘が触り、鋭く睨みつける。

「うるせぇんだよ、お前はいちいち…姑か」

「これは失敬。何やらキャプテンの様子がいつもと違って見えたもんで」

「……あぁ?」

「これも全部この前女を片っ端から切ったせいですかね。そんなに不便になるんなら、毎回もうちょっと時間を置いて品定めすればいいものを」

「馬鹿違ぇ。そんなんじゃねぇよ…」

そこまで口にして、目の前の珈琲を啜る。ソーサーにカップを戻して溜息交じりに息を吐き出せば、その憂鬱な気持ちは更に膨れ上がっていく事となった。

「にしてもあいつ、シャチ遅いですね。もうとっくに待ち合わせ時間は過ぎてるのに」

「全くだな。この俺を待たせるとはいい度胸だ」

「あいつ朝弱いからなぁ……って、あ。来たみたいですよ」

「遅ぇな、やっとか」

「しかも何かゲストまで連れて来たみたいですよ」

「あ?」

そのペンギンの言葉に、再び手にしかけていたカップの持ち手を止める。「ほら、あれ。キャプテン知り合いですか?」と横から聞こえてきた声を無視してペンギンが指し示す方向へと顔を向けた。

「ちょ…!ちょっとシャチ…!は、走るの早すぎ…!心臓持たないから!」

「走るのおっせぇなお前は!…あ、キャプテーン!ペンギンー!お待たせしてすいませんー!」

小走りで此方に近付いて来るその二人のやりとりを遠巻きに眺めながら、俺の眉間の皺はみるみると深く刻み込まれていった。……おい、何でまたお前がここに居やがる。いい加減にしろ。

「遅いぞシャチ。20分遅刻だ」

「いやいや悪ぃ!何か途中で人身事故があったみたいで電車が止まっちゃって!」

「だったらそれなりに連絡ぐらいしろよ。…ったく、お前は。キャプテンも何か言ってやってくださいよ」

「おい、シャチ」

「は、はい!」

俺からの呼び止めに一瞬で肩を竦めたシャチに冷めた視線を向ける。そしてそのまま奴の隣で未だにぜぇぜぇと荒い息を吐き捨てている女にすっと人差し指をかざした。

「なんでこいつまで引き連れて来た。厄介事を持ってくるんじゃねぇよ」

「ちょっと、誰が厄介事よ!?相変わらずあんたって男は失礼な奴ね…!」

そう言って、ぎゃあぎゃあと目の前で吠える女に目を細めつつも視線を送る。その正体は何の因果か俺の隣の部屋に住んでいるナマエだった。……うるせぇ。本当に毎回いちいち反応がデケぇ女だなお前は。ちったぁ黙れ。

「いや、何かたまたま乗ってた電車が同じで会ったんすよ!んで何処に行くのかって聞いたら偶然にも降りる駅も待ち合わせ場所も同じ店って言うじゃないですか!じゃあだったら一緒に行くかーってなって、」

「でもローが居るって知ってたら即Uターンだったから。こっちこそ休日にあんたの顔なんて拝みたくないし御免被るわ」

「黙れバカ女。てめぇ誰のおかげでこの前から安全な生活を取り戻せたと思ってやがる。その小せぇ脳みそには感謝って気持ちはねぇのか。あ?」

引き続き眉を顰めて目の前に立つナマエの顔を腰を屈ませて下から覗き込む。その立ち上がった際に派手に俺の肩と肩がぶつかりあったシャチが「いてっ…!」と唸り声をあげた。だがそれにいちいち反応を返す暇もなく、ナマエがゴニョゴニョと俺に対して何かを呟きやがるので、その小さな小言に向けて俺は全神経をそこに集中させた。

「だ、だから…それはこの前も言ったけど、本当にありがとうって思ってるしそう伝えたじゃん…」

「だったらいちいちキャンキャン喚くんじゃねぇよ鬱陶しい…分かったならもう行け」

「いや行けって言われても私も友達との待ち合わせ場所がここなんだけど…」

「まぁまぁキャプテン、そんなに怒らなくても。彼女の友人が着くまで、…あぁそうだな。どうです?一緒にここで待って貰うのは」

「馬鹿言え。そんな暇あるか」

そう言い残して、再び自分の席へと腰を降ろす。そんな俺をことごとく無視してペンギンは空いてる椅子を後ろに引き、ナマエにここに座るようにとやんわりと誘導した。おい…勝手な真似するんじゃねぇよ。

