ハルは、無人の墓地にしゃがみこんで、色あせた白い便箋の遺書を読んでいた。
亡霊戦争が終わってから、故郷であるこの長崎に約1年後に立てられた、アオイたちの墓。アイノコに立派な墓を立てられたのは歴史の中でもこれが初めてだった。実情としては彼らの中だけでどうにかなったかもしれない、東京という大規模な場所を巻き込んでしまっただけの、私的な事情だったにも関わらず、人間たちとしてもアイノコが身を挺して守ってくれたという事実はひっくり返すことが出来ず、結果的に殉職した霊媒師たちのために立派な墓を立てたというわけだ。実質、立てたのはホタルらしいが。国からアイノコの墓を立てる許可が出たことが前代未聞だった。世界的に見ても、初めてのことだろう。
ホタルに宛てた手紙として書かれたアオイの遺書は、彼が死んだ翌日に、ホタルの自宅へ届いたらしい。藍の出現があったにしても、なかったにしても、あのくらいの時を目安に死ぬ予定だったに違いない。特有の、妙に古めかしいだらだらと繋がった筆圧の低い文字は、時々ぐちゃぐちゃに読みづらくなっていた。自分でも書いているとおり、手が震えているようだった。これをいつ書いたのか分からないが、亡霊戦争勃発後からは本当に酒を飲んでいなかった。その精神力が、最後の最後にしか発揮されなかったのがもったいない。
ハルはなんどもなんどもそれを読み返した。なんどもなんども読み返すうちに、ずっと昔、まだ幼い頃に、アオイの仕事中会社に預けられていたハルを迎えに来て、「遅くなってごめんね。帰ろうか」と微笑むアオイの顔が思い出された。ほんの少しだけ、彼にもそうしてまっとうに生きていた頃があった。そうでなくなった後も、たまに昔のように微笑むときがあって、ハルはそれが嬉しかったし、同時に切なかった。だいぶハルが大きくなってからだが、「お前を助けたのが、俺でごめんね」と不可解な文句で謝られて泣かれたこともあった。助けてくれたことには違いないのに、と、当時の彼には理解できなかった。それは彼のいない世界に生きてみてやっと分かったことで、本当にあの頃、異常な感覚の中で生きていたんだと悟る。それでも当時を鮮明に思い返せば、懐かしくて、眩い思い出ばかりに思われた。不思議なものだ。気付けば視界がぼやけて遺書の字は見えなくなっていた。
もう、何度読み返したか分からない。ハルは読むのをやめて、膝をかかえ、腕に顔をうずめて声を殺し、彼を失ったあのときのように泣いた。夜風が吹きつけたが、それは思っていたよりも少しだけ暖かいものだった。
やはり何も変わらない。ハルは過去の自分を全て捨てて生きているような気になっていたが、どうしても、アイノコは時の流れに思い出を風化させることはできないのだ。その現実が悲しく突き刺さった。誰がなんと言おうと、最愛の師を失った喪失感から逃れることはできない。人が彼に関して言うことは理解できるが、だからと言って彼を嫌いになったりできない。長らく閉じ込めていた思いであっても、同じ涙がまた流れる。行く行くは自分も彼のようになるのだろうか、淡い不安が胸をよぎるが、それも大して暗い未来でもなかろうと思えてしまう自分がいた。
一粒ずつ、ゆっくりと量を増しながら、曇りの夜空から雨が降ってきた。
気配を感じる。ハルは目を閉じた。今ここに、すぐ傍に、アオイが現れるのを感じた。彼は姿を見たり声を聞いたりすることはできないが、研ぎ澄まされた感覚で亡霊の存在を感じ取ることはできる。
あの人が嫌いだった雨が降っている。どんな顔をしているだろうか。雨は嫌いだったのに、彼が何か行動を起こすと必ず雨が降った。“雨男は死んでも治らなかったよ”そう言って笑う顔が目に浮かぶが、実際に見ることはできない。ハルはそこで初めて自らの欠落した能力を呪った。今まではそんな煩わしいものが日常的に目に入らないで気楽だと思っていた。でも今、見たいものが見えない。
雨足は次第に強まり、ハルは髪の毛から滴る水滴でついに開けようにも目が開けられなくなった。どんどん体温が奪われていく。しかし、凍りついたようにそこから動けなかった。
「アオイさん、」
雨音だけが煩く響く真っ暗闇の世界から、呼びかける。
「あなただけが悔いだけれど、俺は一応、今生きていて、それだけが証で、幸せです」
