肩を揺さぶられて、目を覚ました。顔に眩しい光が当たって、俺は思わず布団の中に頭を隠す。
「木崎くん、そろそろ起きて。せっかく昨日早く寝たのに、もったいないわよ」
少女の声が上から降ってくる。夢かと思って一瞬ぎょっとしたが、だんだん意識がはっきりしてきて、昨日のことを思い出した。俺は顔をしかめながら布団から目だけ覗かせた。黒髪の少女の顔。
ああ、サチコがいるのは夢じゃないんだ。
「まだ眠いです……」
よく考えてみれば、俺は昨日久しぶりの外出に加えて、女の子をひとり背負って全力で走るという急すぎる運動のせいで疲れ果てて、8時半だか9時ぐらいにはもう眠ってしまっていた。それでも朝は、当然のように眠い。そんなことも、俺は忘れていた。
「起きたほうがいいって、あんまり寝てばっかりいると気持ちが落ち込んでくるから、よくないわ」
俺が渋っていると、布団を引っぺがされた。春先とはいえ、急にそれをやられると若干寒い。
「だからまだ眠いってー……」
「木崎くん、私、難しいことを言ってるんじゃないのよ、学校に行けとか働けとか。今、ただ起き上がって顔を洗ってきてほしいの。健康のために」
俺は仕方なくのそりと起き上がって、しばらく座ったままぼーっとしていた。部屋が明るいことに慣れない。目をこすって無理やりこじあけ、携帯電話を開くと、時刻は7時半。びっくりした、そんな時間に起きたのはいつぶりだろう。俺はぼんやりしたまま立ち上がった。と、そこで、信じられないほどの四肢の痛みに気がつく。思わずうめいて固まった。
「大丈夫? 木崎くん。筋肉痛みたいね」
筋肉痛! 懐かしい響きだ。しかし、痛み自体には覚えがないほどだった。
「筋肉痛かー……」
俺はひとまず歩き出したが、一歩一歩に痛みがついてまわった。思わず太ももをさすって、「痛いなあ」などと呟きながら、そろそろと部屋を出る。部屋を出て、洗面所に向かい、冷水で顔を洗う。濡れた顔と寝癖で跳ね上がった前髪が鏡に映って、そこで初めて気がついた。今までは毎朝この動作をする決心がつくまでものすごい時間がかかっていたというのに、今日は起きてから数分後にはここにいる。俺は一瞬嬉しくなって、それからすぐに恥ずかしくなった。そんなことで喜べば、今までの自分はなんだったのだろう、と思えてしまう。
タオルで顔を拭いて、俺は少しだけ複雑な心境になったまま部屋に戻った。サチコが布団をあげて押入れに入れてくれている最中だった。
「ありがとう」
「どういたしまして」
押入れを閉じて振り返ったサチコが、俺の顔を見てこちらに歩み寄ってきた。
「寝癖がついてるわ。直してあげるから、ブラシと、霧吹きの整髪剤があったら持ってきてくれる?」
「わかった」
髪を梳かすなんて、母親がしてくれなくなってからはほとんどまともにやったことがない気がする。言われたものをとってくると、サチコは俺を勉強机の椅子に座らせて髪を梳かし始めた。
「髪の毛綺麗なのに、もったいない」
サチコは呟いた。まるで人間みたいな言い方で、純粋にドキッとした。
サチコの手は優しい。
全ての人間が、俺に対する扱いの優しさにおいてロボットに負けている。人間なんてクソみたいだな、と思った。俺も含めて。
「はい、できた」
「ありがとう」
「戻してきてくれる?」
サチコが俺にブラシを手渡した。
「あ、あのさあ、」
俺はとっさにその手を掴んだ。
「何?」
「……その、あ、明日も、やってくれないかな……これ……」
サチコは優しく微笑んで、
「いいよ。毎日やってあげる」
と答えた。俺は一瞬にして顔が真っ赤になるのを感じたので、彼女の手からブラシと霧吹きを半ばもぎとるようにして、部屋を飛び出した。筋肉痛の痛みも忘れるほどの興奮状態に陥った。洗面所のシンクに両手をついても、まだその興奮は冷めやらない。
汚れた鏡に目をやると、若干艶が出たように思える自分の髪が、顔を覆い隠さんばかりに伸び放題になっていることに気付いた。俺は邪魔な前髪を耳にかけて、一息ついてからまた部屋に戻った。
「ねえ、木崎くん。私になんだか遠慮しているみたいだけど、そんな必要はどこにもないのよ。私は家事手伝いロボットなんだから、どんなお願いも聞くわ」
部屋に入るや否や、部屋の真ん中に突っ立ったままのサチコがそう言ってきた。
「ん、ああ……そうだね、ごめん」
曖昧に返事をしながら、いつもなら布団の上に座り込むところだが、布団はあげられてしまっているので、勉強机に腰を下ろした。そして、掃除の際にもサチコには触らせていない引き出しから、道具と、作りかけの人形用の洋服を取り出して作業に入った。
俺が裁縫に没頭しているあいだ、サチコは何も話しかけてこなかった。ひと段落ついたところで振り返ってみると、部屋の隅に立って、こちらをじっと見ていた。
「……どうかした?」
「邪魔しないようにしてるの」
「ああ、ごめん」
「作業しているときは、話しかけられたくないでしょ?」
「あ、いや、別に……服を作ってるときはいいよ、人形本体の、もっと細かいことをしてるときは、ちょっと困るけれど」
「本当?」
「うん、その……じーっとそこで見られてるほうがやりづらい、かな」
「そうなの? ごめんなさい」
