「で?結局誰だったんだ、あの眼鏡は」


リビング内で蹲ったまま、頭を抱え込む私の頭上から低い声が降り注ぐ。その声の発信源へとそろりと視線を向けてみると、そこには偉そうに足を組み、ソファーに気だるげに座ったローが此方を舐めるように見ていた。あぁうん…その座り方最高に似合ってますね。完全に王様スタイルで感じ悪いけど。

「さ、さぁー…一体誰でしょう。逆に誰だと思う?」

「知るか。それを今俺が聞いてんだろうが」

「で、ですよねぇー…いやーうん、ちょっと待って。今頑張って思い出すから」

そこまで口にしてうーんと唸り声をあげる。一応それらしく見えるように、ちゃんと米神に指まで添えておいた。暫くそのままの状態で、ない頭を左右に傾げつつも目を閉じて思考を巡らせる。がしかし、自分でも引くぐらいあの眼鏡ボーイが誰なのか全くと言っていい程思い出せずにいた。

「あー駄目だ!全っ然思い出せない!特徴がなさすぎる!」

そのままバタッと勢いよく背後にあるソファーへと身を沈めた。力尽きたようにその場でゴロンゴロンと身体を転がしている私の隣で、「ある意味、あの眼鏡も報われねぇな」とローがぼやく。

「お前の事、社内でずっと見てたって言ってたんだろあいつは。だとしたら同じ会社の奴じゃねぇのか」

「えー?やっぱそうなのかなぁー。んー同じ社内社内…んんん?んー…」

「トイレ借りるぞ」

「あ!!キタこれ!思い出した!!」

「あ…?」

今かよ、とでも言いたげに眉を寄せて私を軽く睨みつけたローは、さっさと誰なのか言えと私に命令を下した。

「多分だけど、あの人うちの会社の警備員さんだと思う」

「あぁ?警備員?」

「うん。いつもは制服着てるからよくイメージが湧かなかったけど、……うん。絶対そうだ。あの人絶対うちの会社の警備員さんだと思う」

「警備員があんなストーカーまがいの事するのかよ。終わってんな、お前の会社」

「うるさいよ。まぁその通りだけど」

ローの的確すぎるツッコミを軽く受け流して、手元に置いていた缶ビールに口をつける。口内に広がったその味はやっぱりいつも通り美味しくてテンションはうなぎ登りで上昇した。つい何十分か前まではあの眼鏡野郎とのやりとりに恐怖を感じて、ガタガタと身体を震わせていたくせに、一体全体そのしおらしさは何処に置いてきたのだろうか。我ながら単純な性格してるなぁと、一人そんな事を思う。

「あ、ところでロー。あんた今日休みだったの?」

トイレから戻って来たローに、そういえばとふと思い出した疑問をぶつける。そのまま再びさっきと同じ定位置に腰を降ろしたローは、「あぁ」と簡潔に私の質問に答えた。飲み足りないのか、ソファーの横に置いてあったコンビニのビニール袋へと手を伸ばした彼は、カシ、と缶のプルタブを開け、そして勢いよくゴクゴクと喉を鳴らした。

「明日は学会の発表日でな。その論文に掛かりっきりだった」

「へぇそうなんだ。大変だね」

「別に。学生時代から同じ事の繰り返しでもう慣れてる」

「あー…そう。うん、あんたって本当に医者なのね」

「あ?」

「いやさ、今日たまたまナミから医療雑誌を見せて貰って。そこにあんたが載ってたから、あー本当に医者だったんだなぁと思って」

「雑誌?……あぁ、あれか」

「ビックリしたよー。だってつい今朝私にご飯を高って来た男がデカデカと掲載されてるんだもん。何の冗談かと思うじゃん」

「うるせぇな。てめぇは本当に毎回一言余計だな」

「そういうあんたもね」

「……………」

そのまま何となく沈黙が続いたが、テレビから流れてくる陽気なバラエティ番組の音声のおかげで何とか空気は平常に保つ事が出来た。まさにテレビ様様である。そんな事を考えつつもその場に腰を上げてキッチンへと向かった。いい加減酒ばっかり接種しているので流石にこのままじゃ明日の仕事にも影響するだろう。そう考え、冷蔵庫の扉を開けてミネラルウオーターを一口、口に含む。

