国営霊媒会社の概観は、里紗にとってはやはり何も変わらない風景で、そしてシュンにとっても何も変わらない風景だった。きっと、内部も何も変わっていないだろう、いっそのこと、大きく改装されていたら、視覚的にはずいぶん気が楽なのにな、と彼は思った。
自動ドアを抜けて、ロビーへ入る。その瞬間に、里紗の目には時計を気にしながら落ち着かない様子で誰かを待っている長身のアイノコの姿が映った。
その目が、静かに娘の姿をとらえる。
父親は無表情だった。いつも里紗に向けていたような優しい笑顔の、親の顔ではなく、職場にいるときのきりりと引き締まった精悍な顔つきだった。里紗はそれを見て、あ、怒っている、当たり前だけれど、怒っていると即座に思い、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。が、今までとは違うんだから、もう逃げない。彼女は自分に言い聞かせた。きっと、シュンと過ごした2週間余りの時間が、背中を押してくれる、と。
里紗が意を決して、サキに対して言葉を投げかけようとした瞬間、
「ちょっと待て、里紗」
と、それをサキが制した。
「こいつも一応俺の息子みたいなもんなんだ、しかもお前の2週間とは比べ物にならん。17年も“家出”してやがった。まず怒るのはこっちからな」
隣で「えっ」とシュンが思わず声を漏らした。里紗は絶句、拍子抜けした。帰ることを重く捉えすぎていたかもしれない。サキはいたって、明るかった。
「なんだよ、怒んねーよ」
彼は笑う。そして、まだ戸惑っておどおどしているシュンに向けて両手をひろげた。
「おかえり、ハル」
「す、すみません……」
確実に抱擁を求めているサキに、シュンは何故か謝って視線すら逸らした。
ハル。
里紗はなんとなしに推測する。それがここで働いていた頃の、シュンの名前なのだろう。そこで初めて気付いた。シュンは“春”の音読みだったのだと。
「……なんだよ。せっかく再会できたのに、喜べないのか?」
サキが残念そうに両手をパタンと下ろした。
「いや、そうじゃなくて……」
シュンはやはりはっきりしない。
「ふん、まあいいや」
サキはそう言って笑って、彼の頭を乱暴に撫でた。見ていてなんとなく、里紗は安心した。よかった、シュンにも帰るところがあった。しかも、それが自分と同じ場所だった、と。
それならいつまでも、シュンとも、クレアとも、つながっていられる気がした。
「ホタルさんとこ行ってこい。まあなんとなくは言ってあるから。あの人にも」
「は、はい!」
シュンが無意識のうちであろうか、自然にそのとき敬礼した。
「こんだけずっと離れてても、この会社に戻ってくると習慣が復活すんのか……」
サキは去っていく後姿を見ながら呟く。そして、くるりと里紗のほうに振り返った。
「おかえり、里紗。ごめんな」
そう言ったサキの顔は、いつもの優しい表情だった。優しいけれど、少し寂しそうではあった。
「ううん。こっちこそ、ごめんなさい。色々ひどいこと言って」
「俺、里紗がいないあいだに色々考えたよ」
「私も色々考えた。シュンにも色々教えてもらったし」
「シュン?」
「あ……ハル、の新しい名前」
「……へぇ」
サキにも彼女と同じく、シュンに関して疑問はつのるばかりのようだった。
「ねえ、シオンは?」
「まだ仕事。もう少ししたら来るよ。それまでどっかで待ってよう。な」
「うん」
里紗はサキのあとについて、ロビーをあとにした。両手をポケットに突っ込んで、がに股で歩くその無骨な後姿が、たったの2週間離れていただけとは思われぬほど懐かしくて、彼女は人知れず、ちゃんと帰ってこられたことに感謝した。



2回、ノック。
「はいはーいどうぞー」
“へらへら笑いの男”の声は相変わらずのん気な風に聞こえる。孕んだ闇も、感じさせない。
「失礼します」
シュン、もといハルの声は、震えていた。
社長室のドアを開けると、あの頃はリンが座っていた大きな寂しいデスクに、髪の毛が真っ黒く変わったホタルが座っていた。
「久しぶり。よく生きてたね」
意地悪そうな口角の上がり方。ストレートの伸びかかったような黒髪には驚いたが、それを除いて、彼に変わった様子はなかった。
「お久しぶりです」
「そのへん適当に座って」
「はい」
ハルがソファに座ると、ホタルがデスクからゆっくりと立ち上がった。ふと見ると、その手には黒い杖が握られていた。
「これねえ、ちょっと前に仕事で足をやっちゃって」
「大丈夫なんですか?」
「ははっ、歳だよ、歳」
不安定なリズムを刻みながら歩いてきて、ホタルは彼の正面に座った。
「いくら肉体も老いないからと言って、実情では確実に朽ちてゆく。まあ、僕なんてきっと煙草の吸いすぎで呼吸不全か何かで死ぬだろう」
彼がチェーンスモーカーであったことが一瞬にして思い出された。喫煙所でサキと談笑する姿、いっぱいになったホタルの灰皿、たまにしていた喫煙者独特の咳。断片的な記憶が脳裏を流れていく。
「君も気をつけたほうがいいよ。死ぬまで若いんだからって思って生きていると、ガタが来るのが早い。君なんか特に昔から無理ばかりするタイプだったからね」
「気をつけます」
「それはそうと、この17年、いったいどこで何をしてたんだい? 僕は何も聞いていないんだ」
