モノクロ映画のようだった目の前の景色が、急にカラーに変わった。そんなかんじだ。
「こ、こちらこそ……よろしく……」
まず外見に一目惚れして譲り受けたそのアンドロイドが、実際に目の前で動いて、俺に微笑む。その様子は想像以上だった。
「私の取扱説明書はお読みいただけましたか?」
サチコはゆったりとした聞きやすい声で尋ねた。
「は、はい! 読んだ、読んだ」
俺は彼女と膝をつきあわせて正座した。
「よかった。それではまず、本日の日付を、西暦、月、日の順で教えてください」
「あっ、はい、えっと……」
そこでようやく、今行なっているのが人と人との無作為なコミュニケーションではなく、機械の初期設定であると思い出した。あまりにも生々しいキスの感覚と、彼女の瑞々しい微笑が、それを忘れさせていたのだ。心底、あのドクターという正体不明の人物の恐ろしさを感じた。
俺が日付を答えると、サチコはにっこり笑って、
「ありがとうございます。今は、午後ですか? 午前ですか?」
と、質問を続けた。
「ご、午後、です」
「何時ですか?」
「えっと、い、今は……5時、21分、です」
「20××年、3月25日、午後5時21分でよろしいですか?」
「はっ、はい」
俺のどもりも声の通らなさもなんのその、サチコはしっかり聞き取ってくれていた。そこからまた、しどろもどろの俺と、スラスラ喋るロボットの不思議な初期設定が続く。
「私の声の音量は、このぐらいでちょうどいいですか?」
「は、い、でも……親にバレたらまずいから、もう少し小さく、でき、ますか?」
「できます。このぐらいでちょうどいいですか?」
「うん、それでいい、です」
「あなたのお名前を教えてください」
「木崎龍司……です」
「なんとお呼びすればいいでしょうか?」
「す、好きに……」
「それではまた、追々」
「はい……すみません……」
「話し方はこのようなかんじでよろしいですか? それとも、もっとくだけたかんじにいたしましょうか」
「あっ、でっ、できれば……友達みたいに……」
サチコは笑って頷いた。
「分かった。じゃあ、木崎くんって呼ぶ」
自分の顔が一瞬にして赤くなったのを感じる。そうやって喋ると、雰囲気ががらりと変わって、さらに人間らしくなった。恐怖にも似た興奮が身体中を駆け巡る。
「う、うん、じゃあ俺は、」
「サチコでいいよ」
「わ、かった、」
「他に何か、私に分かっていてほしいことがあったら、教えてくれる?」
「ああ……そうだな、君を隠し持ってることを、家族に知られたらまずいから、勝手にこの部屋から出ないでほしい、っていうのと……えっと……部屋にある人形には、さ、触らないでほしい、っていうのと……」
「木崎くん、私は木崎くんが命令したことしかしないから、大丈夫だよ」
「そ……そっか。じゃあ、ええと、自己紹介をするよ」
俺は正直に何から何まで彼女に話した。4月の頭には17歳になる。学校に行っていれば今は高1と高2の間の春休みにあたるが、中学の頃から不登校。性格は暗いし、上手く馴染めなくていつも苛められていた。人形を作るのが好き。もう何年もこの部屋に引きこもっている。パニック障害。喘息。軽い吃音。自分に関して説明できる全てのことを説明した。
俺には取り扱い説明書がない。存在しないそれを、丁寧に1ページ1ページ読んでくれた人に出会ったこともない。皆、表紙を見て、あるいは、最初のページを読んだだけで破り捨てた。何度も破り捨てられてきた。分かってほしくて差し出したそれが、丁重に扱われたためしがない。実の親すらも、俺の説明書から目をそむけたままだ。俺を理解しようとしてくれる人、そんな人は多分、この世に存在していないのだと思う。
「ありがとう。私、木崎くんのことだいぶ分かった。でも、まだ全部じゃないから、これからよろしくね」
サチコは優しく微笑んで、右手を差し出した。作り物の、白くて柔らかい手を、おもむろに握り返した。彼女なら信頼できる。作り物の、彼女なら。
そう思うと、泣きたくなってきた。
「……木崎くん?」
「えっ?」
「どうかした?」
「うっ、ううん! なんでもないよ」
自分がどんな顔をしていたのか分からないが、サチコは心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。そして、握手した手に左手も伸ばして、俺の手を両手で包み込んだ。血の通っている俺よりも、暖かくて、優しい手だった。