「で?お二人は一体どういう関係なんです?見た限り、お互い結構な仲に見えますけど」

「一緒に住んでるんだよな!同じ所に!」

「「違う!」」

シャチのその発言に、隣に座るナマエと同時に声が揃う。そして当然の如くイラっときた俺は、テーブルの下からシャチのスネを勢いよく蹴り飛ばした。

「おい…シャチてめぇ、語弊があるような説明してんじゃねぇよ。誰がこんな鈍臭ぇ女となんざ一緒に住むか」

「それはこっちの台詞なんだけど。ちょっとシャチ、説明するんならちゃんとしてよね。誤解を招くような発言は控えて」

「す、すんません…!つーかキャプテン、足いてぇっす…」

知るか、そんな事。そう文句を投げ付けてテーブルに頬杖をつく。その俺の隣でギロリと此方に鋭い視線を向けたナマエにも「てめぇも俺と同じ相槌を打つんじゃねぇよ。うぜぇ」と文句を吐き捨てた。

「要するに、お二人は同じマンションの住人なんですね?よく分かりました、今のシャチの説明で」

「正しくは隣人だけどな!」

「だから…てめぇはさっきから一言余計なんだよ。いい加減にしろよシャチ」

「まぁ別にその説明は合ってるけどね。うん、そうなんですよ。何の悪夢かこの隈の濃い男と隣人なんです私」

「なるほど、納得しました。大変でしょう?キャプテンに毎日振り回されて。この人基本自己中で横暴ですから」

「!分かって下さいますか…!この私の苦労を…!」

「おい…誰がだ。それはこっちの台詞だバカ」

まるで同志を見つけた、とでも言わんばかりに勢いよくペンギンの手を握りしめたナマエの目には薄っすらと涙が滲んでいて、思わずその不可解な展開に舌打ちを漏らした。そんな俺達のやりとりにケラケラと面白可笑しく笑うシャチにもう一度テーブルの下からスネを蹴り飛ばす。何が可笑しい。

「俺はペンギン。あなたのお名前は?」

「ナマエです!…あ、ミョウジナマエです!宜しくお願いします」

「ナマエな。よし覚えた。こちらこそ、今後とも宜しく」

そう言って、苛つきを抑えきれない俺を差し置いて二人は互いに満面の笑みを浮かべつつも固い握手なんぞしている。おい、何の握手だそれは。完全にただの挨拶じゃなくて同盟でも組む勢いだろうが、それ。

「お待たせ致しました。此方ご注文された、ブラック珈琲です」

ある程度ナマエが自己紹介を終えた所で、さっきペンギンが追加オーダーをした珈琲がテーブルに届いた。そのまま優雅にカップへと口付けたペンギンは、クスクスと何かを噛みしめるように嬉しそうに笑う。

「おいペンギン、てめぇ何呑気に笑ってやがる…」

「いえ…何にも。こっちの話です。気にしないでください」

「あぁ?」

「にしてもナマエ、お前の友達おっせぇな!普通に遅刻じゃね?」

「あーいやいや、うん。それは大丈夫。まだ待ち合わせまで結構時間あるから。気にしないで」

「そうかぁ?んなら良いけどよ」

つーか、お前何の用事でこの辺に来たんだよ?そんな疑問をナマエに投げ付けたシャチが不思議そうに横に首を傾げる。

「あぁ、今度友達の結婚式があるんだー。だからその時に着て行く新しい服が欲しくって、今日は友達と一緒に買い物するの」

「あー、なーる。結婚式は大事な出会いの場でもあるからな!」

「そうそう、それそれ!気合い入れてかなきゃ!……って、勿論それもあるけどやっぱ一番のメインは友達の祝福だから、それは2の次かな」

「なんだよお前!面白くねぇ女だな!俺だったら出会いの方を重視するけど!」

「シャチと一緒にしないでくださーい!」

べー!と、舌を出して笑うナマエに頬杖をついたまま溜息をつく。相変わらず呑気な女だ。いちいち苛ついている自分が情けなく思えてくるほど。

「……あ、友達来たみたい。おーい、ナミー!こっちこっちー!」

嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せてナマエが少し遠く離れた場所に立つ女へと手を振る。その一連の流れに興味すらない俺を差し置くように、その女は小走りで此方に近付いて来ては「あ、例の外科医さんじゃない」と、声をあげて微笑んだ。

