問いかけていいものかと迷った。由岐は俺の斜め前を歩いている。足取りはかろやかで、時折空を見上げたり、まわりの景色を眺めたりしている。
「あの、さ、」
それがあまりに、
「ん?」
俺の目には異質に映った。
「何度もそこに行ったことがあるんだよね……? その、面白い、知り合いのところに」
「ええ、何度もどころか、毎日」
俺は恐る恐る話しかけたが、由岐はやはり優しく、寛容な笑みを浮かべて答えた。
「どうしてそんなことを訊いたの?」
彼女はまた、遠くのほうに視線を向けた。俺からは、何を見ているか見当もつかない。
「い、いや、その、なんていうか……楽しそう、だから」
俺が正直に言うと、由岐はクスクス笑い出した。心の底からなんの悪気もなさそうな笑い方で、鳥肌がたつぐらい清らかな笑顔で。美しいものを見た感動を上回って、自らの穢れがまざまざと目の当たりになって、恐ろしかった。
「だって私、生きてるんだもの」
笑いながら答えた由岐の返答は、不可解だった。
しかし彼女のその異質な喜びと笑顔には、よく似合う言葉だと思う。
「ほら、あれ見て」
俺がその言葉に悩みかけた瞬間、彼女は俺の服のそでを引っ張って上のほうを指さした。
「桜はあとちょっとで満開ね。でも、開ききるより私はこのぐらいのほうが好きかな。五分咲きのほうが」
桜が咲きかかっているなんて、言われてみなければ気付きもしなかった。
下ばかり見て歩いていたらしい。そのことにも、今の今まで気付かなかった。
「今日は空が真っ青。帰る頃には真っ赤な夕焼けが見られるといいなあ」
由岐の落ち着いた声色が、そんなふうに無邪気なことを言っているのはなんとなくアンバランスだ。中学校のまわりの塀に沿ったこの道は、塀と桜の木に挟まれている。隙間からのぞく濃い水色の空には、雲ひとつなく、それを背景に桜の花びらがちらちらと風に舞った。春の空はふらふらと漂っている。春の空気は、甘く流れて、時間の進みも、心なしか遅いようだ。
「由岐ちゃんは、春が好き?」
俺は何故だか眼球が熱くなってきたことに動揺しながら、苦し紛れに問いかけた。
「好き。でも、嫌いな季節なんてない。全部好き」
次に由岐は学校の花壇に植えてあるパンジーと、花壇の外枠を歩く蟻の行列を指さした。
“だって私、生きてるんだもの”
先ほどの彼女の言葉が俺の心臓を抉る。彼女の、幻想のような思想と言葉に酔わされているのかもしれない。生も死も命に対して平等に与えられるものだが、生の中身は人によって全く違うはずだ。“生きているから楽しい”その彼女の考えを全人類に適用するなら、俺は生きていると言えるのか。
俺ならその言葉をいつ使うだろう。きっと辛くて辛くて死にたいときだ。
ということは、いつだって使える。
由岐のたわいもない景色観賞に相槌を打ちながら歩くうちに、まわりの景色はだんだんと緑の分量を増してきた。ここは郊外の街だが、こんな森のようになっているところまで来たのはもちろん初めてだった。
「その、さ、面白い人って、誰?」
「私の主治医の先生」
会ってからのお楽しみなのかと思ったら、案外あっさり教えてくれた。
「病院がこんな山奥にあるの?」
「病院じゃない。先生は、医師っていうか、科学者っていうか、発明家っていうか……まあ、よく分からない人で、研究所に住んでるの」
「研究所に?」
「あ、ほら、見えてきた」
木々の生い茂る中に道があって、少し入ると、その建物が見えてきた。大自然の中に見合わない、巨大で無機質で、まるで愛想のない建物だ。窓も分かりやすい扉もなく壁は真っ白で、天井と呼べるような形状のものはなく、きっと上部も壁と同じに真っ白なのだろう。一言で言えば、閉鎖的な箱のようだった。その圧迫感のある雰囲気に、俺は思わず足が止まった。
「怖くないよ、大丈夫」
そう言って、由岐は俺の服のそでをまた引っ張って歩き出した。
彼女はドアの前でインターフォンらしきボタンを押した。ボタンのうえにはカメラがあり、そこに顔がうつるように由岐は少しだけかがんだ。ほどなくして、ガチャン、と音が鳴る。それを聞いて、由岐がすぐにドアを開けた。
「入っていいよ」
「あ、ありがとう……」
もう正直帰りたかったが、俺はやむをえずその建物の中に足を踏み入れた。真っ白い廊下が続いている。ドアがいくつか見えるが、それも全部真っ白だ。由岐はその息が詰まりそうな“白”の中をなんということもなしにずんずん進んでいって、辿りすぎて覚えてしまった迷路の道順を俺に示した。そしてひとつの、他と何も変わらないドアをノックする。
「ドクター、私。友達連れてきた」
“主治医の先生”に対する言葉とは思えないほどフランクに言い放って、由岐は返事を待たずにドアノブを掴んで開けた。俺はそのうしろから中の様子を覗き込む。
室内は乱雑としていた。思っていたより、狭い。というか、物が多い所為で狭く見えるのだろう。真っ白な壁、天井、床。書類やらなにやらで埋もれたデスクも恐らく白い。診察用のベッドがひとつ。それももちろん飾り気のない白だ。壁にそっていくつも棚が備え付けてあり、それらはファイルや書物でいっぱいになっていた。
「由岐ちゃん友達なんていたのー?」
幼い声。少年とも少女ともとれるような、かすれた気味の悪い声がそう言った。デスクの回転椅子の上にあぐらをかき、散らかったデスクに肩肘をついたその人物は、まるで人間とは思えない容姿をしていた。
