木崎くんがデスクの部屋のベッドで眠っている間だけ、由岐とドクターは奥の研究室にいることにした。
ドクターは両手を白衣のポケットに突っ込んでいた。こんな大人みたいな仕草は今までしなかったのに、と思いながらその背中を追う。
相変わらず研究室の内部は薄暗くて気味が悪い。由岐はもうずいぶんこの建物に慣れたが、普段ほとんど足を踏み入れないこの場所だけはまだ少し怖い。
「由岐ちゃん、最近ずっといて全然家に帰ってないでしょ?」
「迷惑だった?」
「そんなわけないじゃん!」
ドクターはくるりと振り返って満面の笑みで言った。
彼女は生まれて初めてその笑顔を恨んだ。この手でそれを壊してやりたいとさえ思った。
その感情がなんなのか上手く消化して理解することができる前に、彼女は、
「そう、よかった。ドクターは成功品なら自分の元にいつまでも置いてくれるものね」
と言って微笑み返した。
「もちろん」
こくりと頷く愛らしくもおぞましい少年。毒々しい赤色の瞳を細める。
「ドクター、」
「ん?」
「手をつなごう」
「いいよ」
彼は手を差し出した。真っ白い、自分より小さな手を、由岐はしっかり握った。
「怖いよ、ここ」
「なんで? 素敵だよ?」
由岐は作りかけのロボットや、彼女には理解できないようなさまざまな機械が不気味な音を立てている様や、とくに緑色の培養液の中に浮かんでいる人型のものたちを見回した。
「私には分からないや。だってドクターの頭の中、覗けないもの」
「僕は由岐ちゃんの頭の中覗けるよー」
「本当? でも、見てもドクターには理解できないんじゃないかな」
「それ、どういう意味?」
「わかんない」
由岐はクスッと笑った。皮肉を言ったのに、彼がきょとんとして聞き返してきたからだ。
「どうして“全然家に帰ってないでしょ?”って言ったの?」
「ん? あ、ああ、そう、お母さんが心配するよ?」
嘘の下手なドクターが自分に何か隠していると、由岐はすぐに分かった。
「そうね、じゃあ今日は帰ることにする」
ドクターが、“娘が帰ってこないとお母さんが心配する”ことなど知っているわけがなかった。どこで誰に聞いたのだろう。由岐を家に帰すためにはなんと言えばいいか、頭をひねった結果、出てきた言葉なのかもしれない。何も知らないけれど、ドクターは賢いから、それぐらいのことは思いつくかもしれない。由岐はぼんやり考えながら、目に付いた培養液の中の人型をじっと見つめた。
その人型だけは、どこか優しげな表情をしていて、人間らしい様子だったので、あまり怖くなかったのだ。
灰色のウェービーのロングヘアの、物寂しげな美しい女性だった。しかし、他の培養液のガラスケースよりも薄汚れていて、ぼんやりと曇ってクリアには見えない。彼女の足元には黄ばんだ一枚の紙がぺらりとセロハンテープで貼り付けられていた。由岐はその紙に目を凝らした。
“しっと”と、書いてある。
「あれは何? ドクター」
問いかけると、ドクターの表情が一瞬にして曇った。
「あれ、パパの」
短くそれだけ答える。
「お父さんの? お父さんが作ったものなの?」
「そうだよ。パパが好きだった人。パパのことが好きだったのに、パパのことを裏切って出て行っちゃった人の、クローン」
彼の言葉から推測するに、これは彼の母親のクローンのようだ。
そして、彼は母親のことが嫌いらしい。
“嫉妬”だろうか、と思った。
「“しっと”って何?」
「分かんない。貼ってあったの。名前じゃない?」
ドクターは明らかに適当に答えた。しかし、その字は由岐が知っているドクターの筆跡だった。
「ドクターのお母さんでしょ?」
「僕にお母さんなんていないよ。僕はパパと機械に作られたんだよ」
彼は足元にあった大きな道具箱に腰掛けた。
「だいたい、パパにあんな顔をさせた奴が僕のお母さんだなんて思いたくもないね」
「ドクターのお父さんはどんな人だったの?」
由岐は彼の目の前にしゃがんで問いかけた。彼が心酔する父親の話ともなると、その瞳は一瞬にして輝く。
「パパはすごい人だよ、偉大な発明家で、お医者さん。僕が小さい頃からいろんなことを教えてくれてね、すごく優しい人だったの。僕はパパのことが大好きだった。僕の世界はパパとふたりきりで、楽しいことも嬉しいことも、全部ここにあったんだもん。だからお外になんて行く必要はなかったんだよ、だから、パパはいつまでもずーっとここで僕と一緒に研究だけしていればよかったんだ……それなのに、パパはお外に出たから死んじゃった」
ドクターは、自分の父親がどうして死んだのかすら、知らないようだった。
「お外に出たから死んじゃったの?」
「そうだよ。だって外はとっても怖いところなんでしょ?」
「私は毎日外に出てるよ?」
「……僕は怖いよ」
「私は生きてるよ、ここにいるよ、ドクター」
「そうだね、由岐ちゃん」
ドクターが笑ってごまかそうとするので、由岐はくい気味に言葉を続けた。
「だから私と一緒に外に出よう?」
「……」
彼は黙ってしまった。
由岐が明確に自分の意見を口に出したのは、恐らく初めてだった。
いつも優しく相槌を打っているだけだった由岐がそう言ったことに、ドクターは大層驚いたようで、青ざめた顔をした。
「パパなら……パパとならお外に行ってもよかったよ」
しばらくしてから、ドクターがそう呟いた。今にも泣きそうな顔をしていた。
「でも、パパはもう死んじゃったもん。いないんだもん。あのクローンだって、ガラスを叩き割って処分しちゃいたいけど、そんなことできないし、あのガラスケースを開けるパスワードはパパしか知らないからもうずっと開けられないんだ……パパがいないと、僕なんて何にもできない。いつかパパみたいになんでもできるえらい人になりたいけど、僕は今はなんにもできない、だからお外なんて怖くて出られないよ」
「うん、ごめんね、ドクター。変なこと言ってごめん」
由岐は彼の背中をそっとさすって謝った。
しかし、簡単に諦められそうにもなかった。
「でもね、ドクター。ドクターの知らない素敵な世界もあるんだよ。ドクターが治してくれたおかげで、私はそれに出会うことができたの。だから恩返しに、ドクターがもっと偉大な学者になれるように、見せてあげたいものがあるの」
ドクターは俯いていた。
俯いたまま黙っていた。
由岐は、自分は彼の中で父親に勝つことはできないのだろうと思った。
だって、私はただの彼の成功品。
彼女の世界は美しかったはずだが、それを思うと、この世界は色あせて見えた。
「ね、ドクター。もしかして、私にはあまり時間がないんでしょ?」
由岐は優しい声でそう尋ねた。
その瞬間、ドクターが急に顔をあげて彼女を睨んだ。
「なんだよ、今日の由岐ちゃんは変だ……帰ってよ!! 今すぐ!!」
立ち上がって、彼がドアを指さした。由岐は言われるがまま、逃げるように部屋を走って出た。
緑色の培養液の中で漂う彼の母は、まだ寂しそうな瞳で彼を見ていた。
研究室を出て、デスクの部屋に戻ってきた。
思ったよりドアを勢いよく開けてしまったらしく、その音で起こしてしまった。寝ていた木崎くんの身体がピクリと動き、ごそごそと身体を起こし始める。
「ごめん……木崎くん、まだ寝てても、」
「あ、い、いや、大丈夫……どうしたの? 由岐ちゃん……」
「え?」
「なんだか、う、浮かない顔をしてたから」
「そう? 別に、平気よ」
由岐はいつもの自分に戻ろうと努めるうちに、ただ焦っているだけで、そこには悲しみや怒りの感情は存在していないということを思い出した。
彼女は幼い頃に一度死を覚悟し、そこでほとんどの感情を失ってしまった。彼に作られた心臓の所為かもしれない。神がいるとしたら、由岐も彼もそれに背いているかもしれない。
それでも、由岐は愛することを忘れてはいなかった。
「じゃあ、私、今日はもう帰るから……好きなときに帰っていいからね。さようなら、木崎くん」
返事を待たずに廊下へ出て、足早に箱のような建造物を後にした。明日になればまたここに来るし、また木崎くんにも会うだろう。それなのに、どことなく心に寂しい隙間風が吹いた。
ドクターは、自分の住まいの周りにいつでも存在している、この豊かな緑の森すら知らない。窓のない箱の研究室に自らの魂を閉じ込めて、昔そこにあったかもしれない幻想のような愛に固執している。それが哀れなことだと、本人だけでは永遠に気付けないだろう。由岐は春の風に長い髪をなびかせながら、決意を新たにした。
自分に時間がないなら、今すぐにでも彼の心を変えなければ。
これは由岐の命に課せられた、最大の使命であるに違いない。
彼と本物の恋ができなくても構わない。ただ、これからも生きていく彼に、ささやかな贈り物として、自分の愛と命をあげたかった。

(2012.05.02)

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