「ナマエこっちこっち!早く!」
「ちょ、ちょっと待ってよ…!私走るの苦手なんだから…!」
ぜぇぜぇと息を切らしつつも、その場に足を止めて膝に手をつく。一体何時ぶりにこんな全力疾走をしたんだろうか。前方で足踏みをして待ってくれている友人には悪いが、私の足は鉛でも入ってるのかという程前に進まない。ので、「先に行って場所取りでもしといて」と彼女に懇願してゆっくりと自分のペースで学校に向かう事とした。
「あー…つら」
思わず出た独り言は完全にババアそのものだ。一体自分は何歳なんだとツッコみつつもゆっくりと歩くのを再開する。腰に手を当てて見上げた空は晴天で、その明るさに目を細めて額に手を添えた。
「………晴れて良かった」
太陽の眩しさに目が眩みそうになりつつも、にっこりと口の端を上げて笑う。あと数十分後に開始するであろう試合を前に、まずまずな天気の良さにホっと一人その場に胸を撫で下ろした。
『友達と一緒でも良いから応援しに来て』
先週、そう最後に言い残して私の頭を優しく撫でた黄瀬君の顔を思い出していた。そしてあの保健室での一件で分かった事…というか、改めて気付かされた事がある。
「………まさか、好きになってしまうとは」
そう、今更。めっちゃくちゃ今更感あるけど、自分は不覚にも黄瀬涼太に恋をしてしまったらしい。あれだけ絶対奴を好きになる事はない、深く関わらないようにしよう!と、強く決意を固めていたくせに、だ。我ながら見事なまでの堕ちっぷりである。いやはや、何と情けない事やら…
「もうー、やっと来た。遅いよあんた、もうちょいで試合始まっちゃうから!はーやーくー」
この数日、何度も繰り返し自分に問いかけてきた疑問を振り払うように、やっとの思いで辿り着いた体育館の2階席で一番前を陣取った友人が大きく手を振っている。おぉ…さすが。間に合ったのか。しかもちゃっかり一番前までキープして…やるな親友。
「はい、これ。あんたの分」
「?なにこれ、うちわ?」
「そ!これで黄瀬君を名一杯応援すんの!」
「やだよ、恥ずかしい…アイドルでもあるまいし」
「何言ってんの!黄瀬君はうちの学校のアイドルだよ!?ほら、周りをよく見てみなさいよ!」
「はぁ…?周り?」
ん!そう顎で周囲に散らばっている観客席へと私を誘導した友人の視線を追う。そこにあったのは皆頬を真っ赤に染めつつも、嬉しそうにうちわを手にした女子学生達で賑わっていた。その光景に、「げっ…」という声が漏れる。なんだこれ…もしかしてうちわ持参は公式なのか…?ジャニーズかよ。
「……てか、このうちわあんたが作ったの?」
「そうよ!昨日徹夜でね!」
「あ、そう…お疲れ様」
もはや何も言うまい。そう密かに心の中で誓いつつも手摺りに手を掛けて頬杖をつく。はぁ、と小さな溜息をついた所でキャー!という悲鳴にも近い黄色い声が体育館中に響き渡り、その声の出所を探した。そして辿り着いた先にあったもの。それは、
「………あ、」
「黄瀬君来た!いやーん、やっぱ今日もカッコいいー!」
そう、やっぱりというべきか何というべきか。その黄色い歓声が飛ばされているお目当ての中心人物は黄瀬君だった。……あぁ、今日も凄い人気だな。こうして改めて客観的に見てみると、やっぱり彼は誰よりも綺麗な顔立ちをしていてスタイルだって抜群で完璧な王子だ。そりゃ別に先生じゃなくても、大抵の女は彼に惚れるだろう。今更ながら納得だ。
「ねぇ、ちょっと!黄瀬君こっち見てない?」
「え?」
うんうん、とか言って一人その場に腕組をしたまま頷いていた私の肘に何かが小突いてくる感覚が。その刺激にはっと現実に戻る。右隣りに目線を向けると、まるでコソ泥のような小声で私に話し掛けている友人の顔がドアップであり、一瞬ぎょっとしてしまったが大人しくその内容に耳を傾けてあげる事とした。
「ほらやっぱり!黄瀬君こっち見てるって!お――い、黄瀬君ー!」
人目も憚らず、嬉しそうにその場で両手を振る友人の声が体育館中に大きく響き渡る。そしてどうやらその声は思った以上に目立ってしまったのか、一斉に黄色い声は静まり、彼女のお目当ての人物が此方に視線を送ってくれているようだった。
「ナマエっちー!来てくれたんスねー!」
嬉しいっスー!そう言って、友人以上の大きな声量で此方に身振り手振り大きな動作を繰り返す黄瀬君に、おい馬鹿やめんかい!と、心の中で激しくツッコんだ。そんな私の願いは届かず、未だブンブンと此方に手を振り続ける彼とは別に、その周りを囲っていた大勢の黄瀬涼太ファン達から鋭い視線をくらう。こ、こわ…!