「困ったことがあったら、なんでも私に言って。きっと、力になるわ」
そう言って俺に微笑む作り物の優しさ。それが不覚にもじんときた。優しい言葉も、自分だけに与えられるぬくもりも、生まれて初めて感じた。
でも、これは虚構だ。
俺と彼女がいくら仲を深めて、どれだけ愛のある言葉を交わしても、全部おとぎばなしにすぎない。本当の心は、血の通った心は、そこには存在しない。俺は今までと同じように、人の手によって作られた人型の偶像を愛でているだけのはずだ。でも、サチコの存在は、今まで作ってきたどんな人形とも違う。そう錯覚していることが、悲しい。悲しいけれど、ただ人間を模して動き、喋り、思考する人形に、
「うん……ありがとう。ありがとう、サチコちゃん」
俺は恋をしている。
サチコは笑って頷くと、手を離した。
「さて、木崎くん。部屋の掃除をしない?」
「……はい?」
「私に触ってほしくないところは、木崎くんがやるしかないから、任せるけれど、そうじゃないところは、私が掃除しておく。いいでしょ?」
「う、うん……」
忘れていた点がもうひとつ。サチコは家事手伝いロボットだった。一応は。セクサロイドのほうで頭がいっぱいだった。
俺がボーッとしているあいだに、サチコは立ち上がっててきぱきと掃除をし始め、何年もあげていなかった布団を押入れにしまった。俺は自然と端に追いやられて、邪魔にならないように壁に背中をぴったりつけて立っている形になったが、そこから冷静に部屋を見るとあまりの汚さに絶句した。彼女はあっという間に散らばっていたものを片付けて、綺麗に収納していくが、ロボットとはいえここまでの汚い部屋を掃除させていたら一晩かかるだろうと思って途中から片付けに参加した。
そして、掃除がひと段落着いたところで、サチコはやはり窓に張られたダンボールに目をやる。
「木崎くん、どうしてこんなの貼ってるの?」
サチコは無邪気に言って、それを指さした。
「あ、ああ……眩しくて……」
「でも、日光に当たらないと身体に悪いわ」
「……」
「外したほうがいいと思う」
さっき、「私はロボットだからあなたの命令したこと以外はやらない」すなわち「命令されたらなんでもする」と言っていたはずなのに、いつのまにか俺のほうが命令されていた。
「外していいよね?」
「う、うん……」
そして何故だか逆らえなかった。
俺が左側のダンボールを止めていたガムテープを剥がすのと同時に、サチコが右側のダンボールを外した。ダンボールを外すのは心外だったが、誰かとふたりで同じことをするのが、掃除をし始めたあたりから、なんとなく楽しかったので、まあいいか、と思う。
「あっ、ねえ、見て!」
サチコが急に叫んだ。言い方的には叫んでいたが、ボリュームは先ほど設定したとおり抑えめだった。
「この部屋からは、こんなに綺麗に夕日が見えるのね」
「……ホントだ」
ダンボールが取り払われた室内には、きつい西日が差し込んだ。引きこもり始めた頃に、この夕方の西日が鬱陶しくてダンボールを貼り付けたのだと思い出した。
「昔、これが嫌だったんだ」
俺は呟いた。サチコがこちらを向く。
「でも、今は不思議と、全然嫌じゃない……なんでだろう」
「大人になったんじゃない?」
「そうかな」
「きっとそうよ」
サチコは俺よりも感情豊かに笑って見せた。
「捨ててくる」
俺は彼女の手からダンボールを受け取って、今までの掃除で出たゴミを、そのへんにあった袋にまとめたものも手に取った。
部屋を出てから、誰に見せるでもないこの部屋を、あんなに綺麗にして何になる? と思った。きっとこれから少し俺が散らかしたところで、サチコに綺麗に掃除されるだろう。しかも、あの調子だと、散らかすなだとか言って叱られかねない。
ドクターはやはり本当にすごい人なのだろう。欠陥なんて今のところひとつも見つからないし、そのうえ命令をこなす無機質なロボットとしての側面を隠して、さも自然に、そこに感情があるかのように所有者を助ける。
彼が作りたかったのは有能な召使ではなく、きっと――愛のある母親。
俺はそんなものを知らない。でも、そんな気がした。
それに気付いたことによって、虚像の愛に恋をしたなどと抜かしていた俺は、欠陥品の魅力ある少女のロボットに対する若干の落胆と今後の生活への倦怠感に肩を落とした。

(2012.04.05)

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