ドクターと離れていた時間に、考えてみて気がついたことがある。
彼は恋を知らないが、父親の愛を知っていた。だから、もしかしたら、愛することはできるのかもしれない。
その発見が唯一、由岐の心に光をさしていた。期待と、不安の中で。
3日間、両親のいる自宅に帰っていた。
急に家に帰ると、家にいた母親はびっくりして、何かあったのかとしきりに問いただしてきたが、由岐は何もないと答えた。ただ帰りたくなったから帰ってきただけ、と。
両親はドクターから何か聞いているわけではなさそうだったので、どうやら長くないようだなどと自分から切り出すのは気が引けて、彼女はなんでもない退屈で平凡な日常としてその3日間を過ごした。
3日経って、ドクターのいない生活が寂しくなって、いてもたってもいられなくなって研究所に戻った。
我ながら重症だと思う。それほどまでに、彼を必要としていたのかと思うと、切ないような、嬉しいような。心臓も心も彼に掴まれている。どうしたって、嫌いになれっこない。それは不思議と安心感を彼女に与えた。彼が自分を拒絶しようと、嫌われようと、自分は必ずしも、その包容の中で逝けるのだ。技術の発達と彼とが、それを包容と呼ぶかどうかは、別として。
インターフォンを押すと、返事もなくガチャッと鍵が開いた。由岐は夢見心地で中へ入っていった。開けてくれた、言葉はなくとも、自分は許されている、と分かって。
ドアを開けるといつもの部屋にドクターはいて、だらしなく椅子に片膝を立ててパソコンに向かっていた。
「……ドクター、帰ってきちゃった」
「おかえり」
そっけない声でそう言って、ドクターは目を見てくれなかった。
「ただいま。帰ってきて、よかった?」
「別にいいよ」
「そう、なら、ここにいていい?」
「うん」
彼の機嫌はともかく、由岐はベッドのうえに腰かけた。ドクターは黙ったまま仕事を続けている。
話しかける用もなくて、由岐も黙ってその背中を見つめていた。それだけでなんとも言えない安心感で、つくづく自分は変な人間だと思った。好きな人に愛想をつかされてそっけない態度をとられているのに、心地よさのなかにいるなど。
「由岐ちゃん……」
急に名前を呼ばれた。
「由岐ちゃん、ごめんなさい」
このときばかりはさすがの由岐も度肝を抜かれて、ベッドから飛び上がった。寂しそうな小さい背中は、さらに縮こまって、叱られた幼い子供のように、うなだれていた。
「どうしたの? ドクター」
駆け寄ると、彼は由岐の顔を、捨てられた子犬のような切なげな瞳で見上げた。
「由岐ちゃんがもう帰ってこなかったらどうしようかと思った……帰れなんて言ったけど、ホントに行っちゃうと思わなくて」
ドクターの手が、ぎゅっと彼女のスカートのすそを握っていた。
「ごめんね由岐ちゃん、僕のこと嫌いになった?」
「なるわけないじゃん。ドクターが私のことを嫌いになっても、絶対に、ずっと、私はドクターのことを嫌いにならないよ。いなくなっても絶対に帰ってきて、できるだけドクターの傍にいる。今回のは、ドクターがお母さんのところに帰るように言ったから言われたとおりにしただけじゃない。深い意味なんて、何もない。もしかしたらドクターが私を怒ってるかもしれないと思って、本当はもっと長くあっちにいるつもりだったんだけど、でも、ドクターと離れてるのが寂しくて仕方なくなって、こんなに早く戻ってきちゃった」
「そっかあ、よかった」
ドクターはにっこりと笑った。
私よりもこんなに上手く笑える彼は、私より上手く人を愛すのではないかと、由岐は思った。
彼の半分は機械で、彼女の半分も機械だが、お互いに、親の愛を知る、人の子だ。
「私たち、一緒にいなきゃダメね」
由岐は呟いた。
「半分ずつ、人間でしょ? ふたりでいてやっと一人前の、人の心よ」
「そうなると僕ら、“ひとりぼっち”だよ」
「違うよ、ドクター。半分ずつの心が向かい合ってるの、私にはドクターが見えてて、ドクターには私が見えてる。存在がそこにあるっていうこと。なかったら、崩れてしまうの」
