初めに彼女に抱いたイメージは、鈍臭そうな女。ただ、それだけだった。


「黄瀬君、まだ残ってたの」

それは、無事に入学式を終えて数日経ったある日の放課後の事だ。

「あー…はい、今の今まで練習してたんで」

「そっか、お疲れさま。毎日遅くまで練習してて偉いね。私も見習わなきゃ」

そう言って、誰も居ない教室内にこの春から赴任してやって来た女教師が笑う。帰る前に校内を点検でもしていたのだろう。たまたま部活の休憩中に教室に取りに来たスポーツタオルを手にして、汗を拭う自分の前に現れたのがこの女だった。

「そろそろ教室の鍵閉めちゃうけど平気?先生、もう帰っちゃうけど」

「あーはい、平気っス。俺も今からまた体育館に戻ろうとしてた所なんで」

「へぇー、まだ練習するの?ここの学校のバスケ部ってやっぱり厳しいのね。噂通り強豪校なだけあるわ」

「まぁ、そーっスね。こう見えても俺、エースなんで。一応」

「うん、知ってる。この前宮下先生から聞いた。凄い上手なんだってね、バスケ」

「まぁー…はい。俺もそう思ってる…てか、そう思ってたんスけどね」

「うん?」

他愛もない会話をしつつも、目の前に立つ彼女は教室のカーテンを閉めながら俺の方に顔を向ける。そして少しだけ不思議そうに、その場で横に首を傾げた。………あれ、俺は今何を語ろうとしてるんだろうか。

「こー見えて、小さい頃から結構負け知らずな人生を送ってきてたんスよ。俺。中学でもバスケとか他のスポーツにしても出来ない事はなかったし、何一つ不自由な事はなかった…っていうか」

「うん」

「誰かに負ける、とか考えた事なかったし、ましてやこの俺を負かす相手なんて早々いないだろ!…とか本気で思ってたんスけど、」

「うん」

「でも、……いたんスよね。意外に」

「……………」

しかも結構近い所に。そう言って、小さな溜息を吐いた。

「先生、去年から新しく新設された誠凛高校って知ってます?」

「えぇ、知ってるわよ。あそこの学校の制服が結構可愛いから良いなーって思ったりもしてたから」

「そこに居たんスよ、まさかの異端児が。しかも二人」

「…………」

『火神って言う、これまたすげぇ獣みたいな奴と、黒子っちって言う、パスに特化した選手が』そう口にして、手にしているタオルを首に巻き付ける。そのまま軽く、未だじんわりと汗ばんでいる自分の額を拭った。

「しかもその黒子っちってのが、中学時代俺と一緒のスタメンだったメンバーで。んでその二人にまんまとやられちゃったんスよねー…俺」

「………そう、なんだ」

「はい。ワンゴール差だったとはいえ、負けました。その日の試合は完全に」

「…………」

「いやー、あれは今思い出しても悔しいっスね。だって暫く自分が負けたって事実を認める事が出来なかったっスもん。ビビったビビった!」

「…………」

「だから俺今必死なんスよ、そいつらを倒すのに。幾ら時間があっても足りないし、練習するしかない!みたいな?」

ほぼ初めてと言って良い程、ほとんど会話した事なんてなかった教師の前で何を語ってんだ自分は、と心の中でツッコむ。でも何故か自分の口から出てくる言葉はつらつらと本音で喋っていて、あの練習試合以降ずっと心の何処かに閉まっておいた苦い感情が溢れ出てきて仕方がなかった。目の前に佇んでいる女教師は、さぞかし面倒な話題だと思ってる事だろう。さすがにこれ以上話す話題もないので、「じゃあ、俺そろそろ戻りますね。先生、さよーなら」と得意のスマイルを張り付けて教室の扉に手を掛けた。その時だった。

「………同じだね、私と」

「………………は?」

予想外の返しに目が点になる。何の事か全く分からずじまいのまま、踵を返し、女教師に目をやる。するとそこには少し愁いを含んだ顔があって。何故かは分からなかったが、その時の俺は一瞬で得意のポーカーフェイスが崩れて、そしてそのまま彼女の口から出るであろう次の言葉を待った。