「おい、暇なら何かつまみでも作れ」

「………は?何で私が。ちょっとあんたね、まさかとは思うけど私の事、都合の良い自分の家政婦とでも思ってんじゃないでしょうね?いい加減にしてよもう」

「さっきは誰のおかげで危険を回避出来たと思ってやがる。もっと俺を敬え」

「早急に作らせて頂きます!メニューはいかがいたしましょうかご主人様!」

それを口に出されてしまえばもはや終わりだ。ははぁー!と、コロっと掌を返して態度を急変させた私は、王様の指示通りせかせかとつまみを作る事へと専念する事にした。そのあからさまな私の態度に、ローは少し離れた場所から満足そうに笑っている。ちくしょう…これじゃあ本当に私は奴の家政婦じゃないか。もはやこれは完全なる下僕。だがしかし、今は仕方あるまい。何故ならさっきは本当にローのおかげで助かったからだ。現実って奴はいつだってシビアである。ぐすん。

「ところでナマエ、お前職場はどの辺だ」

「え?」

そんな落胆しまくっている最中、私に向かってローが淡々と此方に質問を問い掛ける。

「あと何て名前だ、お前の会社は」

「え?なに急に。気持ち悪…」

「いいからさっさと答えろ。じゃないとまた何かつまみを追加するぞ」

「はい!ここから2駅程挟んだ場所にある、ビッグ・マムと言う会社です!」

「そうか、分かった」

なにが?と言いたい言葉を飲み込んで引き続きせかせかと手を動かす。これ以上つまみのメニューを追加されるのだけはごめんだった。よって、ぐっと口を噤んで大人しく黙っておく事とした。そんな中、ローはソファーの肘置きに頬杖をついたまま何かを考え込んでいる様子だった。おうおう、どっから見ても本当に美しいお顔ですね。とか、そんな事を考えていた私の前にふっと一つの影が重なる。そしてその影の正体は、気怠げに首に手を添えたまま、開口一番偉そうにこっちに向かってこんな命令を下した。

「喜べ。追加オーダーだ。酢の物も追加しろ」 

勿論、当然の如くイラっと来た私はブンブンと左右に首を振りつつも全力で抵抗を示した。が、やはりまんまと王様に言いくるめられ、結局渋々ながら彼のご要望通りその追加オーダーに徹する羽目となってしまった。おい隈野郎、あんなに真剣な顔で考えてた内容はそれかよ!と、心の中で何度も文句を重ねたのは言うまでもない。





「お疲れ様でしたー」

次の日、定時退社日という事もあり、ルンルン気分で部署を後にした私はそそくさと帰る準備に徹した。その隣で「あんた今日暇?またこの前みたいに最近新しく出来たクラブにでも行かない?」と、ナミが上機嫌で私に誘いを投げ掛けて来る。その嬉しそうな声を背景に、バタンと勢いよく更衣室の扉を閉めた私はやんわりとその誘いを断った。

「なんでよ?今日何か予定でもあるわけ?」

「ない。ないけど今日は疲れてるから久々に家でゆっくりでもしようかと思ってさ」

「つまんないわねぇ。良いじゃない、気晴らしにパーッと飲みにでも行って酒をグビグビ煽りながら音楽に身体を揺らそうじゃないのよ!」

「いやいや、それ毎週してるじゃん。今日は勘弁。また週末付き合うからさ」

「えー?もう何よケチね。良いわよ、じゃあビビでも誘うから」

そう言って、不服そうに眉間に皺を寄せたナミは、鞄の中から自分のスマホを取り出し、勢いよく画面を横にスライドさせた。

「あ、それで思い出した。ナミ、ビビ遂に結婚するってさ。昨日連絡来た」

「え!まじ!?何で私には連絡してこないのよあの子」

「その内来るんじゃない?ルフィ達も式に参加するのかなぁ。……あ、てか私。服どうしよう。新しいのでも買おうかな」

「あ、連絡来てたわ。全然LINE見てなかった」

「おいおい、それぐらい確認しときなさいよあんた…」

隣でスマホと睨めっこをしてるナミに呆れ気味に返事を返しつつも、そのままポーチの中に収納してあるグロスへと手を伸ばす。唇を薄く横に開きつつも塗り終えたそれは、キラキラと厭らしくない程度に潤いを放っていて今日も良い感じに私を演出させてくれた。

「さ、じゃあ帰るわ私」

「あ、ちょっと待ちなさいよ!私も途中まで一緒に帰るから」

カツカツとヒールを鳴らして二人仲良く肩を並べて歩く。エレベーターの行き先ボタンを2回連打してゆっくりと下降していく夜景を見つめながら、壁に寄り掛かったままファンデーションの鏡を覗き込んだナミが再び私に話掛ける。

