ねえ聞いて
鬼灯より先に目覚めたヒサナは、目を閉じて夢であることを願い再び瞼を開いたが現状は何も変わらない。
少し固めの寝台と、古ぼけた木の天井。
鬼灯の布団の上で裸体で目覚めた事に加え、この何度も味わった腰の鈍痛と胎内の違和感。
何よりも隣で寝ている鬼も、掛け布団から覗く肩は素肌を晒している。
布団を除けば鬼灯は自分と同じ姿をしていると言うことであり、男女で夫婦ならば露出癖でもないかぎり何をしたかは火を見るよりも明らか。
これで何もない方がおかしいだろう。
またやったのか、また自重しなかったのかと頭を抱えて起き上がった。
「通常運転…」
以前酒の席の事は貴女は全く覚えていないと鬼灯に呆れられたのに、何故営みの記憶は飛んでくれないのか。
「…でも、そうよね。食べないと生きられないんだから」
かなり、求めた記憶がある。
死にかけていたのはどこの誰の事だ。
しかし食べなければ死ぬのだから、死にたくなくてすがった、そう捉えれば弁解できるのではないだろうかとヒサナは口許で両手のひらの先を合わせた。
「死にたくなくてこう…高ぶったって事には…」
「なりませんよ」
仕方がなかった、という一言で片付けようとした所にすぐ隣で軋む寝台の音。
僅かに顔を向ければ、髪をかきながら肘をついて鬼灯が身を起こしていた。
「どうですかヒサナ」
「…どう、とは」
「体の方は」
「大丈夫…そうですけど」
「……」
「なんですか鬼灯様」
質問に答えただけなのに、寝起きの顔を更に歪めて鬼灯はヒサナを睨み付けるように凝視してくる。
少し首をすくめて何かまずかったかと様子を伺っていれば、案の定引っ掛かったようで鬼灯が上半身を起き上がらせた。
「人一倍……人?まあいい。ヒサナは人一倍自身の事を把握できないのですから、よーく考えて物を言うように。『大丈夫そう』では駄目です」
「じゃあ…大丈夫?」
「このっ、馬鹿!聞いていましたか?何故馬鹿は風邪引かないというか知っていますか。馬鹿だから風邪菌に侵されないのではありませんよ馬鹿だから風邪を引いていても気付かないからそう云われているんですよ!」
若干早口で捲し立てられ、完全に起き上がった鬼灯に両手で頬を包み込むどころかガッチリと頭を押さえられて向かい合わされる。
起き上がらされたことでずり落ちた布団を慌てて手繰り寄せて胸元を隠すが、鬼灯の口許から覗く犬歯が目の前でしっかりと噛み合わされており相当お怒りなのは本当に、本当にわかった。
「言えといいました、白澤さんの所から戻ったら直ぐにと!」
「だって…帰ったらって、戻ったら一番にって言ったじゃないですか、言う暇無かったですよ」
「大馬鹿か!だからと言ってどこに身重で事故現場に向かう馬鹿がいるんです!自分の体の事くらい気遣いなさい!」
「あんな事になるなんて思うわけないじゃない!」
さっきから馬鹿馬鹿と、ヒサナも眉間に皺を寄せる。
散々な言われ方をしているが、本当に自分なら何とかできると思ったのだ。
できたのだ本来なら。何しろ火消しが来なければ上手く行っていた。
まさか火を喰らうとは思うわけがないと、そこまで考えてヒサナは僅かに鬼灯から視線をそらした。
闇火と同じ火である自分なら何とかできる。
それはつまり自分と同じ火であるものを納めに来た火消しが行う処置は、ヒサナにも通用するということである。
火消しを呼んだと聞いた時点で、自分への害を想定しなければならなかっただろうか。
それなら、自分の行動は間違っていた事になる。
「それでも、約束は…破ってないもの」
「なんです」
「鬼灯様の事ないがしろにしたんじゃなくて…約束破るつもりは、無かったんだもの」
今度はきちんと約束は守ろう、そう思っていたのは本当の本当。
気まずかろうが不安だろうが、帰ったら一番に報告しよう。
その気持ちは今も変わらない。
ヒサナは反らした視線を瞼で一度伏せ、そして仕切り直したようにゆっくりと開きながら鬼灯へと向き合った。
「鬼灯様、まだ約束破ってないので今やってもいいですか」
「…何をですか」
「……ただいま戻りました」
愛しい貴方の元へ。
出先から、死の縁から。
たった今。
「ご報告があります」
相手がもう知っていることは把握している。
現場に白澤がいたのだから、状況も状況だったので言わないわけにもいかないだろうきっと彼が伝えている。
それでも自分の口から言葉にするのは初めてで、ヒサナは一つ息を飲む。
心臓はばくばくと熱く、体も火照っているようだった。
「子どもが、できました」
