事実は小説よりも奇なり

呆けた面を上げれば、いつの間にか涙に濡れ細く開かれた目が合う。
予想だにせぬ出来事に力が抜けた為だろうか、弱々しく手を握り返されていた。
見間違いではない、聞き違えでもない。
目の前のヒサナは、しっかりと自分を見ていた。

「…ヒサナ…?」

愛しい女の名を呼ぶ。
声が掠れて上ずっていたが、それでも聞き取ったヒサナは声を出そうとして上手くいかなかったのか、代わりに瞼を閉じる事で返事をした。

何が起きた。

未だ冷たい手を、再度握りしめて息をのむ。
確かに白澤は言った。
もう無理だと、ヒサナはここには居ないと。
冷たい体、開かない瞳、呼び掛けに応えない声。
生気も何も、もう感じることは無かった。
筈、なのに。
それが、今はどうだ。
まだ冷たいと言っていいほどだが、ほんの僅かな温もり。
目を開け、呼び掛けに応える彼女の胸は静かに呼吸を繰り返す。
彼女は、確かに生きていた。

「ほん、とうに…?」

信じられないものを見るようにヒサナの頬に両手を添え覗き込む。
無理もない。
確かに彼女は死を、いや、鬼灯の手を離れた筈だった。

「ほお…ず、き、さま」

口が動くことを、声を発していることを一つ一つ確かめるようにゆっくりとたどたどしく言葉を紡ぐ。
感覚が戻ってきたのか、再び彼の名を先程より慣れた様子で口にしたヒサナは小さく笑った。

「鬼灯様」
「…っ」

ふにゃりと頬が緩んだような笑顔に、たまらず鬼灯は彼女を抱き起こす。
先程までは微動だにすらならなかった、表情が変化している。
その衝動にされるがままに起こされたが、痛いほどに抱き締められてヒサナは顔をしかめた。

「いた…い」
「本当に、本当にヒサナですか…っ」
「他に、誰が…」
「貴女が居なかったから言ってるんです」

意味がわからないと、ヒサナは首を捻る。
だらりと下げた腕ではまだ抱き返すのは難しそうで、支えられた頭部は再度胸に押し付けられ呼吸がしづらくなった。
息苦しくても胸を押し返すことも叩くこともできず、ヒサナはもごもごと胸元で唸った。

「うむぅ…」
「ヒサナ…ヒサナ…っ」
「ふ…はっ…くるし…」
「ヒサナ…!」
「や、め…ん」

抗議の声に気づいて顔を離されたのかと思えば、頭部に添えられた手の力はそのままにヒサナを押さえつけ口付けられる。
只でさえ苦しいというのに、抵抗もできずにいればぐるぐると視界が回る。
酸欠か、本当に死ぬと、ヒサナは鬼灯の舌に僅かに歯をたてた。

「ひ…はっし…しぬ、しんじゃう…」
「……っ」
「だか、も、苦し…」

ヒサナの言葉に、再び抱き潰さん勢いで鬼灯は彼女を抱き締めた。
確かに今、この腕の中で僅かにもがく彼女の存在が、先程まで何の反応も示さなかった記憶を上書きしていくようで言い知れないほどの安堵感で満たされた。

しんじゃうだと?どの口が物を言う。
本当に、死んでいたくせに。

「おい」

ふと、声がかかる。
ぶっきらぼうに聞こえるが、それでもどこか労る声色。
ヒサナもよく知る声。
鬼灯の体が壁になり姿は見えないが、ヒサナの予測通り戸口には白衣姿のままの白澤が立っていた。

「朧車呼んでやったよ。」

ヒサナを抱き抱えた姿の鬼灯に、まだ立ち直らないかと未だずきずきと痛みを訴える頬に内部から舌を這わす。
神獣の治癒力をもってしても治りが遅いということは、今は彼女を失った悲しみにより自我をそれで塗りつぶしているが大分怨気が募っているということ。
彼女が居なくなった今、地獄一の鬼神の怨気をどうするべきか白澤は頭を痛めていた。

