うつむいている彼女の手を引いて、家にあがらせる。
泣きっぱなしで何も言ってくれないクレアを見ているうちに、カエデは彼女を弟子にした当初のことを思い出して気が遠くなった。本当によく泣く子だったのだ。慣れないうちはそんな小さな女の子を見ていながらどうすることも出来ず、ノイローゼになりかけた。それがまあ、家出なんて、一人前になったものだと思っていたが、案外彼女は何も変わっていないらしく、ほんのすこし安心している気持ちもあった。
クレアは彼がいれたココアを一口、ずるりと音を立てて飲んだ。
「私……帰ってきてよかったの?」
切なげな声が言う。やっと何か言ってくれた、とカエデは胸をなでおろしながら、
「当たり前でしょう、何言ってるのさ。遅いね、遅すぎるよ、帰ってくるのが」
と明るく言ってみせた。
「それから、ごめんね。私まで子供のように意地を張ってしまって、本当に悪かったと思う」
「私を許してくれてる?」
クレアは間髪入れずに尋ねた。その潤んだ大きな瞳に光るまなざしに、カエデは、ああ、自分も歳をとったな、と思った。
「許すも何も……悪いことを何かした?」
「すごく心配もかけたと思うし、家にいた頃も、ろくに話し合おうともしなかったじゃない、私。でも、ずっと待っててくれたのよね。家を出る直前の頃は口も利かなかったぐらいだし、もう、許してもらえないかと思ってた。でも、ずっと待っていてくれたんでしょう? だから、私、なんて言ったらいいか……とにかく、胸がいっぱいなの。涙が止まらないの」
「うん、気が済むまで泣けばいい。待っていたのは当然のことだよ。帰ってきてくれたことが嬉しい。このままお前が二度と帰ってこなければ、それはもう、私に会う資格がないんだと理解して、私から会いに行くことはしないつもりでいたからね。お前に少しでも、一目私に会いたいという気持ちが残っていた、それだけで私は十分だよ」
「……ありがとう」
服の袖で涙をぬぐいながら、クレアはぎこちなく涙に歪んだ声でそう言った。
「じゃあ、私のことを認めてくれた? ……私の選んだ道と、生き方」
カエデは噛みしめるように頷いた。
「お前の決意と根性は見せつけられたよ。辛くなったらいつでも戻ってきてよかったのに、お前からはこの数年間、一通の便りもなかったね」
彼が笑うと、クレアは「ごめんなさい」と肩をすくめた。
「そんなことはいいんだよ、ただ、私はお前のことを少し見くびっていたようだね。思っていたより、お前は何倍も強くて、我慢強くて、勇気があった。いつまでも小さな女の子だと思って、私も心配しすぎるんだよ。親の心も、分かってやってくれないか」
「もちろんよ、でも、もう私は大丈夫。あまり心配しないで……でも、同じことを言われたわ、最近」
彼女はやっと表情を綻ばせた。ほんのりと、頬が紅色に染まっている。
「誰に?」
「シュンに」
「シュンに? 君たち付き合ってるの? 結局のところ」
「まあ……つい最近よ、付き合い始めたのは」
「そう」
なんとなくそれはふたりの空気感から伝わってきていた。先程3人が現れたときに、カエデは直感的にそうではないかと感じ取ったのだ。
「まったく失礼しちゃうわ、カエデが言うならまだしも、シュンまで私のことを子供扱いするのよ。あの人、まるで接し方は私と里紗ちゃんおんなじなの! この前急に“お前、でかくなったな”とか言って」
「シュンもお前の小さいときを知っているから仕方ないよ」
「でも、もう大人よ。大人になったわ。シュンももう分かってるはずよ」
「あ……そう」
カエデは苦笑いした。クレアも少し笑いはしたが、すぐに思い出したように表情が曇った。
「……ホントは私、ひとりで大丈夫なわけじゃないのよ。分かってると思うけど、シュンが傍にいたから、やってこれたの」
急に俯いて、声のトーンを落として言う。カエデの頭には、“例の一件”がよぎる。
「私はほんの小さな……6歳や7歳の頃から、彼のことが好きだったけれど、今はもっともっと好き。たくさん支えてくれたし……助けてくれたから。私は優しい人が好きよ、カエデに育てられたからね」
