「シュン、少しだけいい? 話したいことがあるの」
里紗はいよいよ身支度の終わった彼に声をかけた。彼との別れも近い。
今の彼女からするとそれだけが一大事だった。遠い未来の心配など今は見当もつかない。ただ目の前の別れが惜しい。すぐにまた会える、そう分かっていても、自分の人生を変えた出会いは、名残惜しそうに最初の別れを引き止めた。
「いいよ」
シュンは真顔のまますぐにそう返した。
「一緒に来て。ごめん、クレア、シュンをちょっと借りる」
彼の隣に座ったクレアに声をかけると、彼女は笑って、
「どうぞ」
と言った。
美しくて強い人。
里紗は出会ったときから彼女はすばらしい女性だと認識していた。人間社会に自ら混じってたくましく生きるその姿が、あまりにも眩しく映った。里紗が学校に行き続けることを決めた要因は、ほとんど彼女であると言っても過言ではない。
この人になら、負けても仕方ない、当然のことだった、と、里紗は敬愛する美しいアイノコの瞳を見るために、その汚い邪念を振り払った。
「出発までには戻るから」
「外ー? 寒くないー?」
と、文句を言いながら里紗の後をシュンがついてくる。
「寒くないわ、もうあったかくなってる」
「まあ……ならいいけど」
ふたりは玄関を出た。空のずっと遠くで宵闇と夕焼けが溶け合っている。暖かいが、風が強かった。
出発の時間まで、あと30分はある。
「どうしてあの時助けてくれたの?」
里紗はぽつりと質問した。彼女は行く先もなく住宅街を進む。その後ろを、一定の距離感を保って、シュンは静かに歩いていた。
「……気付いたら助けてた。人助けなんてするたちじゃないんだ、でもダメだね、助けられるような気がして、次の瞬間にはもう行動に出てた」
「かっこいいね、シュンは」
「まあね」
「前にもこんな会話しなかった?」
「うん」
ケラケラ笑っているのは里紗ばかりで、シュンは時折切ない目で微笑むだけだった。でも、その瞳から、以前のような卑屈な陰りがなくなったように思える。里紗はふと振り返って、そのふっきれたような表情を見て、安心と嬉しさと、同時にぎゅっと胸が締め付けられた。
「ありがとう。お世話になりました」
「いいえ」
「こんなこと言うのは簡単なの。当然のことだし。でも、私それよりもっと、今言わないと後悔することがあって」
ふたりはいつのまにか桜並木の下を歩いていた。
「なんですか」
里紗は泣きそうになるのを堪えながら振り返り、立ち止まった。
「シュンのことが好き」
桜は満開、夜桜が薄汚れた街灯の光に照らされて、白い光を放っていた。その桜吹雪の中に見るシュンの姿があまりにも儚げで、彼女は目を伏せて涙をのんだ。
「春が来たね」
里紗は俯いたまま言った。ぎゅっと拳を握り締める。逃げはしない。こんなことだけで何もかも怖い。でも、彼女は強くなりたかった。
「あなたが“ハル”のままならもっと早く出会えてたのね。あなたが“ハル”なら私の想いが叶ってたのかもしれないって考えたわ。でもそれってすごく嫌な考えだし、運命は私の手ではどうすることもできない」
そう言って、里紗は目をあげた。
「それでもいいから、絶対に好きって伝えたかった」
見れば、シュンはなんとも言えない表情になっていた。悲痛そうな、申し訳なさそうな。
そしておもむろにその口を開く。
「ありがとう」
聞きなれた落ち着きのある声が、大事そうにその一言を発した。
「泣いていいんだよ」
彼は一歩歩み寄って、真っ赤に紅潮した里紗の頬に手で触れた。春が来たのに、彼だけ真冬に取り残されたような冷たい手。
しかし恩人であり、いくら焦がれても手に入らなかったその人のぬくもりは、確かに感じられて、里紗はその手をぎゅっと握り締めて、祈るように包み込んだ。
「ありがとう、私、いますっごく悲しいけど、嫌な気分じゃないわ、不思議」
そう言って笑った彼女の目から、静かに一筋、光るものが頬に優しい曲線を描いた。
「好きって言ってもらえて嬉しかった。でも、里紗には俺なんかよりずっといい男がすぐにでも現れるさ。この先の人生、長いんだから、期待して生きろよ」
「ええ、期待する」
里紗は何度も頷いて笑った。シュンも笑っていた。
「男のことなんかどうだっていいけど、それより、色々頑張れよ。でも無理すんな」
「その言葉そっくりそのままお返しするわ」
突風にあおられて桜が散る。里紗はシュンの髪についた桜の花びらを指でつまんで取りながら微笑んだ。
「言われると思ったけど……里紗は女なんだから人に上手く頼れるほうがモテるぞ」
「シュンもクレアに上手く頼ってね」
「俺が男の風上にも置けないってか」
と、彼は苦笑いする。
「そうかも。でも好き」
「このやろう」
ふたりとも大いに笑って、そしてシュンは彼女の頭を軽く叩いた。
笑いが収まって、息を整えれば、里紗の後ろから突風が吹いてきて背中を押した。
「クレアとお幸せに」
背中を押されて、息を吸い込んで、それから自ずと発されたその言葉に、偽りはない。
「……ありがとう」
その無垢で強い瞳にシュンは思わず目を伏せた。そして数秒間の沈黙を経て、
「帰ろうか」
と、笑う。里紗はそれだけで満足だった。彼の沈黙と、そして自分のためにわざと浮かべた笑顔だけで、もう満たされたような気がしていた。
そしてふたりは桜並木を去り、シュンは東京を去った。
――私の物語は、まだ始まったばかりだ。