「とりあえず、一度閻魔殿に戻りなよ」

ここで暴れられては何かと不都合だ。
チュンも来やすく、鴉天狗警察も出動しやすい閻魔庁の方が勝手がいいだろう。
そう思いヒサナから離れない鬼灯を促すには朧車が必要か、そう思い早急に車を呼びつけた。

「おい、ほ…」
「そうですね、一度戻りましょうヒサナもその方が休まるでしょう」
「…ヒサナちゃんが安らかに眠るためにも、お前が…え?」
「戻りますよ、ヒサナ」
「…ん」
「え、ヒサナちゃ…はあ?!」

呼び掛けても身動きを取らない様に痺れを切らせ、呼びたくもない彼の名を口にしようとした瞬間、突然彼女を横抱きに鬼灯が立ち上がる。
自分と同じ背丈の背に、彼女を丁重に扱う様にいい加減に現実を受け入れろと白澤は眉根を寄せるが、振り返った鬼灯の腕の中ではヒサナが彼をぼんやりと見つめ頷いているという信じがたい光景を目の当たりにした。
間抜けた声が出ないわけがない。
目を見開き、白澤は鬼灯に駆け寄った。

「ヒサナちゃん?!」
「あ、は…い?」
「えっ、うそ!なんでだってさっき痛ーっ!!」
「耳元で騒ぐな身体に障る消えろ」

ヒサナの身を大事に抱えたまま、鬼灯は足払いを白澤にお見舞いする。
変な音が白澤の足から響いたが、転げ回っているので大したことはないだろうと鬼灯はしぶとい神獣に一瞥を落とした。

「黙れ」
「だっ…え?!ヒサナちゃん」
「?」
「ヒサナちゃんだって、死んで…っぐぇ!!」
「まだ言うかいい加減にしろ殺すぞ」

ヒサナに振動を与えないよう、慎重に重心を図りながら地に座り込んでいた神獣の腹を思いきり蹴りあげた。

余計なことを、口にされる前に。

鬼灯は奴の口から何度その言葉を言い聞かされたか分からない。
白澤も何度も彼女の状態を確認し直したかわからない。
それでも、朧車を白澤が呼びに行く少し前の事、事実を突きつけるより他に真綿にくるむような言葉も思い当たらなかった。





ヒサナは言葉を最後に、二度と瞼を開かなかった。
とりあえず詰め所に無我夢中で戻り、その間も呼び掛けようとも揺さぶり起こそうとしても、何をしても動じなければ心音もない。
いつの間にか駆けつけた白澤が背後で全てを察した様子で立ち尽くしていたのを感じとり、鬼灯は振り返らずに背後の神に声を荒らげた。

どうにかしろと、してくださいと。

白澤は鬼灯の背に今だかつてないほど穏やかに、諭すような声を因縁の相手に向かって発する。

もう既に息絶えた身では、どうすることもできないと。

生きているのならまだ、白澤もここにたどり着くまでの間に出来うる限りの方法を考えてきた。
しかし、本人がこの場から既に離れているのなら、それはどれを試みても叶わない。
一番聞きたくなかった言葉を、信憑性の高い位の獣の口から聞いた途端、鬼灯は衝動のままにヒサナを片手で抱き寄せたまま振り返り白澤を殴り飛ばした。
続けざまに何発か殴られてやるが、痛々しい鬼の姿に応戦も満足にしようという気も起きなかった。
白澤にとっては万物の内の一つである彼女の死よりも、初めて見せる鬼神の姿に動揺を隠せなかったのかもしれない。
人前で泣きそうに顔を歪める奴の姿など、初めて見た。

だがしかし、それが今はどうだ。

同じ鬼の腕の中で、彼女は確かに目を開けていた。

「ヒサナちゃん生きて…」
「ますよ」
「あり得ない…だって確かに」
「…まだ聞き分けませんか」
「今まで聞き分けなかったのはお前だろ、散々人の事殴りやがって…」
「私、死んでたんです…か?」
「覚えてない?でも…本当にヒサナちゃんなんだね」

