数日前まではあんなに元気だったはずの彼の“成功品”が、今はベッドに横たわって体中に管を繋がれて、ぴくりとも動かない。
そしてそれは既に、“成功品”ではないということは明らかだった。
彼はどうしようもない、気の狂いそうな喪失感と焦燥に、その光景から目を離さずにはいられなかった。今まで彼が味わったことのない感覚だった。これは、なんだろう。自らの手で生み出したものが欠落して終わってしまうことへの劣等感とは違っている。
そう、それは“成功品”ではないのだ。彼女を作ったのは、彼ではないのだ。
若き賢者はそのとき初めて悟った。
命がこんなに、愛しいだなんて。
命がこんなに、悲しいだなんて。
由岐の心臓を、彼が作ったからと言って、由岐の魂はまったく別のところに確実に存在しているのだと、ドクターは初めて非科学を信じた。
証明なら、簡単だ。彼の心がしてくれる。彼の心が、そうだと言っている。それだけだ。
彼は部屋を出て行こうとして立ち上がった拍子に、デスクのうえに山積みになった書類を床にぶちまけた。いつもなら、黙ったまま一緒になって拾ってくれる由岐は、もう動くことができない。ドクターはひとりで床にしゃがみこむと、その書類の束のなかに、見覚えのない黄緑の封筒を見つけた。
ずっと長い間、ここに埋まっていたらしい。
裏返すと、懐かしい字で、「可愛い赤目の坊やへ」と書いてあった。彼の父は、彼を赤目の坊やと呼んだ。ドクターははっとして、急いで封筒を開け、中の手紙を読み始めた。
「……ドクター……」
途中まで読んだところで、小さい声で由岐が彼を呼んだので、彼は落ちた書類もそのままにして彼女のもとにかけよった。そして、ベッドのわきに先日用意した低い椅子に腰掛けた。
「どうしたの? 由岐ちゃん。苦しい? どこか痛い?」
「ううん、平気……ねえ、ドクター」
彼女は倒れてから、自分が死ぬまで両親には何も言わないでほしい、とお願いしてきた。あとになってドクターが責められないように、と、遺書もしっかり用意して託してきた。
理由は、悲しむ両親を見るのは辛いから。そして、最期まで、ここにいたいから。
数日の間にずいぶんとやつれて、笑顔にも力がない。ゆらゆら揺れて今にも消えそうな灯火が、暗闇の中で孤独に震える彼にその美しさを教えた。
「私の心臓のパスワード、教えてよ」
「知ったら、死んじゃうよ?」
「いいよ、もう、死ぬんだもの」
「じゃあ、ホントのホントの最期に教えてあげる」
「本当?」
「うん。約束する」
「じゃあ、ヒントは?」
「ヒント? んーとね、パスワードは、僕の名前なんだよ」
「ドクターの名前かあ。だからずっと教えてくれなかったのね?」
「うん。他に何か欲しいものある? なんでもあげる」
「ううん、もう何もいらない。ドクターが一緒にいるから、私、怖くない」
由岐は幸せそうに笑った。ドクターには彼女が浮かべる感情がほとんど理解できない。しかし、このときばかりは、本当に彼女が幸せかと、もっともな疑問を抱いた。
「……ちゅーしてあげようか」
そう言うと、由岐はきょとんとして目を見開いた。それから、
「ふふ、本当? ……いつもの冗談、じゃない?」
と、笑う。
「してほしかったんじゃないの?」
「ばれてた? それとも、知ってた?」
「さあ? どっちだろうね」
「……嬉しい。私の気持ち、伝わってたのね……ドクター、好き。私、ドクターのことが好き。ねえ、ドクター、今度生まれ変わったら、私をドクターのお嫁さんにしてね。絶対よ、約束」
「いいよ、約束。指切りしよう」
ふたりは互いに手を伸ばして小指を絡ませ、子供同士のわくわくするような秘め事にも似た囁き声で、笑いながら指切りを交わした。
「あっ、それから、もうひとつ、お願いしてもいい?」
「いいよ。今日の由岐ちゃんは、わがままだなあ」