「あ?誰だてめぇ…」

「やーね、愛想悪い。この前たまたまクラブで会ったじゃない。ナマエの友人のナミです、宜しくー」

そう言って、にっこりと俺の目の前に手を差し伸べて来た女の手にじっと視線を向ける。正直、あの日は色々とゴタゴタしていたせいか全くと言って良い程この女の顔なんざ記憶に無かった。が、さすがにここで知らんぷりを貫くのもどうかと思い、その差し出された手を握り軽く挨拶を交わす。

「んじゃ、ナミも来た事だし私達はこれで」

またね。そう言い残してナマエはその場に腰を上げて去って行った。律儀にペンギンとシャチにも挨拶を交わしたナミという女も少し遠くから「またねー!」と大きく手を振ってはそのナマエの後ろ姿を追って去って行く。

「中々良いキャラしてますね、二人とも」

「どうだかな…」

未だクスクスと声を押し殺して笑うペンギンを横目に軽く相槌をうち、はぁと深い溜息をつく。そのままぼんやりと、まだ少し遠くに居る二人へと視線を向けた。ふいに手にした珈琲はすっかり冷めていて、その冷たさに眉を顰める。とんだ休日の始まりだな、と改めて認識した、そんなある日の昼下がりの事だった。




「オペ、お疲れ様です。トラファルガー先生」

「あぁ…」

あれから約一週間、仕事は山積みで休みなんかろくに取れずにいた。手術室を後にしてマスクを取り、そのまま頭に巻いていた帽子も外して軽く頭を掻く。タンタン、と足音を鳴らしつつも屋上へと続く階段を登り、少しだけ古びたドアノブに手を掛けて外の空気を吸い込んだ。

「………眩しいな」

外はいかにもと言う程晴天だった。上空に浮かぶ雲は空一面に所々にまばらに散らばっていて、これは当分の間は雨なんか降らないだろうと判断をしつつも目を細める。さんさんと降り注ぐ太陽の光は今日もとてつもなく光輝いていて、その眩しさに目が眩んだ。

PiPiPi…

「あ…?」

手術室から出た際に、看護婦に預けていた携帯を受け取って忍ばせていたそれをポケットから取り出す。内容を確認すると、案の定この前一気に切った女共からの連絡だった。その苦し紛れの内容に眉を寄せ即座にTOP画面へと戻す。ちっ…と軽く舌打ちをしつつも、屋上に配置してあるベンチに腰を降ろした。

「会いたい、もう無理、二度と我儘は言わねぇ…か」

嘘つけ。思わずそんな辛辣な言葉が漏れる程その内容はどれもこれも滑稽だった。どうして女という生き物はこうも俺の勘に触る発言しかしないのだろうか。どいつもこいつも反吐が出る。

『そうね、それもそうかも。ごめん何か余計な事言って』

そこまで思考を巡らせて、ふとある女の言葉が脳裏に過った。

『よくよく考えたら女にも色々種類がいるからさ。束縛が酷い女、束縛をしない女、追われたい女、追われたくない女』

『だから今トラファルガーさんの意見を聞いてふと思ったの。一概に女=これだ!とは言えないなーって』

それは、つい先日ナマエと交わしたあのやりとりだった。あぁ…そういやあいつそんな事言ってたな。あの時つくづくこいつは変な女だと感じたのは今でもよく覚えている。今まで俺の周りに群がってきた女共の中に、そんな素っ頓狂な発言をする奴なんか誰一人として居なかった。失礼な奴で、変わった女だとは最初から思ってはいたがまさかあそこまでだったとは。改めてあいつはいまいち掴みようがない女だと再認識し、俺はふいにその記憶の中のナマエに対して久々に声を出して笑った。

