先に出て行ってしまった由岐の様子は明らかにおかしかった。
まさか、あの仲の良いふたりが喧嘩でもしたのだろうか?
いや、そもそもあのドクターという人物と普通に関わることができる由岐がすごいのだ。たまにはこじれることもあるだろう。
俺はそばに立っているサチコの横顔にちらりと目をやった。
ロボットであるはずの彼女と俺だって一瞬、こじれたりしたのだ。俺が首を突っ込んで心配する話でもない。しかし、ドアの向こうに残っているはずのドクターが出てくる気配すらないのが少し不安だった。
「サチコ、帰ろうか」
「うん」
俺はベッドから降りて靴のかかとを踏み潰し、そのまま部屋を出、建物を出た。まだ1時過ぎ。空は明るく、気温も高い。
寝ていたのはほんの十数分だけだが、寝起きで頭がぼんやりする。俺が無言で歩いていると、サチコもその後ろを黙ってついてきた。何か明るく話をする気には、到底なれなかった。
完全に静寂を保ったまま、俺とサチコは家に着いた。外で発作が起きたあとは、自己嫌悪で気持ちが沈む。何もする気にならないし、ずっと憂鬱に苛まれるはめになる。
それでも、発作よりはマシだ。
玄関のドアを開けると、家の中は電気がついておらず、誰もいなかった。俺は堂々と足音を立てて階段をのぼり、自分の部屋に引っ込んだ。後ろからついてくるサチコは俺の言いつけを守って静かに歩いていた。
「木崎くん、もう平気?」
部屋に入ったとたん、サチコがそう訊いてきた。
「え? ああ……まあ」
俺は少々不機嫌になって答えた。サチコが何をしたわけではないが、なんだか苛立ってきた。
「お腹、空かない? 何か食べる?」
「いらない」
答えながら、俺は椅子に座って作りかけの人形の洋服を縫い始めた。
サチコはそれきり黙って部屋の隅に座っていたが、1時間ほど経過して、
「ねえ、木崎くん、」
また話しかけてきた。
「お腹空くでしょ? ただでさえ今、元気がないでしょ、作業は休んで、何か食べてゆっくりしなきゃ駄目よ」
俺はしばらく無視して作業を続けていたが、サチコが強制終了する前に言った言葉をふと思い出した。
“私が心配するもの”
「うん、何か食べる。コンビニまで買いに行くよ。待ってて」
「私が行くわ、欲しいもの言って」
「じゃあ、適当に菓子パン、ふたつぐらい。甘いのでもなんでもいいよ」
「分かった」
サチコに財布と鍵を渡して送り出したあと、俺は気がついたら机に伏せて寝ていた。
サチコが人間になる夢を見た。人間になったサチコは今よりもっとはじけた笑顔で笑い、俺と一緒に何か食べたり眠ったりしていた。
「ただいま、木崎くん」
起こされて目を開けると、そこにはロボットのままの、何も変わらないサチコの姿。見た目は本物の人間にしか見えない。しかし、これは偽者の魂。空の容器。
俺と彼女の間には、何もないのだ。
夢の中では、確かに彼女と俺のあいだに何かが通い合っていた。それが人間とモノとの一番の相違点だろう。
「おかえり……」
俺は飲み物を取りに下に降りた。うっかりふたりぶん注ぎそうになったが、ひとりぶんだけ林檎ジュースを注いで部屋に戻った。心のどこかで、彼女と感覚を共有したがっているのだと思う。
「ありがとう、机の上に置いておいて」
サチコは俺の机の上に袋から出した菓子パンを並べて、財布と鍵を俺に返してくれた。
菓子パンを一口かじる。甘い。
「それでよかった?」
「うん、美味しいよ」
「よかった、もし気に入らなかったらどうしよう、と思って」
「いや、大丈夫。サチコは料理できるの?」
「一応。家事手伝いロボットだから」
「あ、そういえばそうか。一回食べてみたいなあ、サチコの料理。今度親がずっといない日にでも作ってくれる?」
「いいよ」
普通に、会話が弾んでいた。意味不明な苛立ちは治まっている。
ただ、胸の奥にくすぶるかすかな悲しみは、そこにまだ残っていた。
「サチコの料理、ふたりで食べたいな」
「誰と?」
「サチコと」
「私は食べられないよ」
「うん、知ってる。食べられたらいいのにな、って」
「木崎くんには作ってあげられるのよ? 自分が食べられるんだからそれでいいじゃない」
「分かってないなあ、料理なんて、ひとりで食べても、そんなの本物の味じゃないんだよ。ひとりで食べたって、寂しさの味しかしないよ」
サチコは俺の言葉を理解しようと必死になっているようだった。困ったような、考え込むような表情をしている。本当に、このロボットは素晴らしい出来だと思った。ドクターみたいな偏屈な人間が、よくこんな人間としての愛嬌を持ったロボットを作れたものだ。
誰かをモデルにして作ったのだろうか。
