おかしなことに、この世に生まれてから一番幸せだった。
人形の作成にはここ数日ほとんど手をつけていない。今は、敷きっぱなしの布団のうえに、真昼というのにふたりで寝転がって、俺はただぎゅっとサチコの身体を抱きしめている。
5月に入って、サチコと出会った頃には綺麗に咲いていた桜はとうに散り果て、今は爽やかな緑が輝いている。窓から差し込む光も、心なしか明るく、強い。
「木崎くん」
「んー?……」
「木崎くん、最近落ち着いてるね」
小さな声で、サチコがそう囁いた。
「えっ、そう?」
自覚はなかった。しかし、彼女が言うには、最近俺のパニック発作が落ち着いてきているらしい。
「じゃあ、サチコのおかげだね」
「私は何もしてないよ」
「そんなことないさ、サチコと会わなかったら俺はずっとあのままだったんだよ。窓にはダンボールが貼ってあって、一日中布団から出ずに生活してたあの頃のまま。そう考えると恐ろしいよ。変われてよかったと思う」
「そう言ってもらえると嬉しい」
サチコは可憐な花のように微笑む。その唇に、短くキスをした。
「ね、それならもう、木崎くんは普通に生活できるんじゃないかな」
「もう普通に生活してるじゃん」
「普通の高校生はずっと家にいないわ」
もう、ずっとこうしてサチコと一日中触れ合っている日々が、何日も続いている。本当は俺だって気付いている。俺の気持ちを穏やかにさせている一番の薬は、彼女と一緒にいること。片時も離れはしない。離れようものなら、俺はまた、元の状態に戻ってしまうだろう。そんな弱い自分を呪うのと逆行して、
「サチコさえ居れば俺はもう他には何もいらないの」
俺は強情にそこを動こうとはしなかった。このままでは絶対にまた駄目になると、分かっていながら。
「大丈夫よ、私がいなくてももう木崎くんはやっていける」
「そんなはずないよ、サチコ、サチコはどこにも行かないよね? ずっと俺といてくれるよね?」
子供のように懇願してみせれば、サチコは聖母のように微笑んでみせ、それから、こう言った。
「木崎くん、人はいつか死ぬし、物はいつか朽ち果てるの。変わらないものなんてこの世界にひとつもないのよ」
抱きしめた手の中の体温は、変わらず生きているかのように暖かく、彼女は無抵抗にそこに存在していたが、その声は、冷たく、全てにおいてけぼりにされた俺の孤独で広い深淵にだけ響き渡ったようだった。
「なんで……そんなこと、」
「……気分転換にお散歩にでも行かない?」
サチコは俺の腕をすり抜けて立ち上がった。
「待ってよ、」
「早くしてよ、いつまでもゴロゴロしてちゃだめよ。置いてっちゃうよ」
俺はしぶしぶ立ち上がって、着替えた。
外に出ると、思っていた以上の日差しに驚いた。
「いいお天気」
サチコは楽しそうだ。人間の俺より。
「そうだね」
この前買ってあげた淡い水色のワンピースは、彼女によく似合って、初夏の日差しの中でよく映えた。
サチコと手を繋いで歩けば、どんなに嫌だった外出も楽しく思えた。でも今日は、さっきの彼女の言葉が頭の中をぐるぐる回って、なんだか、とてつもなく、嫌な感じがする。
「サチコ、」
「何?」
「……」
「どうしたの木崎くん? 具合でも悪い?」
「さっきの、どういう意味?」
「え?」
「人はいつか死ぬし……」
「どういう意味って、そのままよ?」
「それは知ってるよ! 人はいつか死ぬし、物はいつか朽ち果てるそんなことは俺だって知ってる! でもどうしてあのタイミングで、それをわざわざ言ったのさ……?」
静まり返った昼間の住宅街に、俺の情けない声が響いた。
俺たちはたまに行く近所の公園の方角に自然と足を進めていた。
「木崎くんには、人生を無駄にしてほしくないの」
サチコはゆっくりと一言一言噛み締めるように、そう語りかけた。
「……言いたいこと、言ってよ、全部」
俺はぶっきらぼうに言い返してしまった。
「私のおかげで、私の存在があってこそ、木崎くんが安定に辿りつけたなら、それは私にとっても嬉しいことだし、木崎くんも幸せよね」
それでもサチコは、いつものように優しく淡々と諭す。
「でもこのままじゃ、木崎くんはこの地点に立ちんぼになってしまって、前に進むことはできないわ。きっと今の木崎くんは進むことなんて望んでいないだろうけど、絶対に、時間が経てば、あのとき一歩踏み出していればよかったって後悔することになる」
そう言われればいくら頭をひねっても言い返すことはできなかった。