「最期って分かってるんだもの。誕生日よりわがまま言うわ……ドクター、私が死んだあとも、その名前を、誰にも言わないでいてくれたら、嬉しいな」
「うん、約束してあげる。まあ破っても由岐ちゃんにはわかんないけどね」
「ひどいなぁ、ドクター。そんなことしたら、化けて出て、バウムクーヘン食べちゃうよ」
「やだー。でも、由岐ちゃんがいなくなったら、誰もバウムクーヘン買ってきてくれなくなっちゃう……」
「そうだよ、だから、ドクター、お外に出なきゃダメだよ」
そう言った由岐の声が揺れた。ドクターははっとしてその顔を見る。彼女の目から、涙が零れ落ちるのを、初めて見た。
今まで自分は気付かないことが多すぎた。彼は自分がいくじなしだったことで、どれだけ彼女を傷つけていたか、そのときやっと実感したのだ。
「由、岐ちゃ、」
「私、ドクターとお外をお散歩したかった……ドクターと一緒にバウムクーヘン食べに行きたかった……」
まっすぐ天井を見つめたまま、由岐は消え入りそうな声で、切なく呟いた。その声は、まるで世界の終わりで、彼はその響きに耐えかねた。
「ごめんなさい……由岐ちゃん……僕、僕、」
「泣かないで、ドクター。ドクターはなんにも悪くないのよ。これは、最期だから言う、私のわがまま。ドクターにね、見せてあげたかったの。いろんなものを。そう思って生きてたけど、そんなの、驕ってた。所詮、エゴだった。私がドクターと一緒にいろんなものを見たかっただけなの。ドクターのためにとか言って、本当は自分のためだったの。でも、ドクターのことが好きっていうのは、ホントのホントよ。エゴと思えば、叶わない夢でも泣かないつもりだった……でも、ダメね……人間って、とってもわがままで、弱いから……」
由岐の声はどんどん弱く、遠くなる。ドクターは焦りを感じて、しがみつくようにその肩に抱きついて、泣き喚いた。
「由岐ちゃん、やっぱり死んじゃやだよ!! ずっとここにいてよ、僕、反省する、お外に出る、もう由岐ちゃんを困らせないし、なんでも言うこと聞くから!! お願い、一緒にたくさんお散歩します、だから、死なないで、由岐ちゃん、お願い」
「ドクター、おかしい」
由岐は幸せそうに、笑った。
「ドクター、ホントはすごい人なのに。お祈りなんかより、ドクターが治してくれたほうが、治るよ、きっと」
どんなにあがいても、今の技術では、到底無理だと分かっていた。
「……私ももっとドクターと一緒にいたい」
恐らく由岐も分かっている。少し前の彼なら、「無理だよ」と簡単に口にしていたに違いない。しかし今は、どんなに分かりきったことであろうとも、
「僕、もっともっと勉強して、絶対由岐ちゃんのこと治せるようになるよ! だから待ってて、お願い、僕、頑張るから。お外に出て、知らなかったもの、由岐ちゃんが教えようとしてくれたもの全部勉強して、えらくなるから」
と、戯言を並べ立てて懇願せずにはいられなかった。
「うん」
由岐はそれに対して、強く頷いた。
「待ってる。私、ドクターのこと、信じてる」
時計の秒針が、部屋に響き渡った。
ドクターの心臓の鼓動は、高まっていく。しかし、由岐のそれは、どんどん鈍っていった。
「でも……今は……もう、眠いから……また、あした、ね……お休み、ドクター」
由岐は、目に涙を溜めたまま、神にも人にも創造しえなかった天使のような微笑をたたえた。
「由岐ちゃん……?」
目が、閉じてしまった。しかし、まだ息はある。ドクターは焦って立ち上がった。
「由岐ちゃん、僕の名前は、唯音。イオンだよ」
天使に、最期のくちづけをする。

無機質な電子音が部屋に延々と響き、箱の研究室にて天使の死を告げ知らせた。


(2012.06.05)

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