「トラファルガー先生、お休みの所申し訳ないのですが急患です!急いで処置室へと移動をお願いします!」

休憩も束の間、バタバタと忙しなく屋上の扉を開けたナースからの呼び出しに「すぐに行く」と返事を返す。重たい腰を上げてベンチから背を離したその隙に見上げた空は、やっぱりと言って良い程晴天で。何故かその時、あのいつも破天荒に動き回り、そしていつもやたら眩しい程の笑顔で笑うナマエの顔を、俺はただぼんやりとその場所で思い浮かべていた。




「飯」

「ない、眠い、以上」

さようなら。そう言っていつぞやのようにドアを閉めようとするその一連の動作に苛つきつつも、ドアの隙間から難なく足を滑らせて動きを止めてやる。そんな俺の行動にこいつも苛ついたのか、「ちっ…やっぱ出るんじゃなかった」と文句を垂れたナマエを無視して当然の如くずかずかと部屋に上がってはリビングのソファーへと腰を降ろした。

「あのさぁ、もう何回も言ってるけど私は別にローの家政婦じゃないからね。違うからね、絶対勘違いなんかしないでよ」

そう言って、結局なんだかんだ俺の言う事を聞くナマエに口角が上がる。相変わらず口は悪いが、そうは言っても腹を空かしている俺を無下には出来ないのだろう。キッチンへと方向転換をしたナマエの後ろ姿に向かって「あぁ」と適当に相槌をうった。

「いや絶対分かってないでしょあんた…はぁーもう、いい加減にし、」

「お前の顔が見たかったんだよ、悪いか」

「………………は?」

それまでぶつぶつと文句を言い放っていたナマエの声が止まる。その想定範囲内の反応に、俺はくすくすと声を挙げて笑った。

「お前の顔が見たかった、ただそんだけだ」

念押しするかのようにもう一度同じ言葉を繰り返した俺は、未だその場所にて目が点になっているナマエの表情に再び笑う。そのままフリーズしたままの状態でその場に立ち尽くしているナマエとの距離を縮め、わざと耳元に口を近づけては「良かったな、この俺に気に入られて」と上から目線で、からかいがいのある言葉を投下してやった。

「……う、嬉しくないわ!そんなのちっとも!!」

ていうか離れて!近い!そんな文句を言い放つその顔は見事に真っ赤だ。何だ、そういう普通の女みたいな反応もたまにはするんだな。そんな事を思いつつもシンクに両手を乗せて、その場に立っているナマエの身体を背後から覆い行く手を阻む。

「さっさと何か作れ…こっちは腹が減って死にそうなんだよ」

わざとナマエの肩に顎を乗せて、指示を出した俺に腰を抜かしたナマエの腕を引く。そのまま流れるように頭を撫でてやればナマエはパチパチと二回瞬きを繰り返して、まさしく驚きから来ているであろう無の状態だった。そして放心状態のままのナマエを置き去りにして、冷蔵庫の中からビールを一缶取り出し、リビングへと踵を返す。

「ロ、ロー!あんた私をからかってそんなに楽しい…!?」

そう言って、ようやく反応を示したナマエが文句と言う名の口を開く。プルプルと身体を震わせて大声で叫ぶナマエに対し、俺は目を細めつつも片眉を吊り上げて微笑んでやる。

「あぁ…死ぬほど面白ぇな」

その発言を機に、ナマエは人差し指を俺にかざして「な、何って性格が悪い奴なの…!?やっぱあんた悪魔!魔王!大魔王よーーー!!」と訳が分からねぇ文句を叫んでいた。そんなあいつを無視してテレビのリモコンを手に取り、電源をつける。缶ビールのプルタブを開けて勢いよく喉を潤せば、ブラウン管側から聞こえてくるその愉快な笑い声に不思議と気が紛れていく感覚がした。どうやら今日感じた、俺のこの薄汚ぇ黒い感情はとりあえずの所は消え去ってくれたらしい。もしかしてそれは、こいつの破天荒さのおかげもあるかもしれねぇな。…なんて、ふとそんな事を思う。

何はともあれ、今日は久々にゆっくりと眠れる事が出来そうだ。

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