「ねえ、なんで日本に戻ってきたのに、国営の会社に戻らなかったの?」
「え……?」
「絶対サキとシオンも、シュンに戻ってきてほしいと思ってるはずだよ」
そもそも、運が悪すぎる。
シュンは思った。どうしてたまたま拾った家出少女が、かつての上司の実の娘なんだ。いや、運よりも、悪いのはやっぱり里紗を拾った自分か? やっぱり自分の行動が過ちだったのか?
後悔しても、なんにもならない。でも、そのふたりの名前が出てくるのだけは、本当に勘弁してほしかった。ふたりは本当によくしてくれたのだ。優しかった。シュンも彼らのことが好きだった。
でも、裏切った。
「戻ってきてほしいなんて、思ってないよ」
彼らの中ではもう自分は死んでいるのだから、もう気にしないで生きていけばいいだろう、と思っていた。しかし、今は事情が違う。安否が知れてしまったからには、もう逃げ隠れできない。"ハル”なら帰ってこられた。でも、”シュン”には無理だ、と彼は途方に暮れる。



「……はい」
「もしもし、ハルか?」
懐かしい声だった。優しい、低い声。サキの声は、父親になってさらに深みを増していた。ああ、里紗は幸せだなあと思う。こんないい父親を持って。あんないい母親を持って。
ちゃんと親孝行して、ちゃんと生きてもらわなきゃ、困る。自分なんかと、こんな生活を長々とさせているわけにはいかない。
しかし、冷静にそう思う反面、シュンはその声を聞くや否や、泣きそうになった。
「はい、」
「馬鹿野郎、元気か?」
「ごめんなさい……」
というか、泣いた。
電話は、クレアの家で酒を飲んでいるときにかかってきた。里紗は誘ったのに来なかったので、ふたりで飲んでいた。窓際に立って電話していたシュンが、急に泣き出したものだから、チューハイの缶を片手に持ったまま、クレアは口をあんぐり開けて静止している。
「何泣いてるんだよ、元気か? 元気ならいい。元気ならなんだっていい」
「げ、元気です、すみません」
すっかり17年の歳月が巻き戻ったような錯覚が起こった。サキの接し方は、昔と何一つ変わっていなかったからだ。
「そうか。よかった。あのな、うちの馬鹿娘だけど……もしお前が迷惑じゃなかったらでいいんだけどな? あいつの気が済むまで、そっちにおいてやってくんないか? もう引きずり回していいから」
彼の口から出たのは、意外な言葉だった。
「え?」
「あいつ頑固だからさ、ちょっとそういうのも必要だと思うんだよ。あ、ハルが嫌ならいいんだよ? すぐ迎えに行く、俺が」
「い、いや、俺はいいんです、全然」
「マジで? じゃあ頼んでいいかな」
「構わないんですけど……今日、里紗ちゃんは、"東京に帰る”って言ってました。ただー、その、」
「ただ?」
「俺に一緒に来てほしいって……」
電話口で沈黙が流れた。嫌な時間だ。シュンは顔をしかめながら、返事を待った。
「ふーん。戻ってきちゃえば? ハルも」
心臓が止まりそうになった。
「……っいや、俺は……」
「なんでだよ、俺は戻ってきてほしいなー……あ、シオンも戻ってきてほしいって言ってる」
と、彼の声は楽しそうだった。
「あ、の、考えます! 考えますから……もうちょっと待ってください……」
シュンは苦し紛れにそう言った。でも、最初から答えはNoだった。そんなのは、誰がなんと言おうと無理だ。
「うん、分かった。じゃああとちょっと、里紗のことよろしく。ありがとな、あいつのことかこってくれて」
彼は追及しなかった。それに心のそこから感謝した。やっぱり自分はこの人のことが好きだ、と再確認する。昔からあんなによくしてもらっていて、そのうえ今も、気を使ってもらって。そんな人を裏切った。
自分に帰る資格なんて、いっさいないだろう。
「いえ……すみません」
「いやー、里紗拾ったのがハルでホントによかった! 安心して任せられるもんな。まさに不幸中の幸いってやつだ」
その言葉に、シュンの引っ込みかけていた涙が、一瞬にしてぶりかえした。
「そんな……じゃ、じゃあ、失礼します」
耐えかねてこちらから電話を切ってしまった。泣いたのなんていつぶりだろう。もしかしたら17年ぶりかもしれない。涙がこんな厄介なものだったと、やっと思い出した。あとからあとから、止まらない。
「大丈夫? どうしたの?」
クレアが心配してシュンの真後ろまで来ていた。シュンはそのことにやっと気付いて、少し驚いた。
「うわっ」
「誰? 電話」
「あのー……前の職場の、上司」
「うそっ、どうして?」
ふたりは改めてダイニングテーブルにつきなおした。シュンはパーカーの袖で目をこすりながら、顎にひっかけたマスクをはずした。
「里紗の両親が、俺の元上司だったんだ」
「そんな奇跡みたいなことってあるの……」
「それがあったんだよ」
シュンはティッシュを一枚取って、立ち上がってキッチンに向かいながら鼻をかんだ。
「しかも里紗は、シュンが一緒に東京に帰ってくれないと帰らないとか言い出すしさ」
彼はキッチンのゴミ箱に丸めたティッシュを投げ込みながら続けた。
「戻れねーっつーの……」
力なく笑う彼を見て、クレアは眉をハの字にした。そしてばつが悪そうに顔をそむけながら、髪の毛をかきあげる。
「戻りなよ。もう、過去のことなんか忘れてさ」
「俺とお前ら家出少女を一緒にすんな!!」
いつものように声を荒げてから、シュンは彼女の顔を見て我に返る。
「……あー……まあ、悪いのは俺なんだから、そんな怒鳴る資格ないけど……」
「違う、」
クレアは何度もかぶりを振った。今度は彼女の瞳が潤んでいた。
「悪いのは私」
「お、おい、泣くなよ……お前が泣くことないじゃん……」
「ねえ、私たち、ふたりとも泣いて……馬鹿みたい」
「ホントだよ」
ふたりは耐え難い絶望感を拭い去りたい一心で、無理やりに笑いあった。
“私の代わりに、あの馬鹿娘を守ってやってくれないか”というカエデの声が頭をよぎる。
忠実になろうとしすぎた。そしてやはり、クレアのことが可愛かった。大切だった。ほんの小さい頃から知っているのだから当然だ。彼女を守りたい気持ちは、自分もカエデも一緒だったと思う。そう考えているうちに、シュンの頭の中に、ある記憶が再生され始める。


