冷え込む宵闇も深まり、里紗はいそいそと玄関先の自分のブーツに足を通した。ガラリと引き戸を開けると、
「里紗早くしろー」
歩き出そうとする一行の中から、サキが振り返って一声かけた。
「はーい、ちょっと待ってー」
里紗は走って彼らに追いついた。雲ひとつない晴れ渡った夜空には、大きな月が煌々と輝き、一緒に歩く4人の顔も青白く照らしていた。
海辺の町はいつも風が強く、それはいつもかすかな潮の匂いを含んでいた。この町から、全てが始まった。自分を生んだ亡霊戦争の発端の地。里紗にはどうしても自分自身とこの場所を切り離して考えることができなかった。少し、重く捉えすぎではないか、そう思う部分もある。が、ありのまま受け止めればそんな形になってしまっても仕方がない、とも思える。もしも、まだこの生と死が入り混じった世界に改善の余地があるとするならば、その使命は、望んで背負おう。義務ではないにしろ、責任も素質もあるのではないか。彼女は足を進めながら、あいまいではあるが、そう意気込んだ。
いそいそと先頭を進むホタルの口にはくわえ煙草、その杖の足取りにあわせて隣を歩むサキが時たま顔にかかる白い煙からあからさまに顔をそむけた。里紗の隣には、微笑みをたたえながら下り坂を歩み、その優しい目で眼下の町並みを眺めているシオン。
里紗は歩きながら振り返った。
「あくびばっかりしてる」
「バレた?」
と、空気のようになって一番後ろをついてきていたシュンが苦笑いした。強い潮風にあおられて、彼の柔らかい髪の毛がふわりとなびいた。
「昨日あんまり眠れなくって」
「どうして?」
「初めて来るところだしさ」
「そうね、正直、私もあんまりよく眠れなかった」
「長い間住んでいたはずなのに僕も寝つきが悪かったよ」
と、ホタルが口を挟んだ。
「いろんな思いが宿ってる場所だから影響してるんだろうね。だってあの家に住んでた人、僕以外5人とももう死んでるし」
しれっと言い放たれたその言葉に、あとの4人はなんと返せばいいか見当もつかなかった。
「もうすぐ着くよ」
静寂を破ったのは静寂を作った張本人であるはずのホタルの声だった。坂を下りきって、目の前に断崖が広がった。闇夜と藍色の海が溶け合う水平線は光を失ってぼやけ、ただ大きな月と、白波だけが光っていた。
「簡潔に話すよ。ナナミはここから落ちて死んだ」
ホタルは崖の近くまで歩み寄り、言葉と共に短くなった煙草を海へ投げ捨てた。
「それがあの、歴史に大きな爪痕を残した亡霊戦争のはじまりだ。いわば自らのルーツだ、と考えているね? 里紗ちゃん」
里紗は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「ええ、そうかもしれない、って思います」
ホタルは背を向けたまま、一度深く頷いた。里紗はすぐ傍に駆け寄って、崖の下を覗き込んだ。遥か下に広がる海とごつごつした岩肌は、闇夜に包まれて奈落の底のように恐ろしくうごめいて見えた。
「その程度の認識で結構。いや、それが最良かもしれない」
彼はそう言って、里紗を見てにっこり微笑む。
「ミソラというアイノコの青年のことを知っているね?」
「話には聞いています」
「君は正直サキくんにもシオンちゃんにも似ていない。唯一、無関係のはずのミソラによく似ている。その髪の色はもちろん、顔立ちまで」
「私が?」
「そう。ミソラは若くして、愛する人のために戦禍に散った。冥府の女王に直接殺された数少ないアイノコのうちの一人だ。でもね、悲しいことに彼は冥府の女王、ナナミがここから落ちたときに身ごもっていた子供の生まれ変わりだったんだって」
優しい語り口で紡がれるその事実に、里紗はひたすら思考を追いつかせようとするだけで必死だった。
「生まれ変わりなんてあるんですか」
「基本的にはない。ただ、冥府の女王は強い権力を持つ怨霊だった。生まれてくることなく死んでしまった我が子を、自分の子供ではなくなってもいいから、どうかこの世に生かしてやってほしいと、死神に直々に頼んだんだ。死神は、“よかろう、では転生の印に、一目で分かるよう、子供には生まれながらに真っ白い髪の毛を持たせよう”と、答えたかどうかは知らないけれど、とにかくそういうことで、ナナミ本人もそれを分かっていたはずだった」