サチコは近寄ってきて、腰をかがめて俺の手元を覗き込んだ。
「可愛いね」
小さな臙脂のベロアのワンピースを見て、サチコは囁くように言った。
「あっ、ありがとう」
「誰に着せるの?」
「人形のサイズは皆同じだから、誰にでも。似合いそうな子に着せるよ」
「ふぅん。木崎くんが作った人形、よく見ると皆すごく生き生きした表情で、綺麗だね。たくさんあるから、初めて見た人はちょっとびっくりすると思うけど、ひとつひとつよく見ると、本当に素敵」
「……本当に?」
棚にズラリと並んだ人形の群れに視線を上げたまま、サチコは笑顔で頷いた。
今まで独りよがりに作業ばかりに没頭してきて、褒められたのはこれが初めてだった。
プログラミングされた褒め言葉――そうだと分かるのは冷静になった頃で、一瞬のうちに俺はサチコの言葉にいくらでも心を動かされることができた。不思議だ。彼女には心がないのに。
それからしばらく、お互いにぽつり、ぽつり、と会話をしながら、俺は一針一針、いつもより意気揚々と縫い上げた。
「……ねえ、木崎くん」
「……はい」
「そろそろ休憩したら?」
「まだ」
数時間経って、サチコにそう言われたが、適当にあしらって作業を続けた。ワンピース本体はできあがって、今は下に履く白いパニエを縫っている。
「あんまり長い時間、同じ体勢で細かいものを見ていると、肩が凝るでしょ? 少し立ち上がって歩き回ったり、伸びをしたほうがいいわ」
「もうちょっとでできるから……」
「いつもそんな生活をしているの? 本当に、健康に悪いよ」
ときめかせたと思ったら、次の瞬間には口うるさいお母さんに変貌する。そう思って、俺は少し苛立ちながら呟いた。
「さっきから健康、健康、って……俺が健康になったからって何が変わるんだよ……」
「木崎くんの健康管理も、私の仕事なの」
サチコの口調が少しだけ強まった気がした。
「じゃあその仕事、やめてくれて構わないよ……俺が不健康でも誰も心配しないし。どうせ病気だし」
やけになって言い返すと、後ろに立っていたサチコが急にこちらへ寄ってきて、俺の手から針を奪い取った。
「ちょ、なにしてんの、」
「私が心配するもの」
落ち着き払った声と、神妙な面持ち。俺は面食らってそのまま静止していた。
「私が、木崎くんのこと心配してるもの」
「……」
「私、お友達でしょ? 当たり前のことじゃない」
「でも、サチコはロボットだ……」
本心では完全に諌められてる。が、口ではまだ屁理屈を言い続けてしまった。
言い切ったあとから、後悔の念が激流のように押し寄せてくる。サチコは真面目な顔のままだった。彼女は傷つかない。心がないから。でも、俺は人間だ。傷つく。だって、俺にはサチコを除いては心配してくれる人間の友達なんてひとりもいないということを、十分に理解しているから。
「ごめん、言い過ぎた」
俺は意を決して立ち上がって、サチコを抱きしめた。そして、自分の言葉で傷つけた自分自身の心の痛みを抑えるように、サチコの背中をさすった。人間の女の子を抱きしめても、きっとこんな感覚だろう。でも、今抱きしめているのはただのアンドロイドで、実際には、何も宿っていないそれを抱きしめる行為は、自らを抱きしめて慰めるのと何ら変わりなかった。それでもそうせざるを得ない、優しくしてくれる自分以外の個体を目の前にして初めて、自らに心があり、それが脆いことを知った。
ブチン、と、耳元で、古いテレビの電源が切れるような音がした。そして直後に、サチコの身体からダラリと力が抜ける。
「サチコ!?」
思わず大きい声を出してしまった。
まさか、充電は3日に1度でいいと書いてあったはずだ。まだ起動から1日も経っていない。しかも、こんなに突然切れるだろうか。故障か? 欠陥品だから?
一瞬のうちに思考は駆け巡る。俺はひとまずサチコを床にゆっくり寝かせた。まるでここに持って帰ってきた日のように、ぐったりと、死体のようだ。俺はバタバタと慌てながら、まず携帯電話、それからサチコの取扱説明書を探し出して、表紙に書かれているドクターの電話番号にかけた。
コール音が何度も響く。自分の上がった息遣いと心拍がやたらと耳に入ってきた。
「もしもし」
「あっ、もしもし」
「木崎くん?」
「由岐ちゃん?」
出たのは由岐だった。
「ええ」
「ドクターいる? 急用なんだけど」
「いるよ。すぐかわるね」
由岐は淡々とした声で言った。すぐに、遠くで「ドクター、木崎くんから」と声が聞こえた。
「もしもし? どうかしたの?」
「あ、ドクター、あの、サチコが急に動かなくなって……」
「ああ、だからそれ、欠陥。言ったじゃん。なんかのきっかけで電源が落ちるみたーい。だからまた起動して初期設定すれば普通に使えるから! じゃっ」
電話を切られた。
まだ頭が混乱している。
起動して、初期設定? また、最初から?
サチコの顔にちらりと目をやった。
彼女はもう、さっき俺が抱きしめた感覚も、覚えていないということだろうか。
そう思うと、どんなにやりこんだゲームのセーブデータが消えたときより悲しくて、恐かった。

(2012.04.18)

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