「同じ、私も。今の黄瀬君みたいな感じ」

「……………」

「私も教師の仕事、思ってたよりも結構色々あって。やっぱ実際教壇に立って授業してみると何かが違うのよねぇ…こう、何ていうか…追い求めてた理想とは違う、っていうか」

「……………」

「現実はそうそう、夢みたいに上手くはいかないよね。お互い」

口の端を少し緩めて、少しだけ幼い顔でニヒヒ!と笑った彼女に、何故かその時目が釘付けになった。上手くいかない現実に戸惑いを感じつつも、でもそれでもまだ自分が理想とする夢や目標に向かって頑張ろうとしているその姿が、今の自分と少し似てる気がしたから。

「頑張ろうね、お互い。夢に向かって」

よし!なんて言いながら、その場に小さくガッツポーズをした彼女が何だか可笑しくて、思わず目を細めつつも小さく笑ってしまった。そのまま「じゃあ、くれぐれも気を付けて帰るのよ。また明日ね」と、俺に手を振りつつも、足早に教室を後にしたその後ろ姿をぼんやりと眺める。そして自分も負けじと、彼女と同じようにその場で小さくガッツポーズをした。そのおかげか何なのか、その日の残りの練習は、何故か久々に自分でも納得が出来たプレイが出来て、俺はとても気分が良かったのを今でも覚えている。でも別にただそれだけ。ただ軽くあの女と会話を交わしただけの事。あえて言うなら、まぁ同じ目標を掲げた同士だな、なんて少し上目線で思ったぐらいの事だった。



「先生って、彼氏とかいるんスか?」

それから暫く経って、たまたま前回と同じように二人で話す機会が訪れた。その時は丁度テスト前で、いつものように大量の宿題やらテスト対策用のプリントやらと宮公に押し付けられて渋々教室で一人居残り勉強をしていた時の事だ。

「どうしたの、急に。てかそれは今関係ないでしょう。はい、じゃー次の問題解こう」

「あーもー、ちょっと一旦休憩休憩ー!このままじゃ俺の脳みそは溶けてなくなっちゃう!いいんスかそれでも!」

そう大袈裟に主張して、バタリと机に倒れ込む。たまたま前みたいに校内を点検していた彼女が教室にやって来て、気付けばあれよあれよとマンツーマンの勉強会が始まっていた。バスケとは大違いで、勉強が大の苦手な自分にとって彼女の登場はかなりデカくてかなり助かった!…とか一瞬思ったけど、彼女は意外や意外、かなりのスパルタで俺の顔は最初の時と変わらずげっそりとしたままその場に項垂れていた。

「じゃあ、5分だけ休憩ね。どうぞお身体をご自愛くださいな」

「えー…5分だけとかまじ鬼なんスけど…ないわー…」

「文句言わないの、もうだって結構良い時間じゃない。明日もあるし、とりあえず次の問題を解いたら今日はもう帰らないと」

「あーなるほど、彼氏とデートってやつっスか」

「!ち、違うわよ…!」

「へー?ふーん?」

大人をからかわないの!そう言って顔を真っ赤にしてあたふたと焦っている目の前の彼女が可笑しくて、俺の中で微かな悪戯心が湧く。そのまま中途半端に体勢を起こして頬杖をつき、下から彼女の顔を覗き込んだまま質問攻めをする事に決めた。

「なんで?別にいーじゃん、隠さなくても。俺も先生もお互い大人な訳だし、気分転換にでもちょっと教えてよ」

「あ、あなたはまだ高校生でしょ…!」

「高校生だって恋愛に関しては皆大人っスよ。ほら、ましてや俺なんて女に不自由した事とかない訳だし?」

「へ、減らず口ね…」

「どうもー」

「褒めてない」

ぷく、と不服そうに頬を膨らませて腕を組んだ彼女に笑う。そしてただ単純に可愛いなと思った。年上の割には性格が結構幼稚で、なんというかまぁ…からかいがいがある女だな、とも思った訳で。