「なんだ? お前。この女の彼氏か?」
下衆びた声で笑う人間が、複数。薄暗い地下室の奥には、手足を縛られ暴行され、息も絶え絶えになっている、クレアの姿。
「クレア、」
「ちょうどいいや、こいつも殺っちまおうぜ」
人間のひとりが言い、一番手前にいた男がシュンの頬を拳で殴ろうとした。それを軽く交わし、そのまま彼は数人の人間を素手で打ち負かした。致命傷はひとつも与えていないし、正当防衛だった。そこまではたしかに、問題なかった。
「い、いいから先に女だ! さっさとやれ!」
後ろのほうで見ていたリーダー格らしき男が、シュンにおそれをなして指示を出す。
「やめろ、その子には触るな!」
思わず走り寄る。が、クレアにとどめを刺そうとした男の手には、ナイフが構えられていた。シュンが駆け寄ると、男は彼にナイフを向けた。
「それ以上こっちに来ると、刺すぞ」
「ああ、いいさ。刺せよ」
怖くなどなかった。何度も死に損なった命である。しかし、そこで死んだらクレアを誰が守るのだろう、とは思った。男は鼻を鳴らして笑い、シュンにナイフを刺すと見せかけて、すぐさま方向転換、クレアに刃先を振りかざす。
「やめろ!!!」
自分でも何が起こったかわからなかった。ナイフが宙を舞って、カランカランと音を立てて落ちた。男が胸の辺りをかきむしって苦しみ始める。そして、気づけば男は倒れこんで、目を剥いて、泡を吹いていた。
死んでいた。
その死に顔は、藍が現れたあの夜、彼が殺したかつての師匠と弟子たちの顔とまったく同じだった。
「おい、コイツ、やべーよ!」
人間たちは、突如死んだ仲間を見て、いっせいに逃げていった。自分も同じ目に合わされると思ったのだろう。
シュンはただ、その場に呆然と立ち尽くしていた。


うつむいていたシュンが急に咳き込んだので、クレアはびっくりして飛び上がりそうになった。
「だっ、大丈夫? シュン、顔、真っ青よ?」
「なあ……やっぱり人殺しは戻っちゃいけないよな?」
目をあげたシュンの顔は、いつもの彼の顔ではないように見えた。クレアがさすがに本気で心配して立ち上がり、少し寝るように提案するも、
「やっぱり俺はずっとここで隠れて生活してたほうがいいよな?」
と、彼は必死の形相で言い、彼女に掴みかからんばかりに詰め寄る。
「ねえシュン、何言ってるの? 落ち着いて?」
後ずさりするうちに、クレアの背中が壁にぶつかった。
直後、シュンは後ろの壁に手をついて、彼女の首筋に顔をうずめた。そして、
「どうしていつも俺ばっかりこうなんだ」
と、うめくように呟く。
「ごめん、怖かったよな……こんなこと思い出したくなかったのに」
クレアの心臓は恐怖に大きく高鳴っていた。しかし、気丈なふりをして返す。
「シュンは何も悪くないわ」
「……いまさらどうにもできない」
「どうにもできないことばかり気にして生きるのはやめて。お願いよ」
シュンがクレアを引き寄せて、彼女の背中は壁から離れた。
「こんなにずっと一緒にいたのに、初めて……抱きしめてくれた」
「お前、でかくなったな」
「そうよ、ずっとあなたのそばにいるのに、知らなかったの?」
「近すぎて分からなかった」
「ずっと、あなたを支えてたのは私なのに、気付かなかったの?」
「ごめん」
「もう子ども扱いしないでよ……私、もう小さい女の子じゃないのよ」
「ごめん」
「謝ってばっかりじゃない」
「ご……いや、申し訳ないことばっかりだな、と、思って」
クレアは顔をあげて、ずいぶん落ち着いたらしいシュンの顔を見上げた。そして、両腕を彼の首にまわして、キスした。
「……風邪うつるぞ」
「今それ言うこと?」
彼女はあきれてすこし笑った。でも、慣れているようで意外と照れる、そんなところも全部好きだった。
「今日はもう全部忘れよう」
「え?」
「難しいことは明日また考えればいいわ。だから、今夜は脳みそが空っぽになるぐらい、愛して」
クレアは自分で言っておきながら、カッと頬が熱くなって、ごくりと聞こえるぐらいの音で生唾を飲み込んだ。


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