なんの前触れもなく、突然目が覚めた。
食べなかった食事が、ドアの前で異臭を放っているのに気がついて、俺はそちらに這っていってそれをドアの外に出した。
廊下は眩しくて、びっくりしてすぐにドアを閉めた。今、何時だろう。窓にダンボールを貼り付けてしまったから、外の光は少しも入ってこない。昼だか夜だか、分からない。
電気もついていない部屋のなかで、机のスタンドライトとパソコンだけが煌々と輝いている。その光に照らされているのは、無数の人形達の青白い肌と輝く毛髪。
パソコンの画面を覗き込むと、時刻は14:16と示されていた。意外と時間がなかった。俺はずいぶん時間をかけて立ち上がって、かなり前から床に落ちていたらしいズボンを履こうとした。トイレも風呂も部屋の真ん前だから、ほとんどまともに立つこともしていなかった。移動さえも。だから、片足をあげてズボンに足を通す作業は久しぶりだったのだ。瞬間的によろけて、棚にぶつかった。そして薄っぺらい布団の上に尻餅をついた。うわっ、とかリアクションをしようとしたけれど、長い間声を出していなかったので、それは音にすらならなかった。棚から崩れた球体関節人形が俺の上に崩れ落ちてくる。痛い。でも、痛い、とも声が出ない。
俺は落ちた人形が破損していないか一通り確認してから、座ったままズボンを履き、パソコンをシャットダウンして、クローゼットの中から適当な上着を羽織った。手探りで手にとったのは黒の柔らかい生地のジャケットだった。たしか、今は春先だった気がする。上着のポケットに財布と鍵を突っ込んだ。ほとんど何も入っていないらしく、財布は軽かった。転がった人形達は、帰ったら綺麗にする。そう思いながら、部屋を出た。
できたら母親と顔を合わさないようにして玄関を出たい、と思いながら階段を降りて、物音を立てないように廊下を歩き、リビングでテレビを見ている母親を尻目に、そろそろと家を出ることに成功した。
この、定期的な通院という行事さえなければ、もっと難なく“引きこもり”ができるだろうに。と思いつつも、俺は律儀だった。外に出るのはもちろん怖かった。でも、行かないのはもっと怖い、というような生真面目さも、俺のどこかにはあった。
家の中も充分眩しかったが、外は更に明るい光に満ちていた。そして、風が強かった。そこで初めて、自分の髪の毛が伸び放題になっていることに気付いた。こんなに伸びているのに、帽子も被らず、結びもせずに出てきてしまった。と、一気に恥ずかしくなる。住宅街に人影はなかった。でも、このまま歩き続けて商店街を抜ければ、嫌でも多くの人間とすれ違うだろう。家に帽子をとりに戻ろうかとも思ったけれど、母親と再び顔をあわせるぐらいだったら、不特定多数の他人の前を歩くほうがましだと思った。
今日は3月25日、ということは、あと1週間ちょっとで誕生日だ。いくつになるんだっけ。17歳か。などと考えながらどんどん坂を下って行った。まあ、17年もよくこんな空っぽの人生を飽きもせずに生きてきたことだ。ぞっとした。
いつになったらこの生活が変わるんだろう。誰かが変えてくれるわけでもなしに、そう思っては、無理だな、死んじゃおうかな、と嘲り笑う。だってもう、17だ。無理だ、きっと。でも、死ぬのも無理。怖い。怖くなかったら病院には行かない。
俺が病院に行くのは喘息だからだけれど、医療技術が発達して、どんな難しい病気も簡単に治るようになったけれど、心の病だけは、そう簡単に治すことはできないままだった。きっとこれは技術の発達に伴わず、ずっとずっと世界に突きつけられる難題だと思う。いろんなやつがいる。この世界には。善人も悪人も、その度合いも色々あるし、目立ちたがり屋も引っ込み思案も、泣き虫も笑い上戸も、根暗も天真爛漫も、いろんな人間がいる。俺はただちょっと、ネガティブなだけ。ただうちの両親は少しだけ仕事が好きで、子育てが苦手だっただけ。その度合いが過ぎて、ネグレクトと呼ばれただけ。両親が離婚したのだって、そうだ。そのちょっとずつのひずみが、運悪く俺からいろいろなものを奪っただけだ。皆可愛らしいもんだ。俺も。
本当に、俺はこの世界が、人間が、気持ち悪くて堪らない。 
俺は診察を終えてその小さな部屋を出た。総合病院には色んな患者がいて、受付はだだっ広くて、皆が声を押し殺しても、ざわざわしていてせわしなかった。蠢くような人の波と目の前に広がる空間に、だんだん俺は心拍が早まってきて、一刻も早くそこから立ち去ろうと、早足になった。
「木崎くん?」
身体中が硬直した。後ろから、その少女の声は、確かに聞こえた。
俺を知っている人間がこんなところに何故いるんだ。いつのクラスメイトだ。今までのろのろと停滞していた思考が、一気にスピードをあげて回転し始める。俺っていつまで学校行ってたっけ? 中1? いや中2? 嘘だろ、勘弁してくれよ、あのときの俺を知っている人間には顔をあわせたくないんだ。思考は回転しながら記憶を辿るが、なかなか出てこない。
「ど……どちらさまですか……」
発した声は、カッスカスだった。
「覚えてないの? 由岐だよ、倉木由岐」
「は……ゆ、由岐ちゃん……!?」
振り返ると、立っていたのは、“死んだ幼馴染”だった。確かにそう言われてみれば、面影はあった。でも、きっと言われなかったら素通りしただろう。
俺にも友達がいた。6歳のときまで。前に住んでいたところの、隣に住んでいた女の子で、確かよく遊んでいた。何をしていたかとか、由岐ちゃんがどういう女の子だったかとかは、あまりよく覚えていない。
6歳のときに両親が別居し始めて、俺は母親の実家である今の家に引っ越したけれど、そのあとも文通のようなことはしていた。でも、それも自然となくなっていって、結局、小6のときに、風の噂で、病気でなくなったと聞いた。それで、俺にとって友達と呼べる人間はこの世から消滅したと思っていた。
「病気で……」
「死んでないよー」
正直彼女がどんな顔をしていたかとか、ひとつも覚えていなかった。そして、今目の前にいる彼女の顔もピンと来ない。彼女は俺より数センチ背が高く、痩せていて、おさげにした真っ黒い髪は、ほどいたらきっと腰まであるんじゃないか、というぐらい、すごく長かった。そして、真面目そうで、少し無機質な真っ黒い目をしていたが、一切掴みどころのない、没個性的な顔立ちをしているせいで、それはひどく冷たく見えた。綺麗な顔ではあった。しかし、特徴も何もないのだ。加えて、淡白な髪型と、淡白な服装が、さらに彼女という自己同一性を殺していた。彼女は低い位置で髪をふたつに結わえ、飾り気のない丸襟のブラウスに、黒いセーターを着て、細かくプリーツの入った灰色のロングスカート、くるぶしまでの白い靴下に茶色いローファーを履いていた。目も鼻も口も、きわめて控えめで、どこがどういう風だ、と特徴をあげてそれを説明するのは難しかった。次会ったときに、ええと、誰だったっけ、なんて言ってしまいそうだ。
「病気、治ったんだ。手術で。でも、たまに病院にも行かなくちゃいけないの」
どこか不自然なほど落ち着き払った語り口は、まるで変わり者というのに相応しかったが、何故だかそれは没個性的な彼女の見た目にぴったりとはまっていた。一言一言、文字を記すように、噛み締めるように、ゆっくりと確実に言葉を発する。しかしそれは筆跡にたとえれば、かなり筆圧が低い。異質なのに、この病院の待合室にずらりと並んだ、何の変哲もないライムグリーンのベンチにさえ、白い壁にさえ、溶けていきそうな平凡さも持っていた。
「そう……すごいね」
一方の俺は、害のなさそうな彼女に、もっとちゃんと話したいのに、出てくるのはそっけない言葉ばかりだった。
「すごいよ。木崎くんはどうして病院にいるの?」
「俺は、喘息で、それの」
由岐は「そっか」と微笑んで、「学校は?」とさらに訊いた。
優しそうで、穏やかで、平凡なのに、彼女には人間ではないような部分があった。俺は直感的に、その無機質さに好意をおぼえた。
「行ってない」
素直に言った。
「そっかあ」
彼女は笑う。笑い方も、なんだかプログラミングされた機能みたいだった。というか、常に彼女は少しだけ微笑んでいた。それが彼女の基本の表情であるかのように。
「偶然会えるなんてすごいね。時間ある? 学校行ってないならいくらでもあるよね。話そうよ、軽くお散歩しながら」
「う、うん、嬉しいんだけど……あんまり長くは」
「そうなの?」
「うん」
彼女は無邪気に俺にそう聞いた。素直に頷いた。その無垢な瞳は、わざとらしいほどに、自然と俺を傷つけることはなかった。
「分かった。じゃあ、私の知り合いのところに一緒に来ない? ちょうど近くだし。面白いから」
半ば強引に、彼女は俺を連れ出した。俺たちは病院を出て、ぶらぶら外を歩いた。長きに渡って歩いていなかった俺の足腰には、序盤ですでに相当響いた。


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