「アオイさんの旧友で、イギリスにずっと住んでいた日本人のアイノコのカエデって人をご存知でしょう、彼がアオイさんの生前に頼まれていたらしくて、俺を迎えに来ました」
「カエデが? 待ってくれよ、彼はつい先日にも僕と会っていたけど、何も言ってなかったよ」
「すみません、それは……俺が何も言わないでくれって、頼んでて」
「あっそう。それで?」
その言い方はだいぶ投げやりだった。
「そのときには俺は肺炎にかかっていたらしくて……カエデと一緒にイギリスに渡って、すぐに入院できたからよかったものの、もう少し遅かったら危なかったらしいです」
「当たり前だよ、いまどきあんな派手な喀血はドラマですら見ないってサキくんが言ってたぐらいだ」
と、ホタルは笑った。
「それからしばらく彼のもとで療養していました。数年で日本には戻ったのですが、しばらく兵庫のほうに」
「だから、それがなぜなのか訊きたいのさ。どうしてここに戻ってこなかったんだい? 安否も知らせず」
「病室を抜け出して、その……あんなに心配してくれた皆さんのことを省みなかった俺に、帰る資格があるのか……迷って、それで……なかなか決心がつかなかったんです。それは、本当に……すみませんでした」
ハルは途切れ途切れにそう語った。それだけで心臓が止まるんじゃないか、というぐらいに胸が締め付けられる思いだった。それほどに、彼にとってここで過ごした日々は重かった。
「ふん。でもそれだけじゃないんだろう? 帰れなかった理由」
ホタルはにやりと笑った。この男はやはり鋭い。すべてを見透かしているようなその鋭い眼光が、ハルには今まで以上に恐ろしく感じられた。
「……はい」
彼にだけは、昔から絶対に嘘を吐くことはできなかった。
「ホタルさんは俺の能力をご存知だ……隠し通そうったって、無駄ですね」
ハルは深呼吸してから、話し始めた。
「カエデの弟子のクレアという女の子が、師弟間の仲たがいをきっかけに、家出して日本へ来ました。俺が兵庫へ住み始めてから数年後のことで、俺がどこに住んでいるのか知っていた彼女も、俺を頼って兵庫に来ました。彼女は俺の住んでいる近所にアパートの一室を借りて住み始めて、俺ともずっと交流が続いていたんです。でも、ある日、クレアが純血至上主義の過激派……いわゆるアイノコ狩りの人間たちに誘拐されて。それを助けに行ったときに……」
「勢い余って死神の手下の能力で人間を殺してしまった、と?」
ハルは黙って頷いた。
「なるほどね。自らの罪で、さらにここに戻る資格を失ったと考えたわけか」
「それもあります。でも、何より、皆さんにとっては死んだも同然の自分が、そんな複雑な事情を抱いてここに戻ってきたところで、迷惑をかけるだけだと思ったんです。それが一番の理由です。とはいえ……本当の一番は、俺の勇気がなかったからかもしれない」
ハルの言葉に、ホタルは何故かくすくすと笑って、
「ふたつ否定させてもらおう」
と、指を二本立てて見せた。
「まず、君はアオイのところに来た時点で複雑な事情にがんじがらめの状態だったじゃないか。くわえてアオイみたいな厄介者につかまったわけだし」
本人はもう死んでいるというのに、まだそこまで言うか、とハルは若干苛立ちながら愛想笑いを浮かべて頷いた。
「人間の一人や二人、正当防衛で殺した程度、そもそも君の命に絡みつく縁のちょっとした端末にすぎないじゃないか。はっきり言わせてもらうが、君が自分の人生の展開を恨むようなことがあれば、それはすでに遅すぎることだ。恨むべき根本は生まれたときにはもう存在していたんだから。分かるかい? 人と違う能力なんかただの呪縛だ。ナギサやカレンだって、自らの能力の底なし沼にはまって、あんな末路を辿った。とりわけハルくんは根が異常なほど優しいからね……いつかそうやって、死神の手下としての能力が首を絞めるんじゃないかとは思っていたさ」
ホタルは咳払いしてから続けた。
「それで、もうひとつ。僕が君の立場なら、迷わず死神の手下になっただろうね。そこでこの世界に残ることを選んだ君は憎らしいほどに勇敢だ。良く言えば、ね。悪く言えば、君は自分のために生きることが分からないんだろう? 目的がないと道に迷って、気力も失い、歩けないんだろう? ……ああ、17年も会っていなかったんだ、君に言いたいことが山ほどある。ともかく、僕は君がまさか生きているとは思わなかった。なぜだか分かるだろう、君の道しるべ……いや、この世に縛り付けようとする拘束は死んだからだ」
「……確かに、カエデに出会ってもしばらくは、これ以上生きていようなんて思えませんでした」
ハルは今にも胸がつまって息が出来なくなりそうだった。何年の年月を重ねても、“彼の死”は何にも勝ることのできない、一番の衝撃で、一番の悲しみで、一番の記憶だった。
それをこのデリカシーの欠片もない男にむしかえされては、やるせない。
「でも生きていたね」
ホタルは微笑んだ。
「だから言いたいことは分かるだろう? なにかとぐだぐだ文句は言ったが、結論として僕は君に帰ってきてほしかったんだ」
しかしながら、恨みきれないのはこういうところだ。
ハルは血も涙もないかつての上司に、そう思って照れたように笑い返した。


back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -