ハルは面と向かって言われると、なんとなく気恥ずかしくなって目を伏せながら訊いた。
「そう言っていただけると嬉しいですが……どうしてですか?」
「どうして、って。そんな野暮な質問されると……いやあ、本当に、君は本当に変わっていないね」
ホタルはしみじみとそう言って、何度も頷いた。
「でも、僕はこういう性格だからそんな質問をされても文句は言えまい。覚えてるかい? 君がアオイに助けられた日のこと。幼い君をひとり家に置いていく訳にもいかず、アオイはここへ君を連れてきた。僕はそりゃあびっくりしたさ。アオイがそんなことするなんて思いもよらなかったからね。そのうえ彼がまっとうに人を育てられるとは思えなかった。だから彼に提案したんだ、僕が引き取ってやってもいいんだよって」
「ああ、そんなこともありましたっけね」
「僕の提案に対して、アオイは自信がないのを隠して“ちゃんと面倒を見る”の一点張りだった。僕はいつもいつも薄情だと言われるけどね、そのときばかりはしっかり人の情ってもんが働いたさ、君の身の安全を考えた。考えた結果、僕が預かったほうがいいという結論に至った……んだけども、決め手は君自身の決断だったよ。僕とアオイが延々言い争っていたら、君がアオイについていくと言ったんだ。いくら子供とはいえね、自分でそれを選んだんだからもう僕は君に何があろうと助けてやらない、そう決めたのさ」
「そうだったんですか」
たとえ相手が子供でも、ホタルが結局人の身を案じ続けることはできないのは、本人も含めて誰しもがわかりきっていることだった。しかし、後々考えても、自らのその判断にそれほど後悔はしていない、とハルは思った。アオイとの生活に、不満などなかったのだ。
「でもね、少し惜しかったなと思ったんだよ。そのあと君が思いもよらぬ才能を発揮しはじめたからね。気付けば希代の天才剣士、そのうえ性格も優しく奥ゆかしい、静かで忍耐強く、努力家ときた。反面教師ってやつだ。あの男が育てたとは思えないね。僕が預かっていたら、どうなっていたか分からないが、そんないい子なら是非とも弟子にほしかった。いや、君は僕の弟子も当然だ。僕の兄弟の弟子なんだから。だからね、当然君に戻ってきてほしかったに決まっているだろう? そういうことで納得してくれるかい?」
ホタルはそう言って笑った。
「はい、すみませんでした」
が、ハルの微妙な表情に気付いて咳払いする。
「……君にそういう感覚はないんだろうが、世間は君を可哀相だと思っているよ」
「そうかもしれませんね。でも、分かりません」
「アオイは君を助けることで、自らの道を正そうとした。それが上手くいったらよかったんだけどね、最初のうちはちゃんとしてたけど、長くは続かなかったようで……君が新しい傷を作ってくるたび、僕は内心“そら見ろ”と思っていたよ」
平気で冷酷な本心を告白する人だ、とは思ったが、それに対して怒りのような感情はまったく湧いてこなかった。そのリアクションを見て、
「仕方がないことだろうが、君は大幅に勘違いしている。あんなものは愛とは呼べない」
ホタルはきっぱりと言い放った。しかしそれが何を指しているかは、曖昧だった。
「あんなもの、とは」
「君は一人目の師匠には忌み嫌われて邪険に扱われていたらしいね。そして二人目の師匠、アオイは普通のときは優しくとも、頻繁に家を空けてそのままずっと帰ってこない、帰ってきても大抵酔っ払っていて君に暴言を浴びせ、暴力を振るう……そのどちらも、実際にどんな感情が働いているのかよく分からないんだろう。君には愛と憎悪の違いすら理解できていないはずだ。そんな君に、アオイが抱いていた微妙な感覚が理解できるはずもない」
そう言われると反論はできなかった。ハルは黙っていた。
「アオイは君という存在にただ甘えていただけだ。自分を許さない存在がほしくて君を助けたのに、君は彼の全てを許した。寛容というよりは、向けられた感情を正しくインプットできない君は、必要とされることだけを望んでいるもんだから、互いに溺れる以外に辿る道はなかったようだね。そんな依存は愛とは呼べない。そう言いたかったんだ」
「本当の愛を知らないから、可哀相だってことですか?」
「そう、結論としてはそういうことだ」
ホタルはにっこり笑うと、声のトーンを変えて問いかけた。
「その、カエデの弟子とは恋仲なのかい?」
「え、ええ、まあ。一応」
ハルは動揺しながら答える。ホタルがそれを見て一層笑みを深くしたのには、いくら十数年ぶりの再会とはいえ、さすがに不快感を覚えた。
「自分でも気付いているかもしれないけれど、命レベルの貸し借りが連鎖しているね。アオイが君の命の恩人になり、君が彼女の命の恩人になった。彼女の気持ちは痛いほど分かるんじゃないのかい?」
「まあ、そうですね。でも彼女は俺とは違って、そんなことに固執するタイプじゃないですから安心できます。俺に対する接し方も、ずっと同じだし、命を助けられたからって、自らの権限を殺すような……そんな、俺みたいに空虚な人間じゃないんです」
ホタルは鼻を鳴らして笑った。