「ねぇ…、何で呼んだのは私なのに黄瀬君はナマエしか見えてないの?辛いわぁ」
そう言って、その場にしょんぼりと項垂れた友人に「いや、たまたまだと思うよ」と適当に相槌をうった。そしてそこである事柄について気付く。そういえば、この子も黄瀬君の事が好きじゃなかったっけ!?と。………まずいなこれ、完全にライバルって奴じゃん。え、どーすんの私。どーすんの、この少女漫画みたいな展開。てか親友と好きな男が被るとかヤバくない?これ世間一般的に見て、いずれ修羅場になるって奴だよね?…え、まじか。あー、どうしようこれ…
「ねぇ…、あのさぁ。ちょっとあんたに相談…ってか、話しておきたい事があ、」
「あ!始まる!はいナマエ、じゃあこれ持って!」
「え?」
手遅れになる前に、今のうちに自分の正直な気持ちを伝えておこう!と意気込んだその瞬間、ピー!と、試合開始の合図でもあるホイッスルが鳴り響いた。と同時に友人から先程説明を受けたうちわを強制的に持たされる。あぁ、うん…そうだよね。ちょっとさすがに今のタイミングは違ったわ。我ながら空気読めてなかった、反省。
「黄瀬ぇ!走れ!速攻だ!」
試合が始まったと同時に、恐らく上級生であろう眉毛の濃い先輩がコートの端から端へとボールを高く放り投げる。そして次の瞬間、バン!と派手な音を立ててボールを手にした男が「りょーかいっスー!」と軽快に返事を返して、そのまま流れるように高速ドリブルをしつつも目の前に立ち憚る相手のディフェンスをさらりと交わした。
「…………凄っ」
そう、勿論その男はあの黄瀬君だった。その鮮やかなドリブルと流れるようなディフェンスの交わした方に思わず見入っていると、次の瞬間にはガン!!と大きなゴール音が鳴り響いていた。
「きゃー!!ねぇちょっと今のダンクよね!?見た!?見た!?何あのダンクー!黄瀬君格好良すぎイケメンすぎー!!」
「……………」
ダン、ダン、とゴールネットをすり抜け、コートに落ちたボールがその場に転がっている。そしてその直後、今までの自分の人生では一度も聞いた事がないような大きな歓声に包まれた。
「黄瀬君かっこいいー!!」
「黄瀬ぇ!さっすが俺達学校のエース!!おっとこ前ー!」
「黄瀬君ー!こっち向いてー!!」
などなど、様々な賞賛の声が一斉に彼へと向けられている。そんな大歓声の中、私はただ一人その場で放心状態のままそこに立ち尽くしているままだった。
「ちょっとナマエ、あんた何ボケーっとしてんの?今の見てたでしょー?黄瀬君、超絶かっこよくない!?」
「…………え?あ、あぁ…うん。そうだね」
「何よその薄い反応ー!あんたが今日この試合を一緒に観に行こうって私を誘って来たんでしょうがー」
「い、いやぁー…うん。そ、そうなんだけど…」
「あ、分かった」
「え?」
そこまで口にして、友人は手にしているうちわを自分の口元へと引き当てた。そして何とも厭らしい目つきでニヤニヤと私の顔を下から覗き込む。
「ナマエ、あんた今黄瀬君に見惚れてたでしょー!」
「ばっ!ちょ!ち、ちがっ…!!」
「いいのいいの、だってあれは誰でもそうなるもん!あーあ、あんたもまた私の数多くいるライバルの内の一人ねぇ」
「だ!だから別にちが…!」
…………わないな。うん、別に全然間違ってない。というか寧ろその通りじゃないか。なにこの子!まさかのエスパー!?
「あ、あのさぁー…その、私、」
「別に遠慮する必要なんかないからね」
「え…?」
黄瀬君の事。そう言って、友人は手摺りに前のめりに身体を預け、そうして穏やかに笑った。
「好きなんでしょう?彼の事」
「な、なんで…」
「見てれば分かるわよ、そのぐらい。何年あんたと親友やってると思ってんの?見くびって貰っちゃ困るわ」
「……………」
「確かに私は黄瀬君の事は好きだけど、でもそれ以上にあんたの事が大事なんだからね。だから遠慮してわざと私を応援するフリとか譲ろうとか思わなくて良いから」
「……………」
「私は、ナマエが一番大事!自分の好きな人よりも、他の誰よりもあんたの事が!」
ニヒヒ!と、口の端を上げて嬉しそうに笑った親友は、そのまま勢いよく私の肩を組んで「さぁ!試合はまだまだこれからよ!私達も全力で応援しよー!」と、天井に拳を突き上げた。その彼女の優しさと、こんなどうしようもない私の心を見透かした上でのその対応に、心から感謝を述べたと同時に何だか無性に泣きたくなってしまった。
「バッカねぇあんた、なーに泣いてんのよ。ほら、下見てみなよ」
「え…?」
「黄瀬君、あんたの事見てるよ」
ほらほら。そう言って、コート上を指し示した友人のその指の行方を辿ったその先にあったもの。それは、少しだけ涙ぐんだ私を心配そうに此方を見つめる黄瀬君が立っていて。
「ほーら、さっさと手でも振っときなさいよ。彼、多分今あんたの事心配してるよ」
黄瀬君ー!さっきのダンクすっごい格好良かったー!そう叫びつつも、未だその場にて呆然と立ち尽くす私の左腕を持ち上げた友人が、ブンブンと左右交互に揺らす。ゆらゆらと身体を揺さぶられながらももう片方の手で目元を軽く拭った私も、負けじと「試合頑張ってね!応援してる!」と、精一杯の大声で彼にエールを送った。
「二人ともありがとー!あとナマエっちー!泣き顔も結構可愛いっスよー!」
なんて、そんな冗談をほのめかした彼にべー!と舌を出して返事を返す。その対応にクスクスと楽しそうに笑った黄瀬君は、肩を震わせつつもその場に踵を返し、ヒラヒラと此方に手を振りつつもコート内の自分のポジションへと戻って行った。
「あれは反則だよね、格好良すぎ」
「…………うん」
ガヤガヤと賑わうその中で、互いに肩を並べた私達二人がポツリと小さく囁き合う。どうやら自分で思ってた以上に、私は彼に心底惚れているようだ。もはや色んな意味で手遅れって奴なのかもしれない。
「…………好きだなぁ。やっぱり」
何かを確かめるように呟いた言葉は、まるで少女漫画のヒロインそのもののような台詞だった。手摺りに頬杖をついたまま彼の後ろ姿をぼんやりと眺めていると、次の瞬間何故か黄瀬君は大勢のチームメイト達に囲まれて何やらぎゃあぎゃあとからかわれているようだった。中でも酷かったのは、さっきの眉毛の濃い先輩に「しばくぞ!」と叫ばれつつも飛び蹴りを喰らっていたシーンだ。あっちゃー…痛そう、あれ。
「試合、勝ちますように…!」
その場に強く願い込めて両手をぎゅっと握りしめる。そんな私の願いが通じたのか、はたまたそんな私の願いなんか無くとも海常が強すぎたせいなのか、その日の試合はあっという間にカタがついて海常の圧勝で無事に幕を降ろした。
「ねぇ!バスケ部に何か差し入れでも持っていかない?」
試合終了後、大勢の黄瀬君ファンやOB達、その他の人達に囲まれたバスケ部員達の周りはガヤガヤと賑わっていた。その中でも一番目立っていたのは勿論黄瀬君だ。背が人より数倍高いという事もあり、その輝きはいつより一層キラキラと解き放たれている。そんな中、友人に強制的に腕を引かれて1階のコート上へと連れて来られた私に対し、彼女は嬉しそうに冒頭の台詞と提案をしてきた。さ、差し入れ…そうか。そういう手もあったのか。
「あー…でも、何かみんな対応に忙しそうだし、当初の目的の試合が観れたから私は遠慮しとく」
「何バカな事言ってんのよ!そんなんじゃライバル達に先越されちゃうわよ!ていうか私に!さっ、行くわよ」
「えっ!ちょっと…待っ!!」
そう言って、一旦その場から離れ、勢いよく踵を返した友人に腕を掴まれたまま強制的に拉致られる。どうやら自販機でスポーツドリンクでも買って、それをバスケ部へと差し入れする魂胆のようだ。
「あ、でもその前に私トイレ行って来る。実はちょっと前から我慢してたんだよね」
「あぁ、うん。了解、行ってらー」
すぐ戻るからー!そう一言言い残して足早に姿を消した友人に手を振りつつも、その場に一人はぁ、と溜息をつく。そしてそのまま近くに配置してあるベンチへとゆっくりと腰を降ろした。
「…………格好良かったなぁー、黄瀬君」
ボソ、とその場で独り言を呟いて、再び小さく息を吐いた。にしても今日の彼は格好良かった。…いや、あれは格好良すぎた。なんだあのプレイ。なんだあのダンク。いやいやいや、流石にあれは卑怯でしょ。別に彼の事好きじゃなかったとしてもあれは無い。いや、無いっていうか有りすぎて逆に無い。……あれ、私何言ってんの。興奮して頭壊れたか。
「ミョウジさん…?」
「…………え?」
そんな素っ頓狂な考えを脳内でぐるぐると考えていた時だった。少し離れた場所から自分の名前を呼んだその声にはっと現実に戻る。そのままゆっくりと視線を引き上げて、その声の正体へと目を向けると、そこにはあの例の女教師が目を丸くしつつも此方を見つめている様子だった。
「せ、先生…」
「こんな休日にどうしたの?もしかして何か忘れ物?」
「あ、いや…その、」
「早く早く!!バスケ部の黄瀬君に会いに行かなきゃ!!」
「あーん!ちょっと待ってよぉ!」
彼女の質問に何て答えようかと悩んでいたその矢先、恐らく他の学校の女子生徒達がキャキャ!と嬉しそうに私達二人の前を横切って行った。その彼女たちの会話のお陰で面倒な説明は省けたが、でも何か…何となく気まずい。
「そっか…、そういえば今日バスケ部は練習試合の予定だったわね」
「あ…はい、そうなんです。って言ってもさっき丁度試合が終わった所なんですけど…」
「そうなんだ。結果はどうだったの?」
「あー…一応、というか、余裕でうちが圧勝しました」
「そっか、良かったそれは。流石ね、バスケ部」
「はい…」
そう言って、にっこりと微笑んだ先生は「じゃあ、また明日学校でね。気を付けて帰るのよ」と、踵を返してその場を去ろうと私に背を向ける。
「あ、あの…!!」
「え?」
そのまま事を終えればいいのに、何故か口が勝手に彼女を引き留めていた。私のその声に、不思議そうに此方に振り向いた先生と、視線と視線が交わる。
「せ、先生は体育館には行かないんですか…?」
「………どうして?」
引き続き、横に首を傾げて不思議そうに私を見つめる先生から思わず視線を逸らす。そのままギュ、と強く制服のスカートの端を握りしめて、おそるおそる口を開いた。
「バ、バスケ部の応援!……ってか、その差し入れとか、し、したりしないのかなぁーって…」
「あはは、しないわよ。私別にバスケ部の顧問でも何でもない訳だし」
「で、でもほら!黄瀬君とか…!」
「…………え?」
そこまで口にして、しまった!と思った。一体自分は何を言おうとしているのか。ましてや先生から何を聞き出そうとしているのか。もはや自分で自分の行動がよく分からずにいた。