「それにしてもビビも遂に結婚かー。もう下手に夜遊びの誘いは出来なくなるわね」

「そうねー。だからナミも今日は大人しく家に帰ったら?」

「えー、でも何か今日は飲みたい気分なのよ私」

「じゃあサンジでも呼び出せば?あいついっつも誰かさんのせいで仕事が忙しそうだけど、今日はさすがに定時退社日だから大丈夫なんじゃない?」

「それもそうね。んじゃまぁ仕方ないからサンジ君でも誘う事にするわ」

「仕方ないってあんたねぇ…」

パチン、とファンデーションの蓋を閉め終えたナミが口の端を上げてにんまりと笑う。その顔はまるで悪い事でも思い浮かんだような顔で思わずサンジに対して同情を含めた苦笑いを漏らした。その直後、チン、と鳴った到着音が狭い空間内に響き渡り、またもや二人して仲良く肩を並べては一直線にビルの玄関口へと歩を進めた。

「ねぇ、ビビの結婚式に金持ちの男達とか来るかしらね?」

「さぁねー。居たら良いですね女王様」

なによその冷めた感じはー!と、その場に足を止めて私に不満を投げつけたナミを置き去りにしたままスタスタと前を歩く。と、そこで何かと肩と肩がぶつかり合い、つい思わず「いたっ!」と呻き声をあげてしまった。そのまま何事かとゆっくりと上体を起こす。

「あ!あのミョウジさんっ…!!ぼ、僕です…!!昨日の…!!」

「え?……あ、あー!!昨日の!!」

「は、はいっ…!き、昨日の奴です!僕です!」

どうも!そう言ってその男はその場に深々と頭を下げた。

「これまたご丁寧にどうも…って、やっぱりうちの警備員さんだったんですね。予想が当たってて良かった」

「は、はいっ…!そうなんです!ここの警備員です僕…!」

「なに?誰この人。あんたの知り合い?」

頭の上に大量の?マークを飛ばしたナミが不思議そうに私の顔を下から覗き込む。………ま、まずい。そう言えばまだ一連の流れをナミに説明してなかった。てかそもそもこの眼鏡君が引き起こした事件について、情報を提示してきたのはナミの方からだったのだ。このままここで彼の正体をバラしてしまえば、警戒心が半端なく強いナミは恐らく速攻警察に彼を突き出す事になるだろう。そこまで大事にはしたくない。

「い、いやーまぁ…そうね。うん、彼とはちょっとした知り合いで」

「へぇ?そうなの?…あ、どうもー。こんばんは、ナマエの悪友のナミです。宜しく」

「あ、はい!よ!よよよ宜しくお願いします…!!」

「じゃ、私こっちだから先に行くわ。また明日ねナマエー!お疲れ様ー」

「う、うん。お疲れ様ぁー…」

何とか無事にこの状況を回避出来たようだ。ヒラヒラと片手を此方に振りながらも、その場を後にしたナミの後ろ姿を目で追い、ほっと一人胸を撫で下ろす。

「では、じゃあ私もこれで。お仕事引き続き頑張ってください。お疲れ様です」

「あ!あの…っ!!」

「え?」

ナミに続いて自分も家に帰ろうと踵を返したその時だった。背後から降り注いだその声にピタリと足を止めて振り返ると、そこには息を少し切らしつつも此方を凝視している眼鏡ボーイが立っていて。まるでそのデジャヴのような光景に、一瞬でゾ!と背筋が凍る。

「……な、なんでしょう?」

「あのっ…、僕やっぱりあなたの事が、」

「楽しそうな話題だな。俺も混ぜろよ」

その言葉と引き換えに、誰かに背後から勢いよく腕を引き寄せられる。少し後ろによろめきながらも暖かな何かに支えられた状態で、そのままゆっくりと上に視線を引き上げると、見慣れた不機嫌そうな顔がそこにあった。

「ロ、ロー…」

「おい眼鏡、お前まだ昨日の制裁じゃ物足りねぇみたいだな。もう一度俺にしごかれてぇか?」

「!い、いえっ…!そそそんな滅相もございませ…っ!!」

「お前昨日俺に言ったよな?こいつには2度と近付かねぇと。あれは口だけか?あぁ?」

「いやまさか…っ!!そんなつもりは…!!」

「だったらさっさとこいつから手を引け。これ以上こいつにちょっかい出すつもりなら、お前の勤務先に連絡して職を失くすぞ」

「そ、それだけはご勘弁を…っ!!」

「じゃあさっさと失せろ」

「は、はいぃぃぃいい…っ!!」

そう言って、逃げ腰でビルの階段方向へと走り去って行った男をローが鋭く睨みつける。暫くその状態のままその場にフリーズしていた私の頭上から、「おい」と物凄く不機嫌そうな声が降りかかった。………やっば。

