『トラファルガー・ロー』


そう言って不敵に笑い、いかにも慣れた動作でこちらにグラスを傾けたまま耳元で囁いた男に、不覚にも一瞬目を奪われてしまった。キリっとした藍色の瞳と綺麗に整えられた髭、そしてスラっとした長い手足。そのどれもこれもが、まるで彼自身を彩るように思えて仕方がないとさえ感じた。あぁ、魅力がある人間とはこういう事を指すのかと、それまでの自分の価値観を覆す程の最大の事件。そう例えても過言ではなかったかもしれない。

捕らわれたが最後。決して逃れる事は出来ない……まるでブラックホールみたいな男だな。あの時、ただ単純にそう思った。




「あー…よく寝た」

休日の昼間は何かと騒がしい。ただでさえ大勢の人でごった返すこの都心部には、毎週毎週飽きる事なく人、人、人のオンパレードだ。だが不幸中の幸いと呼ぶべきか、あいにく私が住むこのタワーマンションには用心深いセキュリティと、無駄に高くそびえ立つこの高層作りのお陰で地上からの会話は滅多に聞こえてこない。昨日は久々にアルコールを摂取しすぎたせいで寝てる間やたら身体の体温が高かった。眠気覚ましにいっちょミネラルウォーターを拝借すっか。そう決意し、素早く布団を捲った、その時だった。


ピンポーン……


「…………はい?誰だこんな朝早くに」

いや、全く朝早くはないな。普通に正午過ぎだ。飲んだ次の日の朝は時間の経過がやたらスピーディなのを忘れてた。そんなツッコミを自分で自分に入れつつも、玄関のモニター越しに「はいはい?どちら様ー?」と問う。返ってきた返事はやたら威勢の良い、キャップ帽を被った男からの「シャチっす!」と言う極めて簡潔な一言だった。

…………シャチ?シャチ……あぁはいはい。あの海の哺乳類の事ね。

……………………で?

「あんた誰っ!?」

寝癖も顔も何一つ手をつけてない状態のままバン!と勢いよく扉を開ける。と同時に「いてっ!」という結構古典的なうめき声がその場に広がった。両手で顔を覆ったまま未だ痛い痛いと主張をする目の前の男に眉根を寄せ、まじまじと上から下まで舐めるように視線を向けてみる。ようやくここで視線が交わった。そして互いに一言。

「「あんた誰」」

何処からか吹いた北風が、ビュウ、と虚しく響き渡った。ような気がした。





「いやー!何かすいませんね!お茶まで頂いちゃって!」

ほんとだよ。喉の奥からそうツッコミたいのを我慢して「いえ、つまらない物ですが」とそっとテーブルに粗茶を提供する自分は何てお人好しなのだろう。何故私はこんな見ず知らずの人間をやすやすと家に招き入れているのか。その理由はおよそ10分前に遡る。

「え、どちら様?」

「いやいや、そっちこそどちら様で?」

「これは失敬。私はこの部屋に住むミョウジナマエと申します」

「あぁ、そうだったんですか。俺はシャチって言います。よく周りからはキラキラネームと言われますが決して怪しい奴ではないのでお見知りおきを……って、え!?この部屋あんたが住んでんの!?キャプテンは!?まさかど、同棲…!?」

「キャプテン?………は、誰それ」

長ーい廊下内に私とシャチさんの沈黙が流れた。キャプテン、とやらはよく知らんがこれアレだ。よくドラマとかで見るアレだよアレ。最近このマンションに越して来た住人が粗品片手に挨拶回りする奴でしょ。

「え、違うけど」

「違うんかい!ってか何故心の声聞こえる!」

「あれー?おっかしーな。キャプテンに聞いたらこの部屋だって言ってたんだけど…」

「絶対嘘だってそれ。騙されてんじゃないの」

「いやそんな筈は……てやべ。隣だった」

「………失礼します」

スマホ片手に、あ!いっけね!とでも言いたげにコツンと自分の頭を小突いた彼を放置して、丁重に別れの挨拶ならぬ別れのお辞儀をし、そっとドアノブに手を掛ける。だが約半分閉め掛けた所で、

「キャプテーン!俺っすー!シャチっす!開けてくださーい!」

などと、中々斬新な手口でドンドン!ピンポピンポピンポーン!と二大騒音をまき散らすシャチさんを横目に何故かそのキャプテンとやらの正体が気になり、怪しげな表情でそっと横目で盗み見を働いてみる事とした。それにしてもこれだけはた迷惑な登場をする人は久々に見たわ。友達としては有りだが男としては絶対ないな。そんな誰得な感想を胸中抱く間に、ようやくキャプテンらしき人物の声が聞こえ、そろりとそちら側に耳を傾けた。

「……シャチ。てめぇどんな登場の仕方だ。張り倒されてぇか」

「いやーすいません。てっきりキャプテン爆睡してんのかと思って気合い入れてインターホン鳴らしてみました!」

「よく分かった、お前が俺に殺されたい事が」

いやギブギブギブ!とかギャーギャー喚いているシャチさんの問題はどうやら解決したらしい。良かったね、無事にキャプテンに会えて。ではこれにてお役御免だと扉を締め掛けた、その時だった。

