親と真面目な話をすること自体、あまり好きではなかった。いつも友達みたいに笑って話せる間柄だったから、真面目な話をするのはなんだか悲しかった。
しかし、そのとき彼女は意を決して“話がある”と持ちかけたのだ。
「もう、本当に学校に行くのが嫌なの」
両親の表情がピタリと固まった。
心配をかけるのが嫌で、今まで何も言えなかった。
やっぱり、言ってみれば、押し寄せるのは苦い緊張とわけのわからない自責の念。どうして自らを責める必要があるだろうか? 彼らの望むような娘になれなかったから? 両親に心配をかけているから? それとも、自分で自分を、“戦争から生まれた新世代”にふさわしくないと判断しているからかもしれない。
そう思うと、里紗は悲しかった。自分の価値とはなんなのか、分からなくなっていった。
「ど……どうして?」
無理やりに笑顔を作って、シオンが里紗に訊いた。
「勉強も、体育も楽しいから好き。でも、皆は人間だし、私とは違うし……ずっと皆、私をいじめたりハブったりしているけど、それは、私とあの子達は違うんだから、私はあの子達を悪いとは思わないわ。でも……つらい」
サキもシオンも、何も言わない数秒間が、里紗には永遠のようにかんじられた。
「いじめられてる、って……いつから」
サキの問いかけが、静かに沈黙を破った。
「小学校のときから、どこへ行っても、ずーっと。勉強が好きだから我慢してこられたけど、でも、もう無理なの」
「どうしてもっと早く相談しなかったんだ?」
サキの声はいつものように優しかったが、それがまた、彼女の心には刺さるようだった。わけもわからないまま心の中では、ずっとふたりに謝罪を続ける。何を謝っているのか、自分でも分からないが、何が何でも、両親を不憫に思った。
「ふたりに余計な心配かけたくなかったの。それに、これまでは、学校に行く意味があったから、そんなに辛くなかった」
「今は意味が感じられない?」
サキはさらに訊いた。
「前に比べるとね……あのね、私、」
本当に重要なのはここだった。いじめられていることなんか、正直どうだっていい。事実として、いじめなんてなんとも思わずにやってきた。勉強だけが生きがいだった、中学時代なんかは特に。今も勉強が生きがいのままなら、きっと学校をやめたいなんて言い出さなかっただろう。
本当に学校をやめたい理由は、他にあるのだから。
「サキやシオンと同じに、霊媒師になりたいの」
また、沈黙。ふたりはゆっくりと顔を見合わせ、そして、
「……本気で言ってるのか?」
と、サキが不安げな声で言った。表情には驚きと落胆が浮かんでいたが、里紗はただ深く頷くだけにして、何も言わなかった。
「悪いけど俺たちは反対だ」
彼は取り繕って微笑み、足を組み替えた。
「今まで、俺たちの種族はな、霊媒師になる以外に選択肢はひとつもなかったんだ。話したろ?」
「分かってる」
「お前には学がある、ってことは可能性がある。こんな狭い世界でしか生きられない俺やシオンや……ホタルさんとか、あとはあの戦争で無念のうちに死んでいったやつらとは違うんだ。里紗は頑張ったら人間と同じように、どんな社会にも渡り合えるんだよ。この世界の主要な骨組みにだってなれるかもしれない……今はそういう社会なんだ。俺たちがそういう社会にしたんだ。だから里紗には、名前に漢字があるように、戸籍があって、人権があって、この世界に公的に生きる権利がある。俺はその可能性を無駄にしないでほしいって言ってるんだ。分かってくれるよな?」
「サキの言ってることはすごくよく分かってるわ。それでも私は、人間みたいに生きるってことに、興味がわかないの。私は戦争以前の私たち種族の歴史には興味があるし、霊媒師の仕事もすごく魅力的だと思ってる……これは大きな裏切りかもしれないけれど、やりたいことは絶対にやりたい。諦めろなんて言われても、絶対に従えない。選択の自由があるなら、古いほうと、新しいほう、どちらを選んだって許されるはずよ。人間みたいに生きることをえらぶ子も、きっと今の世の中たくさんいると思う。でも、私はこっちを選びたいの」
「学校でのいじめのことは、これからよく話し合ってだんだん解決していけば、どうにかなるわ」
シオンが落ち着いた声で話し始めた。
「表向きに私たちの種族が差別されてた時代はもう終わったんだから、きっと学校側もちゃんと分かってくれる。そうしたらクラスの友達関係だってどうにかなるんじゃない? だから」
「私別に、いじめられてるから学校に行かなくて済むように霊媒師になりたいなんて言ってるんじゃないのよ」
里紗はあえて強い口調で彼女をさえぎった。もちろん胸はキリキリと痛んでいた。
「私もう17よ? 普通なら、普通、私たちの種族なら、もう仕事をはじめる歳でしょ? 高校に入ったぐらいで気になり始めたんだけど、さすがにもう遅いかなって、色々悩んだの。でも、一応いつまでも身体は若いままなんだから、少しぐらいの遅れは取り戻せるんじゃないかって、あせったらどうにかなるんじゃないかって、思い始めた。だから、学校をやめて今すぐにでも霊媒師になるために訓練を受けたい。だから学校に行くのが嫌なの。あそこにいたって、私の夢にはひとつもつながらないのに、すごく不毛な時間をすごしてる気分になるし」
「そんな馬鹿みたいな理由で学校をやめるっていうのか」
そう突然サキに言われて、里紗はカッと頭に血が昇った。そこからは、さきほどまでの罪悪感もどこかに消し飛んだようだった。
「馬鹿みたい!?」
「お前は学の貴重さを分かってない。今まで俺たちの種族は学校に通うことはできなかったんだ。それをそんな簡単にやめるなんて言われたらこっちだってやるせないよ、里紗はせっかく頭もいいんだし。中学、高校と名門に通えているんだよ、それは自分でも誇りに思えてるだろ? このまま頑張ったら霊媒師なんかになるより何倍もすばらしい未来が待ってる。霊媒師なんか苦しいだけの仕事だ、他に生きるすべが見つからないときに仕方なくやる職業なんだ。それをわざわざ選ぶってーのは……少し考え直したほうがいい」
サキの声も、さっきまでの取り繕った優しさが消えて、単に必死そうなものに変わっていた。
「簡単になんて言ってない!」
里紗は思わず立ち上がって怒鳴った。
「ちゃんと考えて言ってることなの! 1年以上ずっと悩み続けて、今それをやっとふたりに打ち明けたのよ!? そんなふうに頭ごなしに否定しないで! 絶対に、決めたからにはやる。私の未来をサキとシオンにとやかく言われる筋合いはないわ……ていうかだいたい、親だとか先輩だとか言うけれど、心の年齢は私と一緒じゃない。私にあんまり上からものを言わないでよ」
「おい、里紗。その言い方はないんじゃないか? 確かに俺たちだって精神的に老いることはできないけど、お前の数倍の年数を生きてるんだ。経験はある。経験からお前に助言してやってるんだ、聞く耳を持てよ」
彼の怒りは、やはり親という既存のものを模したような、形式的な台詞に思えた。
「言ってることは分かってるわ。そっちの言い分を私は否定したおぼえはない。サキとシオンが色々やってきてなきゃ、いろんなことがよくならなかったのだって分かってる。でも、分かった上で私は霊媒師をやりたいの。だからサキもシオンも私のことを分かってよ!」
「分かってるわよ、大丈夫。でも、私たちは心配なのよ? あなたのことが、大切だから」
シオンは彼女をなだめるように優しく語りかけたが、逆にその言い方が彼女の神経を逆撫でした。ついに激怒した里紗は、震える唇でうなるように言い放った。
「そんな愛なら……いらない……」
あ、なんて酷いことを言ってしまったんだろう。
そう思った瞬間に、堰を切ったように涙が溢れ出してきた。それを隠すかのように、里紗は走って出て行った。
「里紗!」
母親が彼女の名前を呼ぶ。それでも少女は止まらず、あわてて父が彼女を追いかけた。里紗は階段をかけおりて、自分の部屋に行って帽子とコートとマフラーを身につけた。学校の鞄を肩にかけ、部屋から出ようとしたその時、
「どこ行く気だ、もう外は暗いぞ」
父親がドアの前に立っていた。
「関係ないでしょ!? 私のことに口出ししないで!」
驚きはしたものの、彼女も毅然とした態度で返す。
「里紗!」
里紗は彼のわきを抜けて廊下を走り、玄関にちらばったローファを足先で転がして足を入れた。
「もうこんな家、二度と帰らない!!」
彼女がドアを開けながら放ったその一言に、伸ばそうとした手まで凍りついた父親の表情が目に入った。里紗はそれを振り切って家を出た。



里紗はひとりでシュンの家にいるあいだ、ぼんやりと家を出てきたときの両親との会話を思い出していた。外には雪が降っていた。白色は嫌いだったが、彼女は不思議と雪だけは好きになれた。闇の中をひらひらと舞い降りてくる雪は、どんな偏見の目を持ってみても、本当に美しいのだ。
結局シュンは、日が落ちる頃まで帰ってこなくて、ただ一通、「飯はてきとうに作って食べててください。食材がなかったら買ってきて。金はあとで返す」とだけメールが来た。
……このメール、どのタイミングで打ったんだろう。だってどうせ、“そういったこと”になっているのだろうし。
と、里紗の頭を一瞬下世話な疑問がよぎる。しかし、今まで泊まっていくことなんてなかったし、絶対にそうだろうと思った。恋人じゃないって言ってたけどな、まあそうなるのが当たり前よね、と彼女は無理やり自分を納得させようとしたが、やっぱりそれも上手くいかなくて、生まれてはじめて味わう失恋の痛みに、いつもよりしょっぱい涙が出たような気がした。
ガチャン、と鍵があく音で目を覚ました。
「……おかえり」
「おっ、ごめん起こした? ただいま」
「大丈夫よ。そろそろ起きるつもりだったし」
里紗はベッドから出て立ち上がりながら言った。
「それから……昨日は、ごめんなさい」
「え?」
ソファに腰をおろして、リモコンを手にとったまま、シュンが静止する。
「一緒に帰ってくれないと帰らないとか、わがまま言って、ごめんなさい」
「ああ、いや……そんなん別に気にしなくていいよ、あのさあ、」
「新幹線で帰るわ。シュンに送ってもらうのも、悪いし」
里紗はシュンの顔を見ないように、言葉も真面目に聞かないように、ただ一方的に話し続けた。
「あのさあ、里紗」
が、さえぎられた。
「……何?」
「俺、一緒に東京に行くことにした」
里紗が驚いて言及する前に、彼は説明を続けた。
「今朝、クレアと話して決めた。お前がサキさんたちの娘だってことは、俺にもまだ縁が残ってたってことなんじゃないかって思ってさ……ずーっと長い間、怖くて帰れなかったけど、このチャンス逃したらもう今度こそ本当に次がない気がしたから、一緒に帰りたい」
「ホントはシュンも、帰りたいと思ってたのね?」
「……ホントのホントはね」
そう言ってシュンは力なく笑ってみせた。
「でも、顔を出したらすぐにこっちに帰ろうと思ってる。だからずっと一緒にはいられない」
「私、シュンがいなくても平気よ。すぐには無理だけど、じきに、ひとりでも大丈夫になる」
彼女はシュンを気負いさせないように明るく言ったが、自分でも理由が分からないままに、なんとなく目頭が熱かった。
「里紗なら大丈夫だよ。あ、あと……クレアも一緒に帰る。カエデに会って謝るってさ。だから、俺たち3人とも、家出逃亡生活はおしまいってこと」
この一歩を踏み出さなければ、それ以上前に進むことは出来ない。
明らかによい方向に向かっているというのに、里紗は到底素直に喜べる気がしなかった。家出生活はこれで終わり。シュンとも、もう少しで遠く離れてしまう。
「里紗が朝飯を食べて、荷物をまとめたら車を出すよ。途中でクレアを拾って、そのまま東京まで走る」
「……」
「いいよな?」
里紗は一点を見据えたまま、しかめっつらでただ一度深く頷いて見せた。
用意を終えて、家を出ると、雪がつもっていた。夕方とはいえ薄暗い空の下、つるつるすべる雪の上を歩くのはとても危険だ。なるほど、暖かい家の中で眺める粉雪は、疑いようもなく美しい。しかしそれが美しいのは、自分とは関係のないところにあるからかもしれない。実際の雪は冷たく、雪の中を歩くのは辛い。
目指すべき心理が、彼女には理解できた気がした。
実態を知った。現実は冷たかった。しかし、美しさに恋焦がれた感動は、その醜い内面にも揺るがされはしない。


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