彼女は顔をあげて微笑んだ。カエデは小さくかぶりを振りつつ、微笑み返した。
「だからシュンが好き。でも、彼は優しすぎるところがあるわ、いいことだけど、ひとりではとてもやっていけないと思う。私たち、お互いがすごく必要なの。自分で言うのもなんだけど、私、結構ちゃんと彼のことを支えているわ。そりゃ、私のせいで少々重いものを背負わせたかもしれないけど……私は悔やんでなんかいないし、シュンがしたことを否定する気は更々ない。むしろ単純に感謝しているだけよ、私まで重荷に感じていたら、彼は押しつぶされてしまうもの……だから半分持ってあげるの。私、きっとあの不幸な優しい人を幸せにしてあげられると思う。ほら、私、タフでしょう? 泣き虫だけど、へこたれないわ。根っから明るいし、過ぎたことは過ぎたこととして割り切れる。でも、理想主義っぽいし、たまに理屈がふわふわしてることもあるから……私たち、足して2で割ってちょうどいいのよ。だから安心して、私たち、欠けてるところだらけだけど、ふたりならとっても強いの。もしかしたらカエデは、二人共のことが心配だったかもしれないけど、安心してね」
「分かった、そういうことなら安心した」
彼は安堵のため息を吐くように言った。クレアのしっかりとした物言いに、カエデはやっと本当の安心を得られたような気がした。長年背負ってきた肩の荷をやっとおろせたのだ。
「それを伝えたかったの。ああ、すっきりした」
「それが聞きたかったよ」
幸せな笑い声が、ココアの香りに乗って部屋中に充満した。



ホタルがその地を訪れるのは17年ぶりだった。亡霊戦争が終わって数週間後に、カレンとふたりで自分たちの実家を訪ねた。あのときは真夏で、真っ青な空には入道雲がどっしりとそびえ、山は青く、虫たちが鳴いていた。故郷の夏は色あせずにそのまま残っていたと感じた。
しかし、冬の長崎は、思っていたよりもっと荒涼としていた。ホタルたちが子供だった頃は、冬ももっと趣があって美しかったような気がする。思い出は美化されていくものなのか。ホタルは暗い色をした海が荒波を立てているのを、“例の断崖”に立って見下ろしていた。
「そんなギリギリに立ったら危ないですよ、ホタルさん」
声に彼ははっとして我に返った。少年の頃に戻ったような気になっていた。
「はは、本当だ。杖がこう、ズリッと、ね」
いつまでも少年のままでいられるような気がしていた。しかし、アイノコとはいえ完璧な“常”を完成させることは不可能だ。
「しゃれにならん」
サキはそう吐き捨てる。
「なんですか、俺だけこんなところに呼び出して」
夜明けが近い薄明かりの水平線が見えるが、彼らの頭上はまだまだ暗かった。さて寝ようか、という時間に外に連れ出されて、サキは相当不機嫌な様子だった。ホタルは振り返って仏頂面の彼に向けてにんまり笑ってみせる。
「明日ここに里紗ちゃんを連れて行ってもいいかい?」
「……いいですよ。ハルから亡霊戦争の経緯は聞いたらしいですし」
「そうか。なら話が早いね」
「俺もこの現場に訪れるのははじめてだ」
「ああ、そうだったね。ここからの景色をよく目に焼き付けておくといいよ……“落ちなかった者”としてね」
サキは答えず、ただ彼の顔をじっと見た。
「君とシオンちゃんはナギサとナナミの対極に存在している。愛の結晶を憂いてここから落ちたのがナギサたち、愛の結晶に希望を託してここに立っているのが君たちだ……まさしく、君たちはその存在に――“落ちなかった者”になりたかったんだろう?」
サキは数歩進み出て、むき出しになった岩肌に白い波が打ちつけているのを覗き込んだ。が、「うわ、だめだ」と呟いてまた数歩下がる。
「高所恐怖症かい?」
ホタルは笑う。
「ああ……そうです、けど、こんなの誰だって怖いでしょう」
サキも笑い返して、
「高所恐怖症は高いところにいるのが怖いんじゃなくて、落ちるのを想像するから怖い」
と続けた。
「皆が皆、ここに立っていてただ空だけ見上げていたら、何も考えずに生きていられます。けど、誰かが落ちていくのを見たら、自分も落ちていくところを想像する。だからそんなギリギリの危ないところには立たない。ホタルさんホントにもうちょっと下がってください」
「君さっきから心配しすぎだよ。大丈夫だって」
「……俺たちがしてるのも同じことなんです。ナギサさんたちのことがなければ、そんなことは考えずに生きていたかもしれない。彼らの一例があったからこそ、こうして用心深くなって幸せを死守しようと奮闘しているにすぎないってことです。人類の歴史は……誰かが間違わないと正しいほうには進んでいかないんですね。その犠牲がどんなに痛くとも、悲しくとも」
強く冷たい風が、延々と終わりなく吹きつけてくる。ホタルは鼻を鳴らして笑った。
「結局遺された側としてのプレッシャーが重いってことだろう。サキくん、ひとつ言っておくけれど、そうやって君が苦しむのは勝手だが、あまり里紗ちゃんにそうやって重圧をかけないことだ。彼女は察しがいいし、勘も鋭いから分かってしまうんだよ。両親がどんな思いで自分を生んだのか、育ててきたのか。だからサキくんやシオンちゃんが直接的な言葉で言い聞かせなくても、自分が戦争で犠牲になった全てのアイノコの魂を背負っているんだって考えるようになっていってしまう。真面目で責任感の強い子だからね。考えてもみなよ、実際に戦争を体験したわけでもないのに、“知るかよ”って話だと思わないかい? ……霊媒師になりたいとか言い出したのも、結局は自分たちの責任だと自負したほうがいいと思うよ」
彼の辛辣な言葉に、サキは何か言い返そうとしたが、何も出てこなかった。非の打ちどころがなかった。
「でももともとそういう目的で彼女を産んだんだから仕方ないといえば仕方ないね。ならば、もう里紗ちゃんの運命は生まれたときから決まっているようなものだ。君たちの革命を引き継いで新時代を創設する……それが彼女に課せられた使命だ。他に選びようがない。革命家の娘は大変だね。これが人間の問題ならまだどうにかなったさ。でも僕らの場合は違う。自分たちが何も変わらない生き物なのに、何かを変えようなんて大それてる。君たちは本当によくやったよ。十数年とかそこいらで、憲法までひっくり返した。まあ、人間相手だったからできたけどね。しかも日本は先進国で人種差別も基本的にはない。でも……アイノコ内で何かここから、たとえば派閥をなくしていくとか、そういうことになるとまた話は大きく違う。大変なこった」
「俺を無責任だと、」
「そういう意味じゃない。100年も生きられない僕たちや人間たちが途方もない人類史に対して無責任なのは仕方ないことだ。それに対して、君は責任を持って行動した部類だとは思うよ。亡霊戦争後の17年は平和だったし、良い方向に転がったじゃないか、君の手で」
夜明けの薄明かりの中で、ホタルは目を細めて微笑んだ。その意味深な表情で、サキは予測していなかった畏怖に襲われる。
「要は、まだまだ課題は山積みってことだ……里紗ちゃんたちの世代には苦労がかかるだろう。無論、彼女たちがより良い未来を目指すなら、の話だけれどね。それでも、君たちに彼女の進む道を、人生をとやかく言う権利はない」
「それに関しては、反省しています」
「まあ彼女の好きなようにさせて、間違いはないと、僕は思うよ。加えて、彼女には知る権利もある。僕らは次世代に伝える義務がある。そういうわけで彼女をここに連れてきたんだ。その主旨に関してだけ、理解してほしい」
「はい、勿論」
ホタルが満足げに頷いたときには、もうだいぶ空も白んできていた。
「さあ、冷えてきたね。長々と悪かった、戻ろうか」
白い息が昇って、へらへら笑いと一緒に消える。ホタルは断崖に背を向けて歩き出した。サキの横をゆっくりと通り過ぎる。足元から遥か下の渚には、寄せては返す波が無限の繰り返しを続けている。
サキはその静寂に踵を返し、杖の男の後を追った。


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