「どんな男なんスか、彼氏さんは」

手持無沙汰に、握ったままのシャーペンをくるくると廻しつつも彼女に質問をする。

「どんなって…んー…、なんだろ。大人?常に冷静でクールな感じ?みたいな…」

「常に冷静でクールねー…、じゃあーあれか。相手は先生よりも年上っスか」

「うん、一応」

「へー、いいね。楽そう」

何が良いのかよく分からないまま、適当に相槌をうつ。自分から質問してきた癖に、そうやって適当に対応した俺に気付いたのか、「てか実際、そんなに興味ない話題でしょう。これ」と、先生は少し呆れ気味に小さく笑った。

「あ、バレた?うん、そう。本当は結構どーでもいいっス。すんません」

「いいよ、別に。黄瀬君は?今彼女とかいないの?」

「いないっスよ。だって女の子って結構どーでもいい事でもチクチク男を責めてきたりとかするじゃん。俺あーいうの無理なんスよねー…何かいちいち相手するのが面倒、っていうか」

「へぇ、その掛け合いがいいのに。勿体ない。私はそういうの憧れるけどなぁ」

「そりゃ先生が女だからでしょ。男の立場からしてみたら、そういうの結構面倒なんスよ。普通に」

「そっか…、うん。まぁそうだよね」

そう言って、少し寂しそうに笑った彼女の顔を俺は見逃さなかった。てか、何かさっきと雰囲気が違うな…あれ。俺何か余計な事言った?…のか?

「ごめん、何か俺変な事言ったっスかね?」

「………え?あ、いや…、全然特に何も、」

「嘘、絶対言ったっしょこれ。なに?何か悩み事?」

「え、」

「聞くよ全然。暇だし。なーん、て…」

そう、俯かせていた視線を真正面に戻した、その時だった。

「……………っ、」

「……………先生?」

戻した視線の先にあったもの。それは何故か声を押し殺すかのように泣いている彼女の姿がそこにあって。何が何やら意味不明の状態のまま、もう一度「先生?」と聞き直す。

「………ご、ごめんねっ…!な、なんか泣いたりしちゃってっ……、恥ずかし…っ、」

「……………」

「ご、ごめんっ…黄瀬君、…き、今日はここまででいいかな…ちょっと私、用事思い出しちゃって……」

「……………」

「ま、また明日ねっ…!きおっ…気を付けて帰ってね…!…っ、さようなら…!」

ちょっと待って。そう言おうと思ったけど、でも何故か喉に何かが詰まったような感覚がして言葉は出てこなかった。バタバタと足早に教室を後にした彼女のヒール音をぼんやりと聞きながら、その場に一人ただ残される。そして脳裏に浮かぶのは、さっき何かを我慢するように泣いていた彼女の悲しそうな表情だった。

「……………なんだそれ」

そう、口にした言葉は一人きりの教室内に消えていく。残ったのはわだかまりが増えた疑問と、やらかしたな、というただそれだけの感情で。それがまた何とも心地悪くて口をへの字にしては何度も何度も顔を顰めた。




『そんな男さっさと捨てて、俺にすれば』

そんな台詞が出てくるのは、それから僅か数日後。後日改めて彼女から泣いていた理由を問い詰めたら、やっぱりというべきか何というべきか、彼氏とはあんまり上手くいってない様子だった。

「相手は仕事、仕事でほとんど二人で会う時間がない」

「寂しくなって電話やメールをしても、たまにしか連絡がとれない」

「だから喧嘩さえもしたくても出来ない、寂しい」

そう、呟いて彼女は俺の前でわんわんと泣いた。その姿を前にふつふつと湧き上がってくるこの黒い感情。その正体は一体何なのか。そう数日考えて出した結論は結構簡単で。そこから先は早かった。


『黄瀬君、あんたって見た目によらず結構残酷な事するんだね』


前にそう言って、ふと俺に毒を吐いたナマエっちの横顔を思い出す。……あぁ、本当っスね。


『私の前で、ミョウジさんと仲良くしないで…!』


自ら望んで落ちて行った筈なのに、今こうして初めて自分に振り向かれた瞬間、「面倒だな」なんて思い始めてる俺は、誰よりも残酷で、誰よりも救いようがない男だと思うよ。

それこそ、自分でもどうしようもない程に。

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