「ロボットと違って、人間は大変でしょう。私には分からないけれど、きっと理解したりされたりするために苦労しない人なんていないのよ。木崎くんも人を理解すること、自分を理解されることに苦しむだろうし、木崎くんと今後関わる人たちだってそれは同じはず。ロボットは取扱説明書に全てが書いてあるし、その枠からはみ出すことはないから共存するのに何も難しいことはないわ。でも、人間の取扱説明書は目に見えなくて、単純で浅はかな気持ちで接していては絶対に読み取ることはできないの。でも、心の目で見て、その人を知りたい、同じ場所で同じ時代で、同じ人間として肩を並べて生きたいと必死になったらやっと、読めるようになるの。大切なのはその過程よ。そこで愛情も生まれるし、人と人との関係は深みを増すの」
その語り口は、不思議と俺を素直な子供に戻したように、すんなりと受け入れさせた。自分にも取扱説明書があればいいのにと考えていた胸のうちを、見透かされたようだ。その話に聞き入っているうちに、いつのまにか公園に到着していた。夕暮れが近づく公園には、いつものように誰もいなかった。この公園では、子供たちが遊びまわっていることもホームレスがベンチで寝ていることもない。きっとどこか別の公園に人気を取られているのだろう。俺とサチコが話すには、ぴったりの、質素でつまらないふたりきりの庭だ。
俺はブランコを囲む低い柵によりかかった。それに向かい合って、サチコはブランコに座る。
「だからね、言っちゃ悪いけど、今木崎くんが向かい合っているのは、虚構なのよ」
落ち着いて座るやいなや、サチコは急にきっぱりと言ってのけた。俺は思わず目を丸くする。
「私と木崎くんの間には大事な過程はひとつもなかったの。発展したロボット技術の錯覚に惑わされないで。木崎くんは私と出会ってから何日も何日も、一人ぼっちだったのよ。私は作り物の優しさで、借り物の教訓。辛いとは思うけど、木崎くんが次のステップへ踏み出すには、まず、この虚構を否定しなくちゃいけないの」
「サチコ……サチコ、そんなこと言うようにプログラミングされてるのかよ!? 売り物になる予定じゃなかったの? 嘘物だから否定しろだなんて、商品がそんなこと言ったら売れなく……」
「私、商品じゃない」
「……」
わけが分からない。頭が混乱してきた。俺はとても、無理だ。そんなのは。彼女を否定する? そんなことをしたら、俺が可笑しくなってしまう。
それに、サチコが商品でないとしたら、なら彼女はなんのためにこの世に――。
「私は最初から、あるひとつの目的のために作られたの。だから、売り物じゃないの」
自分の心音が耳にまで聞こえてきそうだった。なんだか、泣きそうだ。今にも目の前で、この優しい少女が崩れて消えてしまうような気がした。
「……今、そんなことはどうでもいいわ。木崎くん、だからね、あなたは私と、辛くならないうちにお別れしないといけないのよ」
サチコは立ち上がって、こちらに歩み寄ってきた。俺の心音はいよいよ高まり、あまりの恐怖で、呼吸さえ乱れてくる。
「私をシャットダウンして二度と起動しないようにする呪文があるの」
「呪文……?」
「パスワードよ。それを言って、起動したときみたいにキスしてくれれば、それだけ」
「来るな!……」
俺は気付いたらそう叫んでいた。
叫んでしまったあとに、はっとして、サチコの顔を見た。
なんの感情もなく、ただ、その目は俺を見つめていた。
「ご……ごめん……違うんだ、サチコ、今のはその、言わないでほしいって意味だよ……そんなパスワード、聞きたくないよ」
俺は両手で顔を覆った。心臓は鼓動が早まったままで、口から出てきそうだった。
そんな俺に、サチコは無言のまま近づいてきて、抱きついた。
「言うことは、全部言ったわ。あとはもう、強制なんてしないから。木崎くんに任せる」
サチコの落ち着き払った声に、俺は途方もない空しさを感じる。
「あなたが覚悟を決めるまでは、絶対に傍を離れないからね」
その言葉に、俺は脳天をピストルで撃ちぬかれたようになった。この愛を、虚構だとしても、この愛を、自らの手で否定することなど、出来るはずがない。
それなのに、この愛は俺の幸せを願っている。俺には彼女の為にどこまででも堕ちる覚悟があるというのに、その唯一の愛は、俺の背中を押し、そして自らは、消えていこうとしているのだ。

(2012.06.03)

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