風前の

「大丈夫ですか!!」

目指した火の方から何度も呼び掛ける声が聞こえる。
鬼灯は、何が起きているのか瞬時に理解した。
わかりたくも、なかったのだが。
朝には渋々ヒサナ一人が出歩く事を許し、行ってらっしゃいと言いながらも後ろ髪引かれるのを振りきるように見送らずに別れた。
その時は確かに笑っていた彼女だったが、それが今はどうだ。
何故見慣れた柄の着物から伸びる足が横たわり、火消しの紋を背負った獣に抱えられ呼び掛けられているのだろうか。
地に足がついているのかも分からないほど足の感覚がない。
ヒサナと火消しが鉢合わせているという、想定内での最悪の状況だった。

「ヒサナ!」

鬼灯が駆け寄るのと、火消しが振り返ったのは同時だった。
烏天狗とはまた異なる異形であり、茶色の体毛に覆われたむささびのような動物顔の彼は間違いなく野衾。
どうやら抱えている人物が誰なのかわかっているようで大きな黒い瞳を鬼灯へと向け、口許を戦慄かせていた。

「鬼灯、様っ」
「……!」

鬼灯は言葉を失った。
僅かな鬼火に照らし出される世界で、亡者の傍らに座り込む野衾の腕でまるで飛膜に包まれているかのようなヒサナの姿。
生気は、ほとんど感じられなかった。

「もっ、申し訳ございません鬼灯様!亡者の側に火が迫っていたので早急に対処したのですが、奥様がいらっしゃる事に気付かず…!」
「黙れ」

煩い。
火に同化していたのなら、その中の彼女に気付けるわけがない事はわかっている。
だからそれ以上言い訳せずとも理解しているから静かにしろと、言葉足らずのその一言にそれらを込めて黙らせる。
ふと、その声に反応してヒサナがほんの僅かに身じろいだ気がした。
よく見ればうっすらと目を開けている。
鬼灯は腕を伸ばし、野衾から引ったくるようにヒサナを抱き寄せた。

「ヒサナ」

どこか遠くの一点を見つめたままの瞳は動かない。
息をしているのかと不安になるほど酷くゆっくりと呼吸を繰り返す体は、彼女特有の体温を考慮しなくても常人よりも遥かに冷たく感じた。
火消しである野衾が狼狽えていたのだから、間違いなく生命の源どころか本体である鬼火を喰われたのだろう。
怨念が枯渇しているのとは訳が違う。
鬼灯は彼女を抱き締めて再び声をかけた。

「ヒサナ」
「……」
「起きなさいヒサナ!」
「…ほ」
「っ!」

僅かに視線が此方へ流れる。
唇も、微かに詰まらせたような声を漏らす。

「ヒサナ」
「………」

何度か閉じそうになる瞼を呼び掛ける度に持ち直し続けていると、ヒサナはぼんやりとした世界の中で鬼灯だけをはっきりと認識した。
自分の体に腕を回す彼の体温が熱い。
自分の物ではない熱に、自分が生きていることを認識するが、今まさにその声に耳を貸さずに眠ろうとしていた事実に、あの世界に恐怖した。
あの虚空にぽかりと浮かぶような世界。
ゆらゆらと漂う真っ暗闇の水の底、という表現が相応しい懐かしい場所だが、今ではその世界に引き込まれる感覚に寒気がする。
同じ場所であっても、今の自分はその場所ではない所へ還ろうとしていることはわかりきっていた。
しかしヒサナは、目の前の瞳を揺らす鬼灯を見て思う。

この鬼を残して逝って、大丈夫なのだろうかと。

皆に畏れられ、一目おかれる地獄一の鬼神がなんて不甲斐ない顔をしているのか。
怨念はどうするのか。
内から怨念を食べる自分がいるのだから、探せば外から怨みを喰らう妖怪の一匹存在しそうなものだが。
随分自分に入れ込んでくれていたが、また独りに戻ってもやっていけるだろうか。
そもそも、悪鬼に等成り下がってくれるなと。
手を伸ばして頬に触れようとして、既に腕すら持ち上げられないことを知った。
死にたくはない。
けれど、今自分が不安を喚いたらどうなるか。
彼の状態から見てそうすべきではないと瞬時に判断する頭で、今の自分に何ができるか思案する。

「ほ、ずき…ま」

声を、腹に力を込めてなんとか声帯から音を絞り出し言葉にする。
言いたいことが沢山ある。
しかし、上手く声すら出せないようだ。

「わた…」
「無理に喋らないで下さいもうすぐ白澤さんが来ますから」
「だめ、今、聞いて」

張り付いていた喉が少しずつ慣れて振動を声に直す。
消化吸収を司る器官だからか、燃焼しているのか腹部だけは酷く熱い。
それに反して体は冷たくて、寒くて、今話さなければもう言えないような気がして。
ヒサナはほんの僅かに首を動かして答える。
柔らかく笑って見せる彼女に、鬼灯は嫌そうに眉根を寄せた。

「ねぇ、鬼灯様。私…大好き、でした」

貴方が、貴方の事が。

母にも言えなかったが、今回は神様も今際の際に時間をくれるらしい。
あまり恥ずかしくて口にしたことはないけれど、伝えないと二度と言えなくなる事があるということを一度経験している身。
覚えておいてほしくて伝えたのだが、喜ぶどころか鬼灯は怒ったように眉をつり上げた。

「今言う必要は無いでしょう、黙りなさい」
「鬼火になって、生きることが、出来て、鬼灯様に会えて」
「聞きなさいヒサナ」
「すごく、楽しかった…です」
「…黙れっ」

苛立ったように大声を出され、肩を掴む感覚が痛みに変わる。
そのまま肩に額を押し当てるように抱き締めてきた鬼灯は、怒りと秋霜とで震える唇を開いた。


「後にしなさい」


後の事なんて、どうなるか察しているから抗っているくせに。
ヒサナは小さく息をついて目を細める。
自分で細めたのか、勝手に瞼が緩んだのかは自分ではもうわからなかったが。

「…丁、ありがとう」

誰よりもしっかりしているくせに、妙に子どもじみた面を多く持つこの大男は、やはり昔と変わらない。
あの日見つけた幼子は、幸せになれただろうか。
もう自分が居なくとも、大丈夫だろうか。

「…何ですか嫌ですよ」
「私は、」
「許しませんからね、そんなの…っ」
「私はね、幸せだったよ。もうなんにも、いらな……」

貴方に勝手に望んだ楽しそうな姿に、一番側で触れることが出来て。
だから今度の死には私は怨みなどないと、後悔など無いから悲しまないでとヒサナはほんの僅かに口端を上げて笑う。

どうかこの人が、変わらずに在り続けますように。

耳の中に水でも入ったかのようなぼわりとした聴覚に上手く声も聞き取れないが、歪められた鬼灯の表情を見て、この人も泣きそうな顔をすることなんてあるんだ等と珍しいものを最後に見られたのはよかったのかもしれない。
揺すぶられるが、もう瞼が持ちそうにない。
すぐに視界が閉ざされたかと思えば、すっと暗闇に落ちるような感覚だけが感じられた。

20160312

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