「ならよかった。そこだけちょっと心配だったんだ。でもそういうことなら安心した。少し喋りすぎたね、僕だって暇じゃないってのにさ。ついつい話しが盛り上がっちゃった。最後にこれだけ渡しておこう」
彼は懐から何か取り出した。白い封筒だった。
「これ、君にあげるよ。僕が持っていたって仕方ない」
ハルは立ち上がってそれを受け取った。見る限り、ホタル宛ての、アオイからの手紙のようにしか見えなかった。
「アオイの遺書だ」
その言葉を聞いて、封筒を持つ手が凍りついたようだった。この場で開けるなどもってのほか、手に持っていることすら怖かった。それがどうしてだかは、本人にも分からない。ただ、全身の血の気が引いた。恐怖という感情が一番近かったが、それではない何かだった。
「くださるんですか?」
「いらない? いや、僕宛てで送ってきたんだけど、これはハルくんが持っていたほうがいいと思って」
「い、いえ、いただきます」
「うん。それからね、これはちょっとした提案なんだけれど、今度の土日に、長崎の僕の田舎に帰ろうと思ってるんだ。兄弟たちの墓参りにね。君も一緒にどう? 里紗ちゃんや、サキくんたちも一緒にさ」
「あ……はい、是非ご一緒させてください」
約束を取り付けて、社長室を出た。頭はぼんやりとして、自分がどこにいるのか、どの時間にいるのか、一瞬のうちにタイムスリップやワープを体験したような気分になっていた。夢を見ていたようだ。
またここに戻ってくるなんて、そんなことが自らの人生で起こりうるとは、正直思ってもみなかった。
そして、手の中にある白い封筒。彼の遺書。
ハルはそれを上着の内ポケットにしまいこんで、廊下を歩き出した。


「里紗!」
優しい呼びかけに振り返ると、応接室に向かう里紗とサキの背後に、仕事を終えて事務所に帰ってきたシオンの姿があった。
「シオン、」
「おかえり」
微笑んで娘を抱きしめる彼女の洋服からは、冷たい外気のにおいがした。
「……ただいま」
「はあ、外寒かった」
「また雪振りそうでやばいからな、今」
と、サキ。
「やだなー、東京だと下手に歩道がつるつるになって、走ったり出来なくなるのよね」
「走んなきゃいい。もうこいつも帰ってきたんだしさ」
彼はそう言って里紗の肩をたたいて笑った。
「あ、そうだ里紗、ホタルさんが長崎一緒に行こうって言ってるけど、行く?」
「えっ」
唐突な問いかけに、里紗は一瞬戸惑った。
が、すぐに、長崎がホタルたち兄弟の故郷であることを思い出す。
「戦争の話、してくれるの?」
彼女は恐る恐る尋ねた。シオンは苦笑したが、快諾するようにすぐ頷いて、
「そうね、今まで全然話さなかったのは、よくなかったって思ってるわ」
と言った。
「ホタルさんもきっと色々話してくれるだろうよ……それから、里紗も、ハルと過ごした時間に何があったか、教えてくれよ。お前が何を見てきたか、あいつに何を見せてもらったか、俺たちも知りたい」
今度は里紗が微笑んで頷いた。
「もちろん。すごく楽しかったのよ、全部話すわ」
なんだか、もう遠い思い出みたいだ、と彼女は感じていた。すごく昔のことのように思える。彼への恋慕も、あっさりと訪れた失恋も、リアルにそこに存在しているわけではない、心地よい陶酔を伴うノスタルジアのようだ。確かに少しほろにがい、が、もう色褪せてしまって、痛みが鮮烈に蘇ることはない。美しい思い出、と言い切ってしまうのが相応しかった。
失恋だけではない。シュンと出会って体験した全てのことが、まるで自分自身の中にどんどん吸収されていって、それは目の前に映し出されるスクリーンではなく、体内に取り入れて血となり肉となる食物のようだった。アイノコに、そんなことがありえるだろうか。
少なからず、彼女は自分が変わっていっていると気付いた。ありえないと思っていたが、確実に、吸収された思い出が、自らを強くしている。変化させている。成長させている。
なるほど、自分は自分に対して少々諦めすぎていたかもしれない。彼女は思った。アイノコだからと言って、経験が無駄になることなどない。そこで初めて、父親に言われた言葉の意味が理解できた。
「サキ、シオン」
里紗は、また彼女が苦手とする“真面目な話”を、両親に持ちかけた。
「私、頑張って学校に行くわ。大学も、できるだけいいところに入りたい。でも、最後には、絶対に、霊媒師になるから」
ふたりは、驚いたような顔をしていた。が、家出する前のような、怒りや戸惑いは、その瞳の色から見て取れなかった。ふいに、ふたりは視線を交わして少し笑う。頷く。穏やかなふたりの様子に相反して、里紗の心臓はどんどん高鳴っていった。
「言ったな? 絶対叶えろよ?」
そう言って里紗の頭をわしわしと撫でたサキの笑い顔は、まさしく3人ともが求めていた心地よい友情を体現するものだった。親子であり、家族でありながら、永遠の少年として生きる彼らにとって、それが一番しっくりくる愛の形に違いないのだ。


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