もちろん答えはない。真っ暗な、土砂降りの無人の墓地には、ただ、彼一人しかいなかった。
「あなたが俺のために死んだことが、たまに俺を苦しめます、けど……そのぶん生きたいし、誰かを愛したいと思う」
ハルは雨と涙を服の袖でぬぐった。
「俺だけは信じてます、誰がなんと言おうと。あなたのことをずっとずっと、同じ気持ちで慕えるし、信じていられる、俺はアイノコに生まれてよかったです、不運だと誰が言っても、俺はあなたと出会える俺に生まれてよかったです」
前髪をかきあげて、目を開けた。暗い墓地にはやはり変わった様子はなく、誰もいない。そして、それまでここにあったアオイの気配も消えていた。
伝えたかったことは、伝わったと思う。一時に比べると雨は弱くなっている。
彼は夢から覚めた直後のようにぼんやりとしながら、立ち上がって遺書を内ポケットにしまいこんだ。
「シュンー!」
遠くからその名前を呼ぶ声がした。
「ああ……里紗か」
「雨降ってきたらすぐ帰ってきてよ、もう、心配するじゃない」
「ごめん」
彼は上の空で詫びた。
「はい、傘」
里紗はその顔を心配そうに見上げながら、差していた黒いこうもり傘を差し出した。
「ありがとう」
「一本しかなかったの、ごめんね、差して」
シュンが傘を受け取り、ふたりは寄り添って歩き出した。傘に叩きつける雨の音。彼はまだ、頭がぼんやりとしていた。
家についたシュンと里紗が居間に入ると、ちゃぶ台に頬杖をついて、ホタルがスマートフォンをいじっていた。それを横からシオンが覗き込んで何かを見ている。古風な民家の居間でそんな近未来的なものを使っている姿はなんとなくアンバランスだ。ちゃぶ台の向こう側ではざぶとんを枕にしてサキが寝転がって寝ていた。
「雨男がご復活か」
ホタルはシュンの顔も見ずに呟いてにやりと笑った。
「ええ、まあ。一瞬だけ出現したみたいですが、俺には見えないんで」
シュンはタオルで髪の毛を拭きながら答える。
「誰のこと? 雨男って」
里紗の問いかけに、シュンはちゃぶ台のそばに腰を下ろしながら、
「俺の死んだ師匠」
と、彼女に微笑んで言った。里紗は「ふぅん」と頷きながらシュンとホタルの間の角に座る。
「それにしても、皮肉な話だね。彼の名前は向日葵からきてるってのにさ」
里紗がスマートフォンの画面を覗き込むと、彼らが見ていたのは天気予報だった。降雨の予報は、ない。
「というか、そもそも僕らは夏の日にこの家に引き取られたから、名前はカレン以外は夏にちなんでる。カレンはここにきたとき“赤い靴”をはいてたからカレンなんだってさ。笑っちゃうよね……でも全員皮肉な結果に終わったね。波打ち際と寄せる波にちなんだナギサとナナミはその美しい情景を凄惨な事件現場に変えて、アオイは向日葵の“葵”なのに雨男でそれにお似合いの陰気くさいじめじめした人生を送って……豪雨の中で死んだわけだ。僕は縁起の悪い短命な虫の名前をつけられたにも関わらず、ひとり生き残ってしまった」
彼は言い切ると、スマートフォンの画面を指でタップして天気予報のページを消し、ちゃぶ台の上にそれを置いた。
「でも僕は蛍が好きだよ。夏になると庭に集まってくるのを、家族6人で眺めるのが好きだった」
ホタルは懐から煙草を取り出しながら言った。
「アオイも向日葵が好きだった。夏にもしここに来ることがあれば、墓に向日葵でも持っていってやってくれよ」
「はい、是非そうします」
「シオン、お腹すいた」
出し抜けに里紗がそう言ったので、
「そうね、ご飯にしましょう。里紗、サキを起こして」
シオンは笑って立ち上がりながら答えた。
「パパー、起きてー」
と、ホタルがふざけるのを聞いて、里紗が笑い、そしてシュンの後ろから回り込んでサキの脚を叩いて起こす。
なんだか本当に平和みたいだ、とシュンはぼんやり考えた。まるで今まで何も悲しいことがなかったかのように、この世界はどんどん展開していき、またいつ悲劇が起こるとも分からないのに、そんなことは知らないような顔をして笑う。
(あなたが愛せなかった世界は、そう悪くはない)
彼は心の中で最愛の師にそう投げかけた。

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