「ナマエ、てめぇはバカか。何自分のストーカーと仲良く談笑なんざしてやがる。警戒心ってもんがねぇのかお前には」

「だ、談笑なんかしてないから!だってどうやって接すれば良いか分かんなかったから…し、仕方ないじゃんあれは」

「仕方なくねぇ。もっと危機感ってもんを持てお前は。ああいうタイプの男程しつけぇ奴が多いんだよ」

「…………ご、ごめん」

「……………」

確かにローの言う通りだった。もはや何も言い訳は出来まい。自分でも冷静に思い返してみれば、何仲良く会話してんだよ!ってレベルだ。……反省。

「………分かればいい。行くぞ」

その場にしょんぼりと俯いて凹んでいる私を見かねたのか、ローは深い溜息を吐きつつも昨晩と同様、優しく私の手を引いて前を歩き出した。そのまま無言でビル外へと出ると、ビュウ、と陽が落ちてきた夕方特有の冷たい風が私の頬を撫でていき、その温度差にそっと瞼を伏せた。

「にしてもあの眼鏡、相当な物好き野郎だな。こんな鈍臭ぇ女に惚れるなんざ」

「ど、鈍臭いは余計でしょ!鈍臭いは…!」

不満を口にしながらも、歩幅の長いローの元へと小走りで距離を詰める。

「でもまぁあれだな。当分は大丈夫だろ。俺のおかげであいつもいい加減懲りただろうし、どっちにしても既に奴の警備会社には手を打ってある」

「!?で、でもさっきロー、あんたまだ連絡はしてないって言って、」

「あんなの嘘に決まってんだろうが。念には念をだ。誰かさんが面倒ばかりこっちに掛けてきやがるから先に先手を打ってやったんだろ。感謝しろ」

「…………す、すいません。何から何までご迷惑をお掛けして」

「分かればいい。おら、さっさと歩け。その短ぇ足を俺のこの長い足の歩幅に合わせて動かせろ」

「はい、大魔王様!仰せの通りに!」

てめぇ、誰が大魔王だ。しばくぞ。と、つらつらと文句を垂れるローの後ろ姿をぼんやりと見つめる。その大きな背中は何よりも誰よりも頼もしく思えて、密かにホっと胸を撫で下ろした。一度ならず二度までもローに助けられた事実に自分でも驚きだったが、ふと昨晩のローとのやり取りを一人、その場で思い返していた。


『ところでナマエ、お前職場はどの辺だ』


「ふふふ…」

「…あぁ?てめぇ何呑気に笑ってやがる。危機感を持てと言ったさっきの俺の言葉をもう忘れたか」

「忘れてない忘れてない!ぜーんぜん忘れてない!」

「本当かよ…ったく、気持ち悪ぃな」

「えへへ。ねぇ、ロー」

「あぁ?」

少し前を歩くその背中に、小走りで近付いてガバっと勢いよく後ろから抱き付く。そして一言。

「ありがとう、ロー」

「……………離れろバカ女」

そう言って、ローは抱き付いたままの私の身体をベリっと引き離し、それはそれはさぞかし不機嫌そうに辛辣な台詞を吐いた。でもそれでもめげずに再びお礼を伝え続ける私を見かねて、ローはもはや諦めに近いような顔で、「あぁ…」と、すんなりと言葉を受け入れてくれたようだ。

「ロー、今日は何食べたい?お礼に何か作るよ私!」

ニコニコと上機嫌の私がその場に横に首を傾げた状態のまま、彼の顔を下から覗き込む。ちっと舌打ちをして眉を下げたローは、少しだけ呆れた表情でこうポツリと小声で呟いた。

「肉じゃが…」

まっかせときなさい!めっちゃくちゃ美味しい肉じゃがを作ってあげるから!

そう言って、ドン!と強く自分の胸に拳を付き当てた私に「当然だろ」とローが笑う。その笑顔が何だか可愛くて、そして微笑ましく思えて、気付けば私もつられるようにニヒヒ!と口の端を上げて笑っていた。どうやら目の前にいるこの男は、悪魔でもあり、大魔王様でもあり、時には王様でもあるようだ。それこそ、まるで何処かのおとぎ話のように、ピンチの時には一番に駆けつけてくれる。そんな、正義のヒーローみたいに。

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