今の今まで動いていた人間が、他者の発言により自分が死んでいることを自覚して息絶えた昔話をこの獣は知らないのか。
鬼灯に余計なことを考えるなと頭を奴の胸に押し付けられている彼女が、それでも横目でこちらを心配そうに見つめるのは、神眼で探っても確かに彼女の意識で。
何かに体を乗っ取られたとか、そういった類いのあやかしの仕業でもなく、間違う事なくヒサナ本人の気であった。
一度体を離れ、彼岸で消滅を経たものが戻るなんて事は臨死体験よりもあり得ない。
彼岸のこちらに引っ張るものが、此岸よりも少ないどころかほぼ無いのだ。
というよりも、生の気溢れる此岸の方が引く力が強い。
それなのに何故身体に再び彼女は還ったのか、それが知識の神には興味深い現象であった。
人の危機よりも神としての思考が勝るのは前にもあったような気がすると、頭の片隅でいつの事だったかと考えながら白澤は一連の考察に一つ引っ掛かりを覚えた。

「…体?」

そもそも、彼女にとっての体とは。
鬼火ヒサナの体とは、鬼灯の怨念を喰らうことで昇華し変化を可能とした謂わば偽りの姿。
本体は、いくら鬼灯の中に戻れなくなったと言えど、今もその姿で駆けることの出来る鬼火の姿の方である筈だ。
変化体で死を迎えたとしたら、変化の力も保てず火に熔け更には跡形もなく消え去っていたことだろう。
それなのに何故、彼女は死して尚変化を留めたのか。

彼女に今物理的に触れることは、本能的に命の危険だと察しながら代わりに興味深く神眼で探る。
そうして、ある一点に辿り着くと文字通り目が留まった。

「そうか、そうかあはは!そういうことか!!」
「何ですか煩い」

何故気がつかなかったのかと合点がいき、あまりの事実に笑いが漏れた。
鬼灯ににらまれても構わない程安堵に笑いたいような、でも安堵に泣きそうになるような、白澤はなんとも言えない心持ちだった。

「そうか、そうだったんだね」
「だから、何が」
「ヒサナちゃんが消滅しなかった理由だよ」
「…だから、ヒサナは死んでは…」
「違う違う、生きてるとか死んでるとかじゃなくて、死んだのに鬼火としてかき消えなかった理由だよ」

鬼灯も白澤の言葉に不可解な事実にようやく気づいた。
確かに、何故彼女はこのまま姿を留め、胸に抱き続けることができたのか。
続きを急くように鬼灯は白澤を見据える。
白澤は知識の神として、新たな見聞を披露する優越感に浸るかのように得意気に口許を緩めた。

「ヒサナちゃんが消滅しなかったのは、ヒサナちゃんがヒサナちゃんじゃなかったからだ」
「…これが、別人とでも?」
「違うって、正真正銘、ずっとこの子はヒサナちゃん。だけど言っただろ、今は一人の体じゃないじゃないって」
「一人?……っ!まさか」

思い当たる節に、鬼灯は彼女を見下ろす。
正確には白澤も目を留めた、その一点に。

「そ、ヒサナちゃんが消滅しなかったのは、お腹の子のおかげ」

今のヒサナは一人の体ではなく、純粋な鬼火としての身体ではなく腹に鬼という異物を交えた存在が宿っている。
正確には、その為に鬼火に返れなかっただけなのかもしれない。
それでもその子が、必死に母親を繋ぎ止めてくれたのではないかと考えたら素敵じゃない?と、白澤はヒサナに笑いかけた。

「この、子が…」

未だ力の入りかたを忘れた手を、幸い抱き抱えられたときに胸元辺りに乗っかっていた腕をなんとか動かし腹部へと添える。
我が事でありながら自分でも未だ感じ取れない程薄い腹の中。
まだ命と呼んでもいいのか分からないほどの未熟な存在だったが、手のひらが熱を感じたような気がした。

20160421

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