ノックはするが、返事は待たない。
いつものように、由岐は見慣れたバウムクーヘンの箱を手にぶらさげて白いドアを開けた。
「ただいま、ドクター。買ってきたよ」
「わーいありがとー!」
ドクターは椅子から飛び上がってこちらに駆け寄ってくる。由岐より20センチ近く背が低い。彼は由岐の手から箱を奪い取って、ふたを開けながら椅子に戻った。
「木崎くん、起動させたかな」
由岐はそれを眺めながら、書類に埋もれていたキャスターつきの椅子をデスクの下から引っ張り出した。雪崩が起きるが、それに関してドクターがなんと言ったこともないので気にせず座る。
「うーん、そろそろキスした頃じゃない?」
「そういえば、そんな設定してたね」
「意外と合理的なんだよー」
「大事な娘を、他の男にとられた気分?」
由岐は無意識の会話の中でそう尋ねた。
「え? 別にあれ、失敗作だし。どーでもいい」
と、ドクターはバウムクーヘンを頬ばりながらもごもごと答える。彼女の胸はドキリと高鳴った。
「……私は?」
そして、恐る恐るそう訊いた。そんな恐れが自らの中に存在していたことに、彼女は一種、気分の高揚を覚えた。
「由岐ちゃんは大成功だもん」
「私のこと好き?」
「惚れ惚れするぐらい、上出来」
ドクターは本物の少年のように、無邪気な満面の笑みで頷いた。それを、無言でただじっと見つめた。この目にそれを焼き付けたい、その一心で。
「ドクター、バウムクーヘン美味しい?」
「うん!」
「……そう。よかった」
由岐は微笑んだ。
いつもの定型ではなく、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
幸せそうにバウムクーヘンに食らいつくドクター。とても人間とは思えないおぞましい半・人造人間の容貌からは、想像もつかないような、天使の笑顔だ。
彼の幸せを見ていると、自分の命に、もう悔いることなどないように思えてしまう。
「ドクター、」
そして、いとおしんでその呼び名を口にする。
この感情を、人々はなんと名づけただろうか。
「ドクターは、恋って知ってる?」
彼は数秒間固まってから、食べかけのバウムクーヘンを箱の中に放り込んで、何故そこにあるとすぐ分かったのか不明だが、書類の山の中から電子辞書を一発で探り当てた。それを開いて、すぐに何か打ち始める。話を聞いていなかったのかと思った。別のことをやりはじめたのかと。彼にはそういうことが何度もあったからだ。由岐はどちらにせよその一挙一動を見つめていた。
「……特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること、だって」
「え?」
「だから、恋」
「ああ……」
こんな感覚的な問いかけを、まさか辞書で調べて返答されるとは思いもよらなかった。
「ドクターは、どう思う?」
しかし、由岐は平静に訊き返した。
「恋? ……知るに値するものなのかねぇ」
ドクターは椅子の背もたれにぐらりと寄りかかりながら、つまらなそうに苦笑して答える。
「ドクターにとっては、価値がない物なのね」
「さあ?わからないなあ」
「ドクターも知らない物って、あるんだ」
「そりゃあ僕はコンピューターじゃないからねー」
屈託なく笑ってみせる。適温の部屋。快適な空調。心地よい眠気。由岐は散らかったデスクの上に頬杖をついて、
「でも、私は知ってるよ」
と、小さく呟いた。このまま世界が終わったっていいと思った。
「え、そうなの? じゃあ、教えてよ」
「……また今度ね」
微笑みかけてから、由岐は大きなあくびをひとつ、目じりにたまった涙をぬぐって、立ち上がった。
「由岐ちゃんが“また今度”なんて珍しいねー」
ドクターがバウムクーヘンを食べるのを再開しながら言った。
「ちょっと寝るね、ドクター。眠くなっちゃった。夕飯には起きるから」
由岐は診察用のベッドに腰掛けながら言った。
「ねー答えてよ由岐ちゃん。また今度なんて、信じてるのー?」
「……なかったら、なかったで、残念」
由岐は答えながら布団にもぐりこんだが、
「そこで寝るの? 僕、ガチャガチャするかもよ?」
と、まだドクターは彼女に話しかけた。
「いいの。ドクターの近くのほうが、安心して眠れるから」
「ふーん……お休み」
「お休み、ドクター」
由岐は目を閉じた。目を閉じてから、どうやったらドクターに、こんなに綺麗な外の世界を見せてあげられるかな、と考えた。きっと、眩い自然を、優しい人たちを目にすれば、ドクターがまだ知らない感情を知ることもできるだろう。
でも、ドクターは外の世界を恐れている。この箱のような研究室から、一歩も外に出たことはない。その頑なな心を、由岐は自らの手で解ける自信がなかった。
(ごめんね、ドクター。私には、教えてあげられないかもしれない)
由岐は決して高い願望を持つ性格ではなかったが、彼が彼女を生かしたように、また彼女も彼を生かしたいと、それだけは切に願っていた。
由岐は、臓腑に複数の機能障害を持って生まれた。12歳の時両親が人工臓器の人体治験の情報を入手し手術、成功率は低いと言われていたが、奇跡的に成功。以後人工臓器を開発したドクターの家で経過観察という名目のもと、家事手伝いをしながら暮らしていた。意外にも、由岐とドクターは気が合い、そもそものお互いを必要としている境遇にくわえて、精神的にも切っても切れない繋がりを得た。
12歳のとき、一度死を覚悟した。それまでは、他の子供たちと同じように泣いたり笑ったりしていたが、今はそれが出来ない。どの感情もぼんやりと遠くにあって、この世の果てまで知り尽くしたかのように反応が薄まってしまったのだ。ただ、今生かされている幸せだけは誰よりも理解した。一回の呼吸が、一歩の歩みが、一言の言葉が、目に映る全てが、聞こえる全てが、感じる全てが、奇跡だと気付いた。おかげでいつでも笑っていられる。辛いことがあろうと、きっと乗り越えられる。
由岐の世界は平坦でありふれた、つまらない奇跡で出来ていた。その中でひとつだけ、ドクターの手によって作られた彼女の心臓を、大きく揺さぶるものがあった。
それは紛れもなく、その彼自身であった。
“特定の異性に強くひかれること。また、切ないまでに深く思いを寄せること”
ドクターが辞書で引いた“恋”の意味を、由岐はふと思い浮かべた。そうかもしれない、と仮定を立てる回数が多くなって、間隔が狭まって、とうとう今は、常に仮定が立てられて、それは確かな確信へと姿を変えていた。
おかしな話だな、と思う。機械に生かされた、作り物の心臓を持つ少女が、その心臓を作った半・人造人間に恋をする。なんだか血の通わないラブストーリーだけれど、この喜劇に気がついたとき、由岐は自分の身体に確かに血が巡って、生きていると初めて実感した。指先まで血潮がたぎる。全身全霊をかけて、彼のために気が狂いそうな思想を繰り返した。
この感情は、ロボットにプログラミングすることもできなければ、辞書で引いて説明することもできない。
そんな、彼女が知る世界に溢れる、説明もつかないすばらしいたくさんのことを、せめて自分が生きているうちに、愛する人に見せてあげたい。それが献身的な愛ゆえなのか、相思相愛になりたいだけのエゴなのか、それは分からないし、どちらでもあると思う。
ただ、現在の幸福だけで、最高の微笑を浮かべられる少女が、唯一それを願った。

(2012.03.26)

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