「……寂しさの味って、私には分からないわ」
サチコが申し訳なさそうにそう呟いた。俺は「分からなくていいよ」と言って、
「俺はもうひとりで食べる飯にはうんざり」
とぼやいた。サチコは首を傾げている。
「じゃあどうしてここに閉じこもっているの?」
俺は言葉を失った。サチコが言葉を選ばなかったからだ。サチコはずっと言葉を選んできた。サチコが本当のことを率直に口に出したのはそれが初めてだったからだ。
それも彼女(のプログラミング)なりに、計算されてたたき出された台詞なのかもしれないが、確実に、俺の胸に刺さった。
「……好きでこうしてるんじゃないよ」
俺の声は震えていた。鼓動に、言葉がぶれていくのを感じながら、それでも喋り続けた。
「できるならここから出たい……いろんな人といろんな話をしたいし、喋りながら楽しく一緒に飯を食いたいよ……それなのに君は俺に“どうして”って尋ねるの?」
「ひとりが好きなのかと思っていたの、木崎くんはそこに座って黙々と作業をしているとき、一番楽しそうな顔をするから。だからここに閉じこもっているのかと思ったのよ、でも、ひとりでご飯を食べるのが寂しいっていうなら、じゃあどうしてひとりきりでいるのか、私には分からなかったの」
バン、と大きな音が響いた。
それは、俺が両手で机を叩いて立ち上がる音だった。
「誰も俺のことを理解してくれなくて、誰も俺に見向きもしないからに決まってるだろ! 本当にひとりでいいならサチコのことだってもらってきてないよ!」
俺はサチコに怒鳴った。彼女はまだ、不思議そうな顔でこっちを見ていた。
「……なんだよ、」
「一目で理解できる人なんていないわ、木崎くんだって私のことを見た瞬間は“これ”がなんなのか分からなかったはずよ。私のことは取扱説明書を読めば全部分かるから、すぐだけれど、木崎くんたち人間には、取扱説明書なんてないからもっともっと時間がかかる。相手に理解されたいなら、まずは自分が相手のことを理解しようと必死にならないと始まらないのよ……違うかしら」
「こっちが理解したところで俺のこと分かってくれるとは限らないよ、だいたい俺は家庭環境もひどければ病気で身も心もボロボロに弱って、おまけにこんな変質的な趣味だし、」
俺は言いながら棚にずらりと並んだ人形たちを見上げた。自分でも、これが変だということぐらい分かっている。しかし、分かったところでその趣味をなくしていけるほど浅はかな興味でもなかった。
「皆、俺みたいな面倒くさそうなやつには近寄りたがらないんだよ、だから仕方なくひとりでいるんだ」
一気に興奮して喋りすぎた。俺は酸欠で眩暈を感じてストンと座った。そして小さく、
「俺にも取説があったらなあ……」
と呟いた。サチコの取扱説明書を読んだときから、常々思ってきたことだ。
「私も面倒くさいでしょ?」
突如、サチコが言った。顔を見ると、笑っていた。
「私は欠陥品よ。製作者にもきっと邪険に扱われていたことでしょうし、誰の役にも立てない厄介者に違いないわ。私、木崎くんなんかよりよっぽど面倒くさい鉄の塊だと思うんだけど?」
「……それが、何?」
「思い出して見てよ、私が思い出せないぶんまで。木崎くんは私を引き取ってくれて、二回も起動させてくれたんでしょう? 強制終了した私を、ひどく心配してくれたんでしょう?」
「そ、そうだよ……」
「私にどれだけ面倒をかけられたって、自分の傍に置いてくれる木崎くんがこの世に存在してるのだから、木崎くんにどんな事情があろうとも、木崎くんをずっと認めてくれる人も、絶対にこの世に存在しているはずよ」
ロボットに説教されている。
その事実に気付いたときには、俺の怒りはもう完全に収まりきっていたので、言い返す言葉など出てこなかった。
「サチコじゃないの、それ」
「私は違うわ、私は誰にだって仕えるただの道具だもの」
その回答に、俺は泣きたくなった。ただの、道具。
知っていた、何度でもどん底に突き落とされるように、俺は知っている。彼女は人間ではない。
「私は誰のためにだって尽くして働くように出来ているけれど、それも、選んでくれる人がいないと意味がないよね。欠陥品だから、選んでくれる人に出会えたこと自体が奇跡なのかもね……私は木崎くんと口づけで契約してる、壊れるまでずーっと木崎くんだけのものよ。木崎くん、私を傍に置いてくれてありがとう」
上手いこと慰められた。やられた。
でも、グッときた。サチコと出会う運命を用意してくれた神がいるなら、感謝したい。

(2012.05.06)

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