「あ、そういえばあの子が教えてくれたんすよ!キャプテンの部屋は隣だって」

「………あぁ?」

「え、」

予期しない展開に一瞬頭が真っ白になる。確かに部屋を間違ってるとは指摘したが、別に隣だと助言したのは私ではない、シャチさん自身だ。そんなツッコミを入れてる間に、丁度上手い事扉に隠れていた筈のキャプテンとやらがその頭をこちらに振り向かせ、そしてそのまま私は固まった。…え、マジでか。こんな偶然って有り得んの。

「あ?お前…」

「初めまして!隣に住むミョウジナマエです!以後宜しく!じゃ!」

何故フルネームで自己紹介をしたのかは不明だが、何となく昨日の今日で気まずい。とりあえずシャチさんの前だし昨晩のくだりは無かった事にしたかった。だってアレじゃん。うん、アレだよアレ。だって何か流れ的にあのまま別れる感じだったじゃん。んでそのまま二度と会わないケースっぽいじゃん。同じマンションだと分かっててもさ。

「ちょっと待て」

「ぐえっ…!なっ、なにすんのよ!?」

「おい、何が初めましてだてめぇ。昨日さっさと帰りやがって」

「あれは仕方ないでしょ!?ナミが帰るって言ったんだから!」

「んなもん放っておけば良いだろうが。この俺を無視するとはいい度胸だ」

「えっ!何すか!二人共知り合いだったんすか?」

「「いや、全然」」

「……………」

首根っこを掴まれたままの私と、やたら隈の濃い男二人が揃いも揃って口にしたその返事に、目の前に佇むシャチさんの肩はヒィ!と竦んだ。そ、そうすか…と遠慮がちに相槌をした彼には大変申し訳ないが、あの後本当に大変だったのだ。席を移したVIPルームで、この男と二人で他愛もない話をしていたのだが、それを何処から嗅ぎつけたのか、突如大勢の女子の大群が参入してきて一時大パニックとなった。終いには「誰よこの女!」状態に陥り、何も悪い事はしていないのに敵意を向けられる始末。結果、ナミが帰りたがっていると大嘘をつき、すたこらと逃げ帰るハメとなったのだ。

「えーっと…とりあえずキャプテン、俺を部屋に入れて貰えません?」

「却下」

「なんで!」

「先約だ。暫くその女の家で厄介になってろ」

「……はぁっ!?」

「あ、それ良いっすね。んじゃまぁー失礼しまーす!」




………と言う訳で、これが約10分前の話。そして今優雅にお茶を啜るシャチさんを前に心からげんなりしている負け組の私が残った訳である。…何故こんな事に。

「ねぇシャチさんさぁ…あの男と仲良いんでしょ?疲れないの、一緒に居て」

「シャチで良いよ。んー…まぁ確かにキャプテンは基本自己中だしアレだけど、あー見えて結構優しい所もあるんだぜ」

「へー、例えば?」

「例えばー…あーそうだな。モデルの女紹介してくれる!とか?」

「それって優しいの…」

確実にお裾分けな筈なのに、良い女を紹介してくれる事に彼は心から感謝しているのだろう。次はどんな女を紹介して貰えるかウキウキしているとのこと。いいねぇその性格。真っ白すぎて逆に泣けてくるわ。

「多分今も隣で女と真っ最中だろうしな!ぜってぇ今回もまた美女に決まってるし、いつか俺に回ってくる事を祈って…」

「は、今!?こんな真昼間から!?」

「おわっ!なんだよ急に、大声出すなってビビるじゃねぇか!」

「いやシャチも結構大声だからね」

「……………」

一瞬訪れた気まずい空気は無かった事にして、シャチはそのまま事の次第を口にしてくれた。どうやら昨晩私が去った後に奴は女をお持ち帰りしたようだ。なにが「さっさと帰りやがって」よ。よく言うわ。あんたの方がちゃっかりその後楽しんでるじゃないか。

「やっぱさっきの話理解しかねるわ」

「あん?」

「あの男が実は優しいって話。ないない、それはない」

頭を抱えたままブンブンと左右に手を振り、念のためもう一度それはないと主張してみる。だってどう考えても想像つかないじゃないか、あの男の優しい姿なんて。よくよく思い返してみれば結構始めから印象は悪かったのだ。今更一度や二度、ちょっと優しさを見せられた所でそんな一気にイメージなんて変わる訳な、

「すぐに分かるよ、きっと」

「…………え?」

その穏やかな声に、床に俯かせていた顔を真正面に戻して目の前に座るシャチと目が合う。


『悪かったな巻き込んで』


「ナマエ、キャプテンのこと今後宜しく頼むな」

そう言って、ニカっと太陽みたいに白い歯を出して笑ったシャチの笑顔に思わず目が眩みそうになった。何故なら余りにも眩しかったからだ。きっと彼にとってあの男は尊敬、憧れ等、様々な想いで心中溢れ返っているのだろう。そんな彼に対してちょっと罪悪感が残った。今後は口の聞き方に気を付けよう。ごめんよ、シャチ。

「うん、まぁ…あんまり関わる事とかないと思うけど」

せめてもの償いでそう言葉を濁した私。こんな可愛い友人を放置して、今頃真っ最中であろう隣の部屋の住人に向かってはぁ、と溜息を漏らした。すぐに分かるってほんとか。……ってかその前に、私あの男と関わるつもりなんてないからね。いやまじで。

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