「…………ミョウジさん、あなたもしかして」
「ナマエー!おっまたー!…って、あれ?先生?どうしたんですかこんな所で」
その場に俯いたままの私と、開口一番何かを疑問視した先生との間に何とも絶妙なタイミングで友人がこの場へと戻って来た。よ、良かった…助かった。
「…いえ、何でもないのよ。たまたまミョウジさんが居たから少し声を掛けてみただけなの。じゃあ二人とも、帰り道は気を付けて帰るのよ」
「はぁーい!」
ヒラヒラと満面の笑みで女教師へと手を振る友人を前に、再び踵を返した先生はこの場を後にして去って行った。そんな中、未だその場にて地面に顔を俯かせたままの私に友人が心配そうに顔を覗き込む。
「ナマエ、どした?何かあった?顔色悪いよ」
「……ううん、別に何でもない。行こっか」
「うん…」
そう言って隣に居る友人の手を握り、校内に配置してある自販機の場所へとゆっくりと二人して歩き出す。そのまま何も声を発さない私の様子に気付いたのか、彼女は無言のまま私の後を付いて来てくれた。
「………ねぇ、やっぱ今日はもうこのまま帰ろっか!」
ある程度進んだ所で、私の少し後ろを歩いていた友人がピタリとその場に足を止めた。そして再度念押しするように、「うん、今日はもうこのまま帰ろう!」とにっこりと笑う。
「………うん、ごめん」
「なにが?私は急に今マジバの新作バーガーが食べたくなったから予定を変更しただけよ。ねぇ、今から付き合ってよーお願いー私もうさっきからお腹がペコペコでぇー」
何かを拝むように顔の目の前で両手を叩き、そのまま深々とお辞儀をした彼女の優しさにまたしても泣きそうになってしまった。私に何があったのかを聞かないその優しさと、そしてその空気を誰よりもいち早く読み取ってくれる彼女には毎回脱帽だ。感謝してもしききれない。
「うん…、じゃあー行こっか」
「よし来た!そーこなくっちゃー!」
行こ行こ!そう言って嬉しそうに私の腕を引いて踵を返した彼女にはバレないように、少しだけ地面に顔を俯かせて涙を流した。何故なら、きっと黄瀬君は私じゃなくて、本当は先生に今日の試合を応援してほしかったと思ったから。どれだけ周りから沢山の賞賛やエールを貰った所で、それは多分きっと彼にとっては一番の出来事じゃない。
『あの女、俺以外にちゃんとした本命がいるんスよ』
彼が一番に応援して欲しい人、そして一番に駆けつけて欲しい相手は私じゃない。そんな事は随分前から分かっていた筈なのに、いざ目の前にその事実を突きつけられたその瞬間、どうすればいいのか分からなくなった。
「………苦し、」
そう、思う事はただ一つ。『苦しい』、ただその苦い感情だけだ。恋なんて久々にしたから、その中間にある苦しさや切なさを正直ここ最近ずっと忘れかけていた。そんな私はきっと、誰よりも間抜けで誰よりも一番の大馬鹿者だと思う。そしてそれ以上に、決して実る筈もない恋に溺れていく、こんなどうしようもない自分が情けなくてやるせない。
『でもそれでも良いって言って、無理矢理関係を始めたのは俺の方からなんスけどね』
…きっと、あの子もその子も彼も私も、恋をしている人間はみんな何かしら切なくて、何かしら苦しい想いを抱えてる。でもそれを理解した上で相手に溺れていくんだから、そんな事考えた所で今更引くに引けないよね。
だってそれでも人は、相手に自分の想いを重ねていくんだから。例えそれが、どんなに辛い未来だと先が読めていたとしても。
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