里紗はバタバタと階段を駆け下りながらリビングに向かって叫んだ。
「ねえー!! シオンー!!」
「はーい、何? そんな大きな声出さなくても聞こえてるわ」
「ね、変じゃない? これ、平気?」
リビングのドアを勢いよく開けて飛び込んできた里紗は、ぴしっと決まった新品の黒いスーツに身を包み、真っ白い長い髪の毛をきっちりとまとめていた。
「何が?」
「全部!」
里紗は両手を広げて言う。
「大丈夫、やりすぎってぐらいきっちりしてる」
と、エプロン姿のシオンはキッチンに立ったまま答えて笑った。
「えっ、やりすぎ!?」
「変って意味じゃないわ。安心して、すごくかっこよく決まってる」
シオンは娘に歩み寄って、両手をその肩にぽんと置いた。里紗は嬉しそうに笑って頷く。
そのとき後ろのドアが開いて、サキが入ってきた。
「おはよー……おお! ずいぶんぴしっとしたな、ずぼら夫婦の娘とは思えん」
「ずぼら夫婦って、私をいれないでよ」
「なんで、シオン色々適当じゃん」
と、サキはあくびしながら返し、ダイニングテーブルに座ってテレビをつけた。そして、
「はあ……朝だね」
とぼやく。
「朝だね、本物の朝だ」
里紗も頷いた。
日が昇っている。外は明るい。本当に“朝”なのだ。
朝食を食べて家を出、外を歩いていると、里紗の携帯電話が鳴った。
「もしもし」
「もしもし、俺」
シュンからだった。
「遅くなってごめんね、合格おめでとう」
「ありがとう!」
彼女は満面の笑みで声を張った。静かな朝の住宅街に声が響き渡るほどだ。
「新聞にも出てたよ、“国内初、アイノコが難関大学に合格”って。でかく」
淡々とした声には表情もなく、ただそう告げる。
「ああ……見たわ、でも微妙な書き方だった」
「あんなん気にしなくていい」
「気にしてないわ! 誰がなんと言おうと、私は私の目標をまずひとつ成し遂げたってだけのことよ。今に見てろ! ってかんじ」
里紗の足取りは軽い。黒いパンプスの足音は気持ちの良い音を立ててリズムを刻んでいる。
「あとさあ、里紗の苗字って源っていうんだね。初めて知った」
「言ってなかったっけ? サキとシオンが改革のときにつけた苗字よ」
「ふーん。じゃあ覚えとくね。源さんが世界で活躍しだしたら分かるようにさ」
「ええ」
里紗はクスクス笑いながら、
「覚えておいて! 世界中に源の名前を知らない人なんていなくなるわ」
と冗談めかして言い放った。
「……これから入学式なの」
「そう、じゃあこれから頑張ってね。いってらっしゃい」
「うん、頑張る。いってきます」
里紗は電話を切って、走り出した。この先の自分の人生に絡みついた、長年かけて作り上げられた因果の数々を思うと、足がすくみそうになる。
それでも立ち向かっていかなければならない。あえて、彼女はその運命に身を投じ、無関係であるはずの前世たちの思いを背負うことを決意した。
風が背中を押す。1年前と、同じ風が吹いた気がした。



私は逃げない。







ありがとうございました。

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