「だったらどうして殺したんですか?」
「ひとつには……当時、強い霊力の流入によって、空気が全部紫色に染まっていたっていうのもある。くわえて闇夜で、彼の白髪を判断できなかったんだ。ふたつめに、事実に反して、ナナミは自分の恋人に惚れていたカレンに自分が殺されたのだと信じていた。運命っていうのはすごいね、ミソラはカレンの弟子であって、しかも恋人の関係にあった。カレンに復讐するためにナナミは自分の息子であるはずの青年すら殺したんだ。まったく本当に、ひどい戦争だった。部内者の僕からすれば特にね」
自らが黙り込んだその空間の中では、波の音が、鮮明に耳に入ってきた。
「……そしてその凄惨な出来事から、君のご両親はアイノコながら、子供を産んで幸せな家庭を作るという、それまでじゃ考えられないような斬新な“革命”へと一歩踏み出したわけだね。戸籍所得や人権問題云々よりも、そのことこそが一番大きな革命だと僕は考えているよ。現に……君は幸せかい?」
全てを見てきた黒い瞳が、新世代の子に問いかけた。里紗は深く息を吸い込んでから、
「ええ、とっても幸せよ」
と答えて微笑んだ。
「今まではあんまりそうは思えなかったけど、自分がどんなに恵まれてるかは、ハルが全部教えてくれたから」
“彼の会社の先輩たち”に分かりやすいようにハルと呼んだが、それは彼女にとってはやはり馴染みのない響きだった。里紗が知っているのは、その亡霊戦争に歴史の中で、失ったものも守りきったものも、全て捨てて新しい何かを模索し始めた彼の姿だけだったからだ。なにが正しいかは、まだ彼女にも、もしかしたらハル本人にも分かっていないかもしれない。ただ、時を経てもその彼が一個人であることに違いはなかった。
「私には私の幸せを願ってくれる人がたくさんいるから、私は幸せです。単純に、両親がいて、学校に行けるのも、今までアイノコがそんな風に生きられるなんて、きっと誰も想像したことがないくらいすごいことなんだって、つい最近になってやっと理解できた。考え方によっては私は重いものを背負ってる存在なのかもしれないけど、私、幸せだから全然平気です。きっとつらいときは誰かが助けてくれるって信じてるし、私なら、全然知らない亡霊戦争の軌跡だって継いで背負える自信がありますから」
「聞いたかい? 彼女、この中で一番しっかりしてるかもしれない」
里紗の肩を叩いて、ホタルが振り返りながら後ろに立っている3人に言った。一瞬、彼らの中で笑いが起こる。
「いやあ、頼もしい。里紗ちゃんがいると思うとこの老いぼれも逝きやすいね……君が幸せなら誰も文句がないけれど、困難をしょいこむのも、投げ出すのも君次第だからね。だってこの戦争は君が生まれる前に起こったことだし、無関係と切り捨てればそれまで。誰も君を責めたりしないんだから。いくら革命家夫婦の娘だからといって気負いする必要はないんだよ」
里紗は頷いた。
「だが、ひとつだけ僕から言っておきたい」
ホタルは優しげな笑顔から、急に少しだけ神妙な面持ちになって言った。
「冥府最大の怨霊になったナナミは、自分を見殺しにした張本人であるナギサを道連れにして、死神の玉座についた。今もそうだ。ほの暗い紫色の闇の中で、今も死者の世界を治めている。彼らの子供、ミソラ……そして君。三度目の正直だ。生まれてくることが出来なかった死神の子供が、幸せを追い求めて転生を繰り返し――君こそがもしかしたら、死神の末裔なのかもしれないね。恐ろしいことを言うようだが、これほどに絡みついた因果があれば、逃げようにも逃げられない、壮大な運命が君に襲い掛かることがあるかもしれない。もしも、今の幸せが打ち砕かれてしまったら、憎むなら運命を憎むのが賢い。人を恨むな。復讐を誓ってはいけない。上手に人を愛してくれ……僕や、僕の兄弟たちのようになりたくなければね」
彼は最後に意味深な言葉をのこして、「さあ、浜辺までくだって散歩でもしようか」と言いながら歩き出してしまった。里紗は最後にもう一度だけ海を覗き込んだ。足がすくむような光景。
逃げない。
里紗は口を真一文字に結んで、頭に浮かんだその言葉に、静かな誓いを立てた。

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