このまま口付けて、目の前の鬼神の中に還れる頃だったのならばどんなによかっただろうか。
ヒサナは顔から火が出そうなほど熱くなり、目が泳ぎそうになるがそらすわけにはいかない。
布団が自身の熱で燃えるんじゃないかと思うほどなのだが、それでも鬼灯は手を離さなかった。
「…どうして電話してこなかったのです」
「この目で見届けるために」
「何を」
「…鬼灯様の反応を」
なのに鬼灯は子どもについては触れず、まだ無連絡について聞いてくる。
やはり、この命は望まれないのか。
質問の意図が理解しがたいようで僅かに鬼灯が小首をかしげるので、ヒサナは一つ息をのんだ。
「反応とは?」
「子どもができたと聞いたら、鬼灯様の率直な答えが出るでしょう…それを見たかったんです」
見たかったはずの、目の前の鬼灯の顔がグニャリと歪む。
それはヒサナの目に涙が滲んできた為だったのだが、泣くまいと堪える。
彼のこの反応は、どう捉えたらいい。
眉根を寄せた鬼灯に、不安で胸が押し潰されそうだった。
「…何故泣くんですか」
低い声。
背筋がぞくりとするほどの響きに、ヒサナは訳がわからず顔を歪める。
頭部に添えられている鬼灯の手の力が増した。
「言っておきますけど…いえ、以前ヒサナに言いましたね」
「何を…」
「貴女を手放す気は、毛頭無い」
なんの話かと、瞬きをしたヒサナの目からとうとう涙がこぼれた。
それが寝台に落ちる様を目で追った鬼灯は、ゆっくりと、ゆっくりと再び視線を彼女へと直した。
「貴女がなんと言おうと、手放す気はありません。貴女を、それと…その子も」
「え」
「何故泣くんですか、まあ…大方先ほどの発言でまた一人でネガティブな勘違いをしているのでしょう腹立たしい」
「ネガティブ…」
「これも前科持ちですからねヒサナは。相談もせず勝手に答えを出されて怖がられる身にもなりなさい不愉快です」
こめかみ付近に添えていた手を、ヒサナの頬をやんわりなぞるように滑ったのち首に腕を回す。
少し引いて抱き込んでやれば、ヒサナが腕の中で不思議そうにしていた。
「先程は状況が状況でしたので即答しましたが、貴女に問題がないのであれば迷わず二人の命を救いますよ」
「二人?」
「その腹の子もです。喜ばないと思われてるのが心外です」
律儀にこれだけの事を会って話そうとしていると言うことは、ヒサナが死にかける前に既にその思考に勝手にたどり着いていたと言うことだ。
腹立たしい。
ヒサナ本人が知らぬ間の妊娠なのだから、予期せぬ事態。
己の生い立ちを知っているヒサナが、要らぬ子ではないかと不安になるのも少しはわかるか。
だが自分の気持ちも、少しはわかってくれてもいいのではないかと鬼灯は眉を寄せる。
しかしヒサナは自身の枯渇にも気付かない、元から何かと鈍感か。
無理もない。
鬼火に肉体や五感は、本来必要ないのだから。
「鬼灯様…喜んで下さるんですか?」
「阿呆。喜ぶに決まってるじゃないですか」
「いらなく、ないですか」
「例え貴女から嫌だと言われても願い下げです」
片手を首に回されたまま、鬼灯のもう一方の腕が外される気配。
その動向を探るために視線で追えば、その手がたどり着いたのはヒサナの腹部だった。
「…子ども、出来たんですか」
「うん」
「もちろん私の子ですよね」
「当たり前です、白澤様が嫌がるくらいお墨付きです」
「……ほおー」
ヒサナの言葉に鬼灯が目を細める。
それは笑みを伴うなんて事は微塵もなく、彼の名が彼女の口から出たことに対する不快感を表していた。
その顔を見て微笑んだヒサナは、腹を見つめている鬼灯の顔を覗きこんだ。
「あと鬼灯様、ネガティブ思考にもなりますよ」
「なんです」
「好きな人に嫌われたくないからこそ、嫌われたらどうしようって不安になるのもダメなんですか」
「駄目です」
「え…なんでですか」
「まだヒサナは私の話を理解していませんね」
スッと、切れ長の目がヒサナに向けられる。
鬼灯の黒い瞳に、対面する自分の顔がはっきりと写り込んでいた。
「そんな事は有り得ませんと、再三再四言っているでしょうが。なんとも思っていなければとうに見限ってます。私がここまで振り回されても言ってるんですから安心して腹を括りなさい」
大きな手のひらで腹を擦られて、少しくすぐったい。
まだなんの変化もない薄い腹、本当に居るのかどうかもまだ実感はわかない。
しかし心配の種でしかなかった事が、いまではどうしてよいかわからない程に愛おしい。
20170408
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