「そうか、寂しいね。僕ら半分は人間なんだ、目の前にあるのはエゴなんだ。もしかしたら、木崎くんのほうが寂しくないひとりぼっちかもしれない」
ドクターは背もたれによりかかった。
「どういうこと?」
「ロボットは完全に人の為に動けるんだよ。道具だから当たり前だけどね。それに比べて、人間は愛すらもエゴなんだよ、本当は。本当に人のために何かをすることができるのは、モノだけ。だから人によっては、ロボットのほうが人よりも暖かいと思ってしまうんだ。人間は、欲にまみれてて汚いよ」
「じゃあ、私たちは清い?」
「すくなくとも僕は……けがれてるよ」
彼は寂しそうに笑ったが、すぐに笑顔になって由岐の手を握った。
「でもそのエゴにもたれかからないと生きていけないのが人間なんだ、だから僕らも人間。自分や他人のエゴを否定しないほうがいいよ、誰かを愛したいと願うエゴを否定するほど悲しいことはないもん。パパも僕を愛したいと思った、僕もパパを大好きでいることで僕になれた。だから僕は、自分が動物であることとも、機械であることとも向き合ってる。由岐ちゃんがいなくて寂しかった……そういうことだよ」
そう語るドクターの目が、今までの彼とは別人かと思うほどに、生き生きしていた。由岐はその大きな赤い瞳の中を一心に見つめていた。
「ホントは、サチコを作ったのはパパなんだ」
「えっ、そうだったの?」
「うん、パパがパパの妻だった人の若い頃を模して作ったロボット。でも欠陥が見つかって、いつもなら欠陥品は捨てるけど、パパはこれを捨てられなくて、ずっと大事そうに置いてたの。僕はあれが嫌いだった、でも、パパが死んじゃった今となっては、あれも形見でしょ、捨てられなくて。そう思ってたら、木崎くんが現れて、あの子なら大事にしてくれそうだと思って、譲ったの。パパの大事なものだから。僕がたとえ嫌いなものでも、パパを思うと、あれも僕にとって大切なものだったよ」
由岐は頷いた。
「今、木崎くんはきっと誰かが作った誰かを真似した優しさを愛してると思う。ロボットはマスターのためになんだってするよ、たぶん彼が今まで人間から受けてきたものよりもそれは優しくて暖かくて、離れられなくなってしまってもおかしくはない」
ドクターは早口に、淡々と言ったが、最後に少し笑って、
「彼がちゃんと生きていけるといいね」
と言ったが、それは明らかに自分自身に向けて放った言葉なのだと、由岐には手に取るように分かった。
この人を、助けてあげないと。
「……っ」
そう思った瞬間に、彼女の身体に稲妻のように一瞬にして痛みがかけめぐった。
「由岐ちゃん?」
機械に染められたような微笑をたたえていた少女が、苦しみに表情を歪め、胸をぎゅっとおさえた手はひどく力んで硬直したまま、その身体は床に崩れ落ちた。
しばらくうずくまっていると、痛みは徐々に引いていく。仕舞いには何もなかったかのように元通りになった。
「も、もう、平気。なんだろう、今の」
しかし、明らかに状況は変わっていっている。
ドクターの赤紫色の大きな瞳には、哀れな少女の末路が既に映っているのだろう。それでも、いつか訪れるその喪失に対して、大切な人が顔を真っ青にしてわなわな震えている様子は、由岐にとっての何よりの幸せに相当していた。
「ねえ、ドクター。正直に、答えてよ」
彼は由岐の隣に座り込んでいた。
「私、やっぱり、死ぬんでしょ?」
数秒間、ドクターは下唇を噛み締めたままこちらをじっと見つめていた。その眉間にしわがよって、顔が真っ赤になり、大きな目から大粒の涙が零れ落ちてくるまでは。
ドクターは子供のように大声をあげて泣き始めるのと同時に、由岐の首に抱きついた。息が止まるほど強く抱きしめられた。
死ぬのは私なのに、可笑しい。と、そのために泣いてくれるこの人を非常に微笑ましく思いながら、異常なほど冷静に、由岐は愛しい人の背中をさすって、抱きしめ返した。


(2012.06.01)

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