「いるよ、ドクターじゃないんだから」
その人と、由岐は自然に会話していた。
ドクターと呼ばれた人物が、大人なのか子供なのか、男なのか女なのか、そんなことは一切見てとれない。メラニン色素のきわめて薄い真っ白い肌と、薄く金色に光る長い髪の毛を持っている。無造作に結わえた髪の毛はまるで人形のように堅そうで、すこし右目にかかっている。座っている状態では判別しづらいが、おそらく背は低いのだろう、着ている白衣はだぼだぼで、手は全く覆い隠されていた。さながら大人の服を着て遊ぶ子供のようだ。白衣の下には黒いシャツと黒いズボン、足は裸足で、椅子の下に黒いスリッパが転がっていた。それもだいぶ大きそうだった。
白い部屋に、白衣を着、白い髪と白い肌を持った謎の人物がひとり。そのなかで最も目を引くのは、彼もしくは彼女のぎょろりと大きな赤い瞳だった。それがこの人物の気味の悪さの要因であるに違いなかった。瞳は人間離れした大きさで、毒々しい赤紫色をしているのだ。この室内で、色みのあるものといえばただ、その瞳だけだった。
「……ふぅん、まあ、さすがに男を連れ込むなんてことは、ないよねえ」
“ドクター”は、俺の顔を見て言った。唖然としていた俺はその声で我に返る。
「あらドクター、失礼よ。彼、男の子。幼馴染の木崎くん」
「ええっ、男の子?」
ドクターは驚いたあとに、にんまり笑いながら椅子から降りて両足をスリッパに通し、両手を白衣のポケットに突っ込んでこちらにスタスタと寄ってきた。ものすごい猫背。背は、しゃんと立っても150センチあるかないかだろう。
「へー、由岐ちゃんより可愛いじゃん」
「そうかもね」
初めて見る異様な人間に急に近づいて来られて、俺は恐ろしくて動機が止まらなかった。そのせいでふたりの会話などひとつも耳に入ってきていない。
「こ……この方が、ゆ、由岐ちゃんの、主治医、の先生……?」
やっとのことで質問した。ドクターはまたスタスタと椅子に戻って座りなおしている。
「そう。見た目はこんなんだけどすごい人よ」
由岐は定型の微笑のまま答えた。俺は彼女に少し寄って、耳打ちする。
「子供に見える……」
「ああ、そうなの。見た目は子供だけど、5年前に手術で私の命を救ってくれた人。私も年齢や性別は知らないの。本人もあんまりよく分かってないみたい」
俺がこそこそと耳打ちしているのに、由岐は完全に本人に聞こえているであろう普通のトーンでそう答えた。それにしても、なにからなにまで嘘みたいな話だ。
「じゃあどうして見た目が子供なの?」
「純粋な人間じゃないから。亡くなったお父さんも頭の良い科学者で、色々人体改造されてるんだって」
「へー……」
納得しようとするほうが高度な技だろうと諦めて、俺は適当に頷いて会話を切り上げた。今は正直ひとつも現実味を帯びていないが、由岐が今こうして生きているということが、このドクターという人物が少なからず偉大な存在であるということの最大の証であろう。
あらためて部屋を見渡すと、
「……ん?」
さっきはドクターの赤い瞳にばかり目がいって、気がつかなかったが、棚の横の、ここからは少し死角になっている隅に、黒い丸椅子が置いてあるのが見えた。そこに、ひとりの少女が座って、棚によりかかって寝ている。俺は人がいると分かってまた一瞬恐怖に襲われた。が、今度は普通の女の子だ。綺麗な黒髪。灰色の着物に、黒い帯を締めて、足袋に黒い鼻緒の草履を履いていることが異質だったが、それ以外は自分と同じぐらいの歳の少女に見えた。
俺は吸い寄せられるように彼女に近づいていった。
近くで見ると、少女の肌はすごく綺麗で、透き通るようで、ばら色の頬をしていた。まつげが長い。決して絶世の美女、というわけではないが、整った上品な美しさがあった。人形のようだ、と思った。
「それいる?」
急に後ろからドクターの声がして、俺は即座に振り返った。
「い……いる?」
「いらないからあげるよ」
「え?」
全く話が読めない。
「気に入ったなら持っていってよ。それ欠陥品なんだよね。だから今もずっと電源切ってそこに放置してんの。場所とるから持ってってよー……あれ? 由岐ちゃん、その人名前なんだっけ?」
「木崎くん」
由岐は淡々と答える。
「あと、木崎くん、それ、アンドロイド。人間じゃないの」
俺はその言葉にしばし硬直し、それからもう一度少女に目をやった。
「人間にしか……見えない……」
「んふふ、でしょー? 僕の力作なんだー」
と、背後でドクターが得意げに鼻を鳴らす。
「これ、ただでくださるんですか」
「え? 金とる?」
「いや、できればただでお願いします」
「いーよ。持って行って。ただしここで電源入れるのはめんどくさいからおぶって帰ってね」
「え……わ、分かりました」
“彼女”を一目見た瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が、閃光が、俺の中に走った。
俺はそっと少女の頬に指先で触れた。皮膚の柔らかさも、人間そのもの。でも、これは人形だ。
恐ろしいことに、一瞬のうちに、俺はこの機械に心を奪われてしまったらしい。

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