剣術を教えてくれと里紗がしつこく頼むので、シュンは空いた時間にふたりで近所の空き地に行って、彼女に稽古をつけてやることにした。
彼自身の技術はあるが、いかんせん人に教えるのは不慣れなので、正直あまり上手く行っていない。
「今日は俺、具合悪いからサラッと倒してみ」
マスクをしたシュンがそう言って、竹刀を手の平にパシンと打ちつけた。マスクはほとんどいつもしていたが、今日は本当に風邪をひいた、と言っていた。
「シュンの“具合悪い”は大したハンデでもないじゃない……っていうかいっつも具合悪いし」
と、里紗は竹刀を握る手にぐっと力を入れて言い返した。風邪なら今日は稽古をしなくてもいい、と言ってはみたが、彼はまたいつものように大丈夫だから、と断った。カエデやクレアが、シュンを異常に気遣うわけも最近分かってきた。
「はいつべこべ言わなーい」
里紗は渾身の力を込めて竹刀を振り下ろした。が、彼女がどんなに全力を尽くしても、一振り、一振り、全て軽くあしらわれている。
「一回一回、迷いが見え見えだよ」
シュンは左手を上着のポケットに突っ込んだまま言った。里紗はなにくそと思って勢いを増すが、
「わっ」
彼の驚くほど重たい一撃で竹刀を弾き飛ばされ、尻餅をついた。
「俺の勝ちー」
「やっぱり全然ダメ……」
里紗は雑草の上にごろりとねころがって、藍色の空に呟いた。
「ダメじゃないよ。毎日ちゃんと上達してるよ」
「ホント?」
「うん。あーっ、さっみい、悪いけど今日これで終わりな。俺死にそう」
シュンは肩を縮めて空き地を走って出て行った。里紗もそのあとを走って追う。
「シュン、大丈夫?」
「うー? うん」
アパートの階段にさしかかって、シュンが急にペースダウンしたので、走っていた里紗は彼の背中にぶつかった。
「今日仕事は?」
「あるよ」
「行くの?」
「うん」
「熱は?」
「あ、」
また急にペースアップしたと思ったら、「吐く」と小さくうめいた。
「えっ」
彼は階段を駆け上がり、自宅のドアの鍵穴に素早くキィを挿し込み、大急ぎで中へ入って行った。
「大丈夫!?」
里紗が家に入ると、トイレのドアが半開きになっていて、嘔吐する生々しい音が玄関まで聞こえてきた。里紗は思わず顔をしかめる。彼は具合が悪くなるとすぐ吐き気を催す体質らしくて、おそらくもう吐き癖がついてしまっているから、そう気にしなくて良いと本人は言っていたが、気にしないなんて無理に決まっていた。彼女がブーツを脱いでいると、ほどなくしてトイレを流す音がして、青い顔をしたシュンが出てきた。彼はそのまま洗面所に直行したので、里紗はあわててあとを追った。
「大丈夫?」
蛇口から直接口に水を含み、口内をゆすいで吐き出してから、
「ごめん、平気」
とシュンはやはりそっけなく答えた。
里紗からは、寂しい背中しか見えない。彼女はふいに、強く見えていた彼の姿が、今にも消えてしまいそうな不安にかられた。
いつかは全てなくなる。
この寂しい季節には、幾度となく、現在必要もないはずの杞憂が頭をよぎる。そのたび、何を対象とするでもなく、彼女は気が狂いそうな深い悲しみに襲われた。
「……里紗?」
腰に巻きついた少女の細い腕に驚いて、シュンは振り向き、
「大丈夫?」
と言った。逆に心配されたことに憤って、里紗は腕にぎゅっと力を入れながら言い返す。
「シュンが大丈夫じゃないでしょ!」
「大丈夫だよ、なんだよ急に、ガキみたいに甘えて」
シュンは笑って里紗の腕をどけた。直後、むっとした様子で、里紗は走って洗面所を出て行ってしまった。
「あ、おい」
彼があとを追ってリビングのドアを開けると、里紗は敷かれたままの布団のうえに丸まって、肩を小刻みに震わせていた。シュンは黙ってその傍に腰を降ろすと、ばつが悪そうに小さな声で言った。
「ごめん、里紗」
里紗はその言葉に、布団に額をこすりつけて首を横に振った。
「シュン、私、本当に、ごめんなさい」
嗚咽にまぎれて、里紗は一言ずつ言葉を吐き出した。
「え?」
里紗はむくりと頭を持ち上げて、布団の上に行儀よく正座した。
「私、迷惑ばっかりかけて、シュンのために、なんにもできなくて……なのに、どうしようもなくて、いつまでもこうしていられるわけじゃないって頭では分かっているんだけど、怖くて、怖くて……」
両手で顔を覆って、子供のように泣き続ける彼女を、シュンは何か言うより先に、おずおずと抱きしめた。
「大丈夫、俺はあんたを追い出したりしないし、全然迷惑なんかかかってない。俺も最初はすぐ出て行ってもらうつもりでいたけど、今はもういいんだ……あんたがここを必要としてるし、俺もあんたを大切に思ってる。そうなっちまったもんは、仕方ないだろ」
「……大切に?」
「うん」
「シュン……ねえ、絶対ずっと傍にいてくれる? ずっと味方でいてくれる? 私が東京の家に帰っても、誰も私を認めてくれなくても、誰も私の言うことを聞いてくれなくても、シュンのことだけは、信じてもいい?」
必死に、すがるかのように、少女の手は彼の背中を強く押していた。
「いいよ」
「私毎日心配でたまらないの、シュンがふと突然いなくなってしまわないか、死んじゃわないか」
「なんでだよ、死なないよ」
シュンは笑った。でも、つられて泣きそうなぐらいだった。
「分かってる、でも、でもそういうときってあるでしょ!? 何もかも終わりが見え透いて怖いの」
「うん、ある……あるよ、俺にも」
彼は精一杯に優しい声色でそう答えて、里紗から離れて立ち上がった。
「俺、行かなきゃ」
「うん、ごめん」
「あのさあ……来る?」
「え?」
「仕事、見に来れば?」
「いいの?」
里紗は生まれて初めて、夢にまで見た霊媒の実態をその目で見ようと、その仕事場に赴いた。
彼女は先ほどまでの憂鬱を吹き飛ばすほどに、その提案に胸をときめかせていた。しかし、駐車場に辿りつくまでの数分の間にも、何度も咳き込んでいるシュンのことはやはり気がかりでならなかった。
彼が車のキィをポケットから取り出したとき、ちょうど彼の携帯に電話がかかってきた。
「はい」
車に乗り込みながら、シュンは会話を続ける。里紗も助手席に座った。
「……うん、それで? ……なんだよ」
シュンの表情や喋り方から推測すると、相手はおそらくカエデだろう。
「はぁ!?」
シュンが突如、声を荒げた。里紗はびっくりして飛び上がりそうになった。シュンは彼女に向かって手で「ごめん、ごめん」と詫びながら、
「え、え、ホントに? それホントに?」
と訊き返した。何があったのだろう。明らかに良い知らせではないようだ。
「感動してる場合じゃないだろ、ホントかよ……あっ、おい、待てよ、まだ……! 切りやがった」
シュンは舌打ちして携帯を耳から外し、ジーンズのポケットにねじ込んだ。
「何? どうしたの?」
彼は答えず、シートベルトを締めて、エンジンをかけた。車がゆっくりと発進する。心なしか、さっきより更に彼の顔が青ざめたように見えた。
「ねえどうしたの?」
「聞く? マジで聞く?」
「教えてよ」
「俺にとってもすごい悪いニュースなんだけど、お前にとってはもっと悪いニュースかもしんないよ。聞く?」
「……聞く」
なんだか嫌な感じがしたが、気になることに変わりはなかった。里紗は覚悟を決めた。何を言われても、できるだけ傷つかないように。
「あんたの両親、サキとシオンっていうんだろ?」
「え、うん。そうよ」
彼女は早くも一気に動揺した。一言も教えていないことが、何処から分かったのだろう。
「二人ともな、俺の昔の上司なんだ。加えて、カエデはふたりの古い友人……今日、カエデはサキさんと会ってきたらしい。それで、近々本人から俺に連絡があるとか」
里紗は全身から血の気が引いたようだった。
もう、本当に、こんなのん気なことをいつまでも続けている場合ではないらしい。
「つーわけだから、あんまり長く匿ってるわけにもいかなくなった」
「どうしよう……」
「こっちの台詞だよ」
と、シュンは笑ったが、その顔は明らかにひきつっていた。両親は、シュンにとって何かまずい要素なのだろうか? 里紗は考えてみたが、戦争以前にいた職員の話など親の口から聞いたことはないし、てんで見当がつかなかった。
「シュンは昔、東京の国営にいたのよね」
里紗は恐る恐るそう問いかけた。自分にとって、自分の生まれる以前の歴史は、閉ざされていた。そして、シュンは戦争より以前のできごとを閉ざしていた。
それを知ることが、自らにとって、プラスになるのか、マイナスになるのか、きっと後者になる確率のほうがはるかに高いとは思うが、里紗はそれを知る必要があると思った。
あのとき散った全ての命を背負って生まれた自分が、その十字架に刻まれたものを、しっかりと